1.3 木漏れ日の中で
ある初夏の早朝。王都は故郷に比べて気温が高いせいだろうか、ウィルフレッドは予定時間より早く目を覚ました。
どうせなら体を動かそうと、生徒達がまだ眠りの中にいる寮を抜け出し、学院の敷地内にある広大な森に入った。
森の中は気温も低く、鳥の鳴き声が耳に心地良い。足裏からは地面の柔らかい感触が伝わってくる。
しばらく歩くと、かすかに木々が揺れ動く気配がした。はっとしてそちらに目を凝らせば、薄闇色のフードで頭の大半を隠した小柄な男が、弓を手に立ちつくしていた。
次の瞬間、男は森の中へと走り去る。ウィルフレッドは声をあげた。
「待て!」
反射的にウィルフレッドは走り出し、すぐに追いついて男の弓を掴む。そのまま引きずり寄せようとしたが、男が弓から手を離して逃げようとしたので、ウィルフレッドも弓を放って男の肩を掴もうと、もう一度手を伸ばした。
このままでは捕まると察知したのか、男は振り向きざまに風を切るように勢いよく拳を叩きこんできた。
狙われたみぞおちを、咄嗟に左腕を落として守る。相手の細い体つきから、腕を折られるまではないだろうと思ってのことだ。だが予測に反してやけに重い衝撃が走り、ウィルフレッドはわずかに声を漏らした。
見た目とは不釣合いなその力に、ウィルフレッドは腕を押さえて眉間に皺を寄せる。何だ、この力は。
ウィルフレッドの様子に、小柄な男は狼狽えるような仕草を見せた。だがそれは本当に一瞬で、ウィルフレッドが思案する僅かな隙に、男は再び背を向けて走り出していた。
ウィルフレッドの頭の中で何かがかちりと切り替わり、体が戦闘態勢に入った。絶対に逃がさない。
ウィルフレッドはすぐさま駆け出して手を伸ばすと、左腕を男の首に巻き付けるようにして頭部を捕らえ、バランスを崩した男の両腕と背中の間に自身の右腕を滑り込ませ、締め上げるようにがっちりと固めた。
「……っ、う」
漏れ聞こえた声に、ウィルフレッドは動きを止める。
全身から血の気が引いたような感覚に襲われ、焦って両手を解く。
「……女、か?」
フード付きローブの下は、乗馬ズボンにロングブーツであり、そのいでたちのせいで、ウィルフレッドは小柄な男だと疑っていなかった。少なくとも、この王都に来てからウィルフレッドは、そのような格好をした女に出会ったことがなかった。
「…………」
女は荒くなった呼吸を整えるように大きく息をしながら、何も答えなかった。
相手が女であるという事実に内心は動揺しながらも、ウィルフレッドは眉根を寄せてその背中を睨んだ。
「……何者だ。顔を見せろ。でなければもう一度拘束する」
「…………」
ややして、女は観念したようだった。振り返り、手をフードにかけると、深く被っていたそれをゆっくりと取る。後ろで簡易に一つに結んでいた、美しい淡い金色の髪が、ふわりと零れ落ちた。
ウィルフレッドは、今度こそ本当に心臓が止まるかのような衝撃を受けていた。
一瞬の沈黙の後、かすれた声をあげる。
「……ア、シェリー嬢」
「…………」
目の前にいるのは、確かにアシェリーだった。だがいつも丁寧に髪型を整え、上品なドレスを着ている彼女が、簡素に髪を束ねて男装をしている。
ウィルフレッドは混乱していたが、すぐにはっとして血相を変えた。
「大丈夫か!? 怪我は!?」
そうとは知らなかったとはいえ、ウィルフレッドは先程、アシェリーを乱暴に拘束してしまった。
いつになく慌てたウィルフレッドに、視線を落としていたアシェリーはふるふると首を横に振り、おずおずと顔を上げてウィルフレッドと視線を合わせた。
「私は大丈夫。……ウィルフレッド様は?」
「……俺が? 何故?」
「その、私が……」
アシェリーはもじもじと、自分の手を胸の前で握り合わせていた。それを見て思い出す。先程の重い拳を。
「驚いた。あなたのどこにあんな力が?」
「……魔力を込めたの。私は属性魔法を持たないから、そういう使い方しかできなくて」
「成程。あれをまともに受ければ、しばらくは動けなかったかもしれない」
「……ごめんなさい。あなたにこんな姿を見られたくなくて。どうしても逃げたかったの」
いつのまにか視線を落とし、恥ずかしそうに顔を赤くしてアシェリーは身をちぢめた。
「でも、どうしてこんな時間に、そんな風に姿を隠して?」
「……淑女が、弓なんて持つものじゃないと、幼い頃から、父や兄達からきつく言われていて。でも、時々はこうして隠れて森に入っていたの。集中して、体を動かすと気持ちが良いから」
アシェリーが弓を持っていたのを、ウィルフレッドは思い出す。辺りを見回して、少し離れた場所に放り投げられてあった弓を拾いに行った。
戻ってきてそれを差し出せば、アシェリーはそっと手を出して受取った。
「魔力を込めれば、かなり強い矢が撃てそうだ」
「……岩でも割れるわ」
「すごいな」
素直に言ったウィルフレッドに、アシェリーは驚いたような表情をした。それから心配そうな声で、ウィルフレッドを見上げてくる。
「淑女がこんなことをするのは、恥ずかしいとは思わない?」
「恥ずかしい? いや、思わない。……だが、あなたの体は心配だ。魔力を込めて力を強くしても、衝撃にあなたの体が耐えられるとは限らない。手を見せて」
アシェリーは素直に、ウィルフレッドに打撃を与えたその手を差し出した。厚みがなく華奢なその甲に、ウィルフレッドは自らの手を重ねる。
「赤くなってる」
ウィルフレッドが魔力を込めると、細かい氷が霧のように発生して、アシェリーの手を冷たく包んだ。
「……ありがとう」
「あなたの家族も、同じ気持ちだと思う。弓を持つなと言うのは、きっとあなたに怪我をして欲しくないからだ」
アシェリーはこくりとうなずいた。彼女だって、分かっているのだと思う。
冷たくなりすぎないように、アシェリーの手を解放して、ウィルフレッドは笑みを見せた。
「でも俺は、体を動かすのは良いことだと思う。直接攻撃と違って、弓を使うなら、体の負担も少ない。いつかヴェリタールに来てくれたら、一緒に狩りに行こう。ヴェリタールでは女性も馬に乗り、狩りに出る。あなたは良い狩人になりそうだ」
乾いた風が吹きつける、広大な故郷の野原を思い出しながらウィルフレッドが言うと、アシェリーは見る間にその目を輝かせた。
「本当? 行きたいわ」
初夏の爽やかな木漏れ日の中で、アシェリーの純粋な喜びの表情がまぶしかった。
本当は、「セオドリック殿下と一緒に来たらいい」と続けようと思っていたのに、ウィルフレッドは結局その言葉を口にすることができなかった。