3.2 覚えていたかったのに
「ウィルフレッド様、私と踊ってもらえないかしら」
秋の新入学生を歓迎する舞踏会。一度目の時とは違う理由で、ウィルフレッドは壁に背中を預けて、ただ時間が過ぎるのを待っていた。
かつてと同じように誘ってくれたアシェリーの優しい声に抗うことはできず、ウィルフレッドは黙って従う。
音楽に合わせてゆっくりと踊り、目前でアシェリーがほほえむ。泣きたくなるくらい苦しかった。
「……アシェリー嬢」
「え?」
「俺は、ずっと昔にあなたに会ったことがあると、聞いた」
他でもない、アシェリー自身に。
アシェリーの表情からほほえみが消え、彼女は驚きで小さく目を見開く。
「……覚えているの?」
「いや、聞いただけで、俺自身は……」
「そうなの……」
アシェリーは少し残念そうには言ったが、すぐにまた穏やかな笑みを浮かべた。
「ずっと前のことだものね。あなたのお父様に、聞いたの?」
「……聖ローエンベルクの加護の日に、会ったと」
アシェリーの問いには直接答えずに、ウィルフレッドはいつわりのない心の内を吐露する。
「すまない、覚えていなくて。……覚えていたかったのに」
「……ウィルフレッド様」
その時、音楽が途切れた。ダンスの終わりに、ウィルフレッドは「もう一曲」と請うこともできずに、彼女からゆっくりと手を離す。
そのまま去ろうとしたら、アシェリーがウィルフレッドの袖を引いた。
「あの夜、大聖堂でお祝いの花火が上がって、あなたと会ったの。あなたは北の方から来て、そこでは星がとても綺麗だって教えてくれたのよ」
必死に言葉を続けるアシェリーに、ウィルフレッドは記憶をたどる。確かに聖ローエンベルクの加護の日には、いつもよりずっと遅くまで起きることを許されて、華やかに王都を彩る花火の大きさに、驚いたことをうっすらと覚えている。
再び音楽が流れ始めた。このままこの場所で立ち止まっていれば、目立つし、迷惑になる。ウィルフレッドはもう一度その手をアシェリーに差し出した。
「もう一曲。嫌じゃなければ」
「嫌だなんて。引き止めたのは、私だもの。ありがとう」
手を重ねて、ゆっくりとリズムに合わせる。アシェリーを見つめていると、美しい演奏も周囲のざわめきも、次第にウィルフレッドから消えていく。
「ずっと、いつか行ってみたいと思っていたの。あなたが教えてくれた、美しい星が見える場所へ」
ヴェリタールの美しい星空。銀色の輝きを散らした、紫みを帯びた、深く濃い群青色の空。かつてのアシェリーの笑顔が、鮮明に脳裏に浮かんでくる。
『ウィルフレッド様の瞳の色も同じだわ。あなたの瞳は、夜空の色ね』
それから彼女は確かに言ったのだ。何かを思い出しそうだと。もしかしたらそれは、遠い昔に出会ったウィルフレッドのことなのかもしれないと思った。それは単なる希望に過ぎず、もう知ることもできないが。
様々な思いが胸に去来して、ウィルフレッドは堪らなくなって目を閉じ、いつのまにか動きを止めていた。曲はまだ、終わってはいない。
「ウィルフレッド様? どうしたの? 具合が悪いの?」
心配そうな声でウィルフレッドの顔を覗き込むアシェリーに、ウィルフレッドはゆっくりと目を開け、できるだけ彼女を心配させないように笑みを浮かべた。
「いや、何でもない」
再び踊りはじめ、まだ心配そうな顔をしているアシェリーに言った。
「いつか、ヴェリタールの星空を見せたい。……セオドリック殿下と、一緒に来たらいい」




