1.8 夜空の色
アシェリーがヴェリタールに滞在して、ひと月が過ぎた。記憶は戻らなかったが、アシェリーは少しずつ元気になっていた。
ハイラント公爵も一度、ヴェリタールまで足を運んできたので、かつて王都の聖騎士団で共に過ごしたというウィルフレッドの父も喜んだ。ハイラント公爵は、王都で見送った時より随分明るくなったアシェリーの表情を見て、安堵しているようだった。
ウィルフレッドと、フェアファクス家所属の騎士にも守られて、ヴェリタールで最も人気のある温泉地にも出かけた。北の雄大な大自然に抱かれ、白い岩場に沸き出た湯が、青白い湖のように広がっている。「こんな場所は初めて」と、侍女達を誘って一緒に足を温めながら、アシェリーは嬉しそうに言ってくれた。
またウィルフレッドは、アシェリーに乗馬も教えた。いつか約束したように、アシェリーの気持ちが向けば、狩りに連れて行こうと思っていた。かつてのように弓を使おうとはしなかったが、乗馬で体を動かしてアシェリーは、少しずつ体力を取り戻していった。
ヴェリタールで、アシェリーはことさら夜空を見るのが気に入ったようで、よくバルコニーに出ては空を見上げていた。
初夏でも夜は空気が冷たい。飽きずに空を見ていたアシェリーに、ウィルフレッドは後ろからマントをかけた。
「ウィルフレッド様」
「風邪をひく。そろそろ部屋に入った方が良い」
「ええ。でも、見て。星が本当に綺麗なの」
アシェリーに促され、ウィルフレッドは天を仰ぐ。銀色の輝きを散らして、紫みを帯びた、深く濃い群青色の空が広がる。
「王都とは違うわ。すごく綺麗」
「ここは空気が澄んでいるから、こんなにも空が明るくて美しい」
ウィルフレッドの言葉に、アシェリーはうなずいた。一面に広がる輝く星の海。今にも空から零れ落ちてきそうだ。
「……本当に、綺麗」
ため息を漏らすようにアシェリーはつぶやいてから、何を思ったのかウィルフレッドの方に向き直った。彼女はウィルフレッドの瞳の奥を覗き込もうと、背を伸ばす。
「……どうした?」
「やっぱり、同じ」
いつもより顔を近づけられて、ウィルフレッドは思わず一歩後ろにさがる。アシェリーは無邪気にきらきらと目を輝かせながら、それこそ星にも月にも劣らぬような、まぶしいばかりの笑顔だった。
「ウィルフレッド様の瞳の色も同じだわ。あなたの瞳は、夜空の色ね」
明るい星明りの下で、ウィルフレッドは自分がどんな表情をしているのか分からなかった。
ウィルフレッドの瞳は、亡くなった母と同じ色をしていると、父から言われたことがある。幼き頃に死別してしまったせいで、はっきりとは覚えていないが、絵画の中で会える母は、たしかに夜空のような瞳をしていた。
だから、母と同じ特徴を、アシェリーに見つけてもらったことは嬉しかった。そう伝えようと思うのだが、ウィルフレッドは言葉に詰まってしまう。そんなことを言って、軟弱な印象を与えてしまうのではと心配になった。
ウィルフレッドがどう言おうかと迷っている間、にこにこと曇りない笑みを浮かべていたアシェリーは、しかし次の瞬間、ぴたりと動きを止める。
それからアシェリーはゆっくりと目を見開いた。穏やかだった水面に突然小さな石が落ち、波紋が起きたような変化だった。
「私――」
「……どうした?」
アシェリーがよろめいた。ウィルフレッドは慌てて腕を伸ばして彼女を支えたが、アシェリーはここにはない何かを見ている様子で、頭を両手で押さえた。
「……今、何か。私、思い出しそうだった。でも、頭が。痛い……」
「落ち着いた方がいい。無理は――」
「ウィルフレッド様……」
顔を上げたアシェリーの大きな瞳と目が合った。彼女は、震えながらウィルフレッドの腕をつかむ。何かを言いかけ、しかしそのままアシェリーは失神し、ウィルフレッドの腕の中に倒れた。
「アシェリー嬢!」
ウィルフレッドはすぐに彼女の口元に手を添える。顔面蒼白ではあるが、呼吸はしていることに心底ほっとして、彼女をすぐに横抱きにした。
くたりとウィルフレッドの胸に抱かれるアシェリーの体はすっかり冷えてしまっている。ウィルフレッドは彼女を守るように大切に抱き、急ぎ部屋へ運んだ。