1.9 こんなにも、何も伝えられない
すぐに医師を呼べば、アシェリーは一度意識を取り戻した。だが、詳しい診察を受けている間に、再び眠りに落ちてしまった。体に問題は見つからず、安静にしていれば良いとの診断だったので、待つ以外になかった。
翌朝になってもアシェリーは眠り続けた。彼女が目覚めるまで側についていたかったが、ウィルフレッドには早朝から聖騎士としての任務がはいっていた。
王都の聖騎士団の所属ではなくなったウィルフレッドだが、国を守る聖騎士としての仕事は、当然このヴェリタールにも存在する。ヴェリタールを含む北部所属となったウィルフレッドは、ヴェリタールに存在する古代の転移魔法を記憶した『ゲート』から任務で異大陸へと向かうことになっていた。現在、転移魔法を使える人間は絶えてしまったといわれており、ゲートとその周辺施設は聖騎士団により厳格に管理されている。
後ろ髪をひかれる思いでウィルフレッドは、アシェリーのことを父と兄に頼み、任務に向かった。
ゲートを抜け異大陸にある隣国に入国し、聖ローエンベルク王国が権利を持っている希少鉱物の採掘作業の護衛にあたる。
隣国の協力もあって作業は順調に終了し、ウィルフレッドは予定通り帰国の途についた。
北の大地はまもなく短い夏を迎える。アシェリーの誕生日が近い。何を贈れば喜んでもらえるだろうかと、ウィルフレッドはそんなことを考えて、ゲートに入った。
ゲートを抜けて、再びヴェリタールへ。建物の外、厩舎で待機させていた馬の状態を厩務員と確認していると、広大なヴェリタールの美しい草原で、フェアファクス家の旗が風で揺れているのが見えた。何人かの騎士を伴って、こちらに向かう馬上の男は、兄だった。
わざわざ迎えにくるなんて、何が? と怪訝に思った瞬間、ウィルフレッドの視界にはいってきた光景に、息が止まりそうになった。
兄の横に馬を進めて、ウィルフレッドに気がついたのかアシェリーが手を振っていた。
すっかり上手くなった手綱さばきで、アシェリーは馬をこちらへと走らせる。
緑が力強く濃くなった草原。どこまでも晴れ渡った、抜けるような青空。その景色の中を、アシェリーが駆ける。一つ一つが、まるで絵画のように美しくて、ウィルフレッドは言葉を失っていた。
ウィルフレッドのところまできて、アシェリーが馬を止める。
周りの聖騎士達が、からかうような視線で見守る中、歩み寄ったウィルフレッドの前で、アシェリーが馬から降りた。
「ごめんなさい。あなたの帰りを待てなくて、無理を言って連れて来て貰ったの」
頬をかすかに赤く上気させ、アシェリーはウィルフレッドをとても嬉しそうに見つめた。
「ウィルフレッド様、おかえりなさい」
言いながらアシェリーは、泣き出しそうな笑顔を浮かべた。ウィルフレッドの胸が、言葉にならない喜びで満たされる。ウィルフレッドはほほえんで「ただいま」と言おうとした。
だが、何か異質な気配を感じて、ウィルフレッドは反射的に振り返った。息をひそめていた何かが、ゲートのある建物から飛び出した。
黒い影が矢のように走る。そこにいた皆の一瞬の隙を突いて、聖騎士達の合間を縫い、ウィルフレッドに迫った。
ハイエナのような姿で、鋭い角が頭部にある魔獣。異大陸側で、採掘作業中に集団で襲ってきたので討伐した。仲間を失い、どうせ一匹では生きていけないと、一矢報いようとしているのか。
魔獣は狡猾で、常に弱いものを襲おうとする。魔獣の目指す先は、ウィルフレッドではなかった。この場所で一番、かよわい存在。
魔獣はアシェリーに襲いかかった。だが隣にいたウィルフレッドが、飛びつくようにしてアシェリーを胸に抱く。
魔獣は、すぐに他の聖騎士達に討たれた。
「ウィルフレッド様……?」
「…………」
アシェリーがこくりと喉を鳴らし、恐る恐る尋ねる。ウィルフレッドは答えることができなかった。
彼女の背中にあった腕が、力なく落ちる。腕だけでなく、重力に逆らえなくて、ウィルフレッドはがくんと膝をついた。
アシェリーの、声にならない悲鳴が聞こえた。
重すぎて首が下がる。自分の胸が視界に入って、魔獣の頭部にあった鋭い角の先端が見えた。角は背中から貫通していたが、アシェリーまでは届かなかった。それなら良かったと、ウィルフレッドは遠のく意識の中で思った。鮮血で衣服が汚れ、血だまりができつつある。
ウィルフレッドは、急ぎヴェリタール城内に運び込まれた。だが胸の風穴は、同行していた聖女の回復魔法が及ばない程にひどかった。ほぼ致命傷といえる傷を受けた体の治癒は、どれだけ高位の聖女でも無理だろう。
「何をしている! 早く回復しろ!」
「閣下、しかし、既に回復魔法は――」
「ふざけるな! 絶対に死なせるな!」
「父上、おやめください! 聖女達も力を尽くしています! ……ウィルフレッド、頼むからしっかりしろ!」
父と兄の叫び声が、ウィルフレッドの耳にも届いていた。
自分なら大丈夫だからと、返事をしようとするのだが、どうしたことなのか、声が出ない。
「ウィルフレッド様!」
泣きながら呼ぶ女性の声。アシェリーだ。そう思ったら、閉じかけていたまぶたが少しだけ持ち上がった。
「お願い。お願いだから、死なないで」
彼女の瞳からは絶え間なく大粒の涙が溢れ、ウィルフレッドの頬を濡らしていた。どうか、そんな風に泣かないでくれとウィルフレッドは思う。
「ウィルフレッド様。私、思い出したの」
「…………」
「お願い、伝えたいことがあるの。私、あなたが――」
ウィルフレッドは自分の意志とは関係なく、まぶたを閉じていた。
疲れた、とても。でも最後に、もう一言だけ伝えたい。
「ウィルフレッド様を助けて! お願い、誰か!」
あなたが、好きだ。
ウィルフレッドの言葉は、声にはならなかった。死は突然で、こんなにも、何も伝えられない。
命の灯が消えるのを感じながら、ウィルフレッドは心の中で父と兄に先に逝くことを侘び、アシェリーの幸せをただひたすらに、願った。