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2.6 さようなら

 遠征に出る日の早朝、寮から出てウィルフレッドは聖騎士団に向かう。聖騎士団と王立学院の敷地は隣接しており、学院の広大な森の遊歩道を抜ければ、すぐに聖騎士団にたどり着く。

 遊歩道を急ぎ歩くウィルフレッドは、人の気配を感じて足を止める。木陰から出てきた人物に、息が止まりそうになった。


「ウィルフレッド様」


 言いながら、薄闇色のフードに手をかけると、深く被っていたそれをゆっくりと取る。アシェリーだった。美しい淡い金色の髪が、ふわりと揺れて、ウィルフレッドは既視感を覚えた。アシェリーはあの時のように男装でも、簡易に髪を結んでいるわけでもなかったが。


「……アシェリー嬢? こんな早くから一体――」

「あなたが遠征に向かうと聞いて……」


 アシェリーはまだ迷っているようにうつむきがちに言って、それでもやがて顔をあげた。彼女は思いつめた目をしていた。


「今回の遠征は、とても危険だと聞いたの。本当は、ウィルフレッド様のように若い聖騎士が参加する遠征じゃないって……。だから、すごく怖くて。あなたに何かあったら……」

「……アシェリー嬢」

「ごめんなさい。あなたにこんな風に声を掛けるべきではないと分かっているの。でも、自分でもどうしようもなくて。こんなに気持ちが乱れるなんて、思わなかった。あなたと会ってから、私――」


 どうすればいいのか分からないと、途方に暮れた様子でアシェリーは言葉を選んでいた。しかしやがて言葉を失ってしまう。

 沈黙が二人の間を支配して、アシェリーは完全にうつむいてしまった。


 どうしようもなくても、アシェリーは多分、ウィルフレッドを心配してくれている。その事実が、ウィルフレッドを慰めた。だからウィルフレッドは、笑うことができた。


「あなたに伝えた俺の気持ちは、今も変わっていない」


 そう告げるとアシェリーは、はじけるように顔を上げた。彼女の目が揺れ、僅かに潤む。


 アシェリーは、ウィルフレッドの記憶の中にいる彼女と、今現実にいるアシェリーが、本当に同じなのかと言った。答えは、今もない。でも、前の時よりもずっと遠い存在になっても、アシェリーへの気持ちは、何も変わっていない。


「前に、あなたが言ったことも理解できる。結局俺は、何も説明できない。……それでも、あなたが好きだ」

「……ウィルフレッド様」

「でもあなたは、セオドリック殿下の婚約者だ。これ以上もう、困らせることはしたくない」

「私――」

「アシェリー嬢。あなたが俺を心配してくれた。それだけで十分だ」


 アシェリーの瞳から涙が零れ、白い頬を滑り落ちていった。ハンカチを差し出して、あるいは自らの手で、彼女の涙を拭いてあげたかった。でもそうすることを、ウィルフレッドは自分に禁じた。ただその涙の美しさを、決して忘れないと思った。

 ウィルフレッドは小さくほほえんだまま、別れを告げる。


「さようなら、アシェリー嬢」


 立ちすくむアシェリーを置いて、ウィルフレッドは彼女の脇を通り過ぎて、振り返らなかった。

 アシェリーの震えた声が背中に届いて、ウィルフレッドの胸に切なく響いた。


「ウィルフレッド様、どうかご無事で」


 それからすぐに、王都から南に位置する比較的大きな村に向かって出立した。ティエル湖は、その村のすぐ側にある青く美しい湖で、ほとりには青々とした木々が立ち、湖にその姿を映していた。


 眩しい夏の陽を照り返してきらきらと光る水面に、時折まるで噴水のように白いしぶきが上がる。水棲魔獣が活発に動いていた。漁場としても、観光地としても、ティエル湖は村の重要な収入源であり、村の兵士では手に負えなくなってきた魔獣の討伐が、聖騎士団に依頼されていた。

 聖騎士達は、戦闘の前に周辺の住民を十分離れた場所まで避難させた。ウィルフレッドの記憶では、逃げ遅れた子供が二名、犠牲になっていた。ウィルフレッドは何度も周辺住民に確認した。逃げ遅れた子供がいないかと。


 避難に問題がないことを確認し、湖に向かう。他の氷属性の魔法を使う聖騎士達を手伝い、ウィルフレッドも湖を凍らせていく。風属性の魔法にも助けられて、辺りは夏に不釣合いな吹雪となって、湖の表面は氷で覆われていった。

 こちらの攻撃に反応した魔獣は、びしびしと大きな音をたてながら氷を割り、翼のように大きなヒレを羽ばたかせて、氷上に飛び出してきた。濡れて不気味に光る黒いトカゲのような大型の魔獣。

 氷は最前線で戦う聖騎士達の足場となり、中距離からは魔獣の皮膚を貫く特別な矢も撃たれ、魔獣を追い詰めていく。


 追い詰められた魔獣は、怒りに任せて、その口から水の塊を砲弾のように放ってくる。湖畔の木々を薙ぎ払うほどのエネルギー。後方にいたウィルフレッド達が、周辺の被害を少なくするために防いでいたが、いくつかは防ぎきれず、森を傷つけた。

 森に着弾した瞬間、悲鳴が聞こえた。はっとして見れば、薙ぎ払われた木々の側で、腰を抜かしている少年二人がいた。ウィルフレッドは焦って二人のところへ走る。


「どうしてこんなところに!」

「ご、ごめんなさい、聖騎士様の戦いをどうしても見たくて――」

「とにかく逃げろ!」


 二人を立ちあがらせた瞬間、魔獣の咆哮が聞こえた。反射的に振り返った時には、巨大な水の砲弾がこちらに放たれていた。魔獣はいつも、弱いものを見逃さない。


「早く!」


 少年達を逃がすため、ウィルフレッドは氷の壁を作った。着弾と同時に、「確保したぞ、無事だ!」という仲間の声が聞こえた。慌てて作り、精度の足りなかった氷の壁は、その瞬間に突き破られた。


 ウィルフレッドは高圧の水の渦に飲み込まれる。体中が折れそうな衝撃。がぼりと水を飲み、胸が押しつぶされる水圧を感じた。魔獣の魔力に満ちたその水流の中で、身動きも取れずに、どこかに激しく打ちつけられる。

 そのまま意識が薄れていく。覚えている。命が消えていく、この感触。


 思い浮かんだのは、アシェリーの瞳からこぼれた一筋の涙。

 幸せに、笑っていて欲しかったのに。最期の記憶は、また涙だと、ウィルフレッドは思った。

 目を閉じる瞬間、涙が出たと思ったのは気のせいだったのかもしれない。ウィルフレッドの全身をずぶ濡れにして流れていく水滴の中で、涙は誰に気づかれることなく、儚く消えた。

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