1.7 これからはあなたの
ウィルフレッドとアシェリーは、王立学院の卒業を待たずに、ヴェリタール辺境伯領へ出発した。
迎えに行ったブライトウェル家でアシェリーは、美しい瞳を潤ませ、涙が落ちるのを懸命にこらえているようだった。彼女の不安は、計り知れない。
「申し訳ありません。私は、あなたのお名前すらも、分かりません……」
「ウィルフレッド・フェアファクスと申します。どうかお気になさらず、あなたの体を第一に考え、ヴェリタールでゆっくりとお過ごしください」
ウィルフレッドが手を差し出すと、アシェリーは少し逡巡し、それからそのほっそりとした手を重ねた。
娘を見送るハイラント公爵は、表面上はあくまで冷静を保っていたが、「娘を頼む」とウィルフレッドに告げた時、アシェリーと同じその美しい淡く青い瞳が、不安と悲しみで揺れているのをウィルフレッドは見逃さなかった。
本当は、アシェリーを遠方に送りたくはないだろう。だが王都にいて、婚約破棄になった令嬢だといらぬ注目を集め、アシェリーを傷つけたくはなかったのだろうと、ウィルフレッドはその心中を推しはかった。
多くの荷物と幾人かの侍女を伴って、五日程をかけて、ヴェリタールへ向かう。
道中、馬に乗ったウィルフレッドは、何度もアシェリーの乗る馬車の中を確認した。しかし彼女は青い顔をしていつも具合が悪そうに眼を閉じていたので、ウィルフレッドは彼女を無理に起こそうとはせず、彼女の側にいる侍女からその様子を聞くにとどめた。
行程に問題は生じず、無事にヴェリタールに到着した。
王都とは違い、北のヴェリタールでは春にも凛と冷えた空気が漂う。だが群生する『春の妖精』と呼ばれる紫に色をつけた草花が、ヴェリタールの美しい季節の訪れを教えてくれた。
馬車の外でアシェリーを待ち、彼女のために手を差し出すと、少し緊張した様子のアシェリーが、おずおずとその手を重ねる。
もともと細かった彼女が、また少し痩せたように見えた。華奢ながらも凛としていたアシェリーは、今はガラス細工のように、触れれば壊れそうだった。
ヴェリタール城に戻り、アシェリーと共に父であるヴェリタール辺境伯と兄への挨拶を済ませた後、アシェリーのために用意された部屋に案内した。
「お疲れでしょう。今日はゆっくりお休みください」
「ウィルフレッド様……」
久しぶりに視線が交わる。震えた声でアシェリーが言った。
「ごめんなさい」
「……何故、謝るのですか」
その理由が、ウィルフレッドには思い当たらなかった。
アシェリーはすぐにうつむいてしまった。泣いているのでは、とウィルフレッドは焦る。
「あなたに、私という重荷を押し付けてしまいました」
「重荷?」
ウィルフレッドは驚き、それからそんなことを言うアシェリーに、眉根を寄せた。
「あなたは、重荷なんかじゃない」
「……でもウィルフレッド様は、聖騎士になるために王都に来たと伺いました。これから王都で活躍するはずだったのに――」
「俺はこの地で生まれ育ち、いつかは戻ってくるつもりでした。それが少し早まっただけです。だからもう、そんなことを言わないでください。あなたが元気になってくれれば、それでいいのです」
「ウィルフレッド様……」
「ここは王都と同じくらい、豊かに物があるわけではありません。それでもあなたが不自由をすることのないように、できるだけのことはします。必要なことは何でも言ってください」
すると、顔を上げてじっとウィルフレッドを見つめていたアシェリーが、遠慮がちに言った。
「……では、お願いしたいことがあります」
「何でしょう」
「そのような気を使った話し方ではなく、できれば友人として気軽に会話をしてほしいのです」
控え目すぎるそのお願いに、ウィルフレッドは少し笑った。
「では、そうする。あなたとは以前も、こうやって話していた」
するとアシェリーはようやく、ほっとしたように小さく笑みを見せた。
「ウィルフレッド様は以前、セオドリック殿下の護衛兼友人だったと聞いたわ」
「ああ。そしてこれからはあなたの、護衛兼友人だ。どうかよろしく」
そして二人は穏やかな笑顔で、そっと握手を交わした。