2.1 そして、もう一度
重厚な鐘の音が、響き渡った。
はっとした瞬間、聖騎士団の敷地に植えられた金木犀の香りが、開けたままの窓の外から、心地よい風に乗ってウィルフレッドの鼻腔に流れ込んできた。ウィルフレッドは目を見開いて大きく息を呑んだ。
目の前では、聖ローエンベルク王国の象徴である聖騎士の像が、背面の窓から降り注ぐ光を浴びて輝いている。数十人の若い聖騎士達が、叙任の儀式に臨み、聖騎士の証であるサーベルを授与されていた。
「ウィルフレッド・フェアファクス」
呆然としていたウィルフレッドは、己の名を呼ばれても、身動きひとつできないでいた。
「おい、ウィルフレッド」
隣にいた誰かに小声で呼ばれ、軽く肘で小突かれる。ウィルフレッドは再びはっとして、促されるまま聖騎士団長の前に進み、ひざまずいた。
「ウィルフレッド・フェアファクス。聖騎士に叙す」
輝く真新しいサーベルを受取って立ちあがり、列に戻る。
「ウィルフレッド、大丈夫か? 真っ青だぞ」
先程と同じ声が、やはり小声で心配してくれたが、何も答えられない。肌がうすら寒く、震えさえ感じながら、ウィルフレッドはゆっくりとそちらに視線を送った。
燃えるような赤毛の男の、琥珀色の瞳がこちらを覗き込んでいる。かつて王都を去る際に、別れたはずのテレンス・ステイシーだ。テレンスとは、かつてセオドリックの護衛を共に務めた。王都に来る前からの知り合いで、ウィルフレッドが王都に来ることを喜んでくれた。
やがて儀式は終了し、聖騎士達が列を離れていく。
「ウィルフレッド、本当に大丈夫か? 式が始まる前に言ったこと、覚えてるか? セオドリック殿下が、お前を護衛にって――」
「……ああ、覚えてる」
ウィルフレッドがようやく掠れた声を出すと、テレンスは少し不思議な顔をしながらも、気を取り直したようにウィルフレッドの肩を叩いて人懐っこい笑みを見せた。
「じゃあ、セオドリック殿下に挨拶に行こう」
少しずつ少しずつ。進むたびに、胸がずきずきと痛み、息が苦しくなる。ウィルフレッドは胸のあたりを強く抑えていた。致命傷を受けたはずのそこには何もない。治ったのではなく、はじめから、何もない。
この胸の痛みと苦しみは、ウィルフレッドの心の奥底が感じているものだ。
そしてウィルフレッドは、建物の入口付近に立つ、その人の姿を見つけた。
開いた大扉から、高く澄んだ空が見えている。軽やかな雲が、爽やかな秋の風に吹かれる。
聖騎士の叙任式に参列したセオドリックと、彼に寄り添うように立つアシェリー。絵画のように美しく、輝いている二人の姿。
自分でも気づかないうちに、ウィルフレッドは足を止めていた。
最期に見たのは、アシェリーの大粒の涙。そんな風に泣かせたくはなかった。
心の奥底から叫びだしそうになる気持ちを、必死で抑える。訳が分からなかった。夢を見ているのだろうか? ……それでも。
ウィルフレッドは目を閉じる。その瞬間、瞳の端から、涙が一滴、頬を伝って落ちた。
夢だとは思いたくなかった。ウィルフレッドは息をしていて、そこでアシェリーがほほえんでいる。
「ウィルフレッド?」
動きを止めたウィルフレッドに気がついて、先を歩いていたテレンスが振り返った。ウィルフレッドは慌てて目頭を押さえてうつむく。
「……何でもない」
さっと涙を拭ってウィルフレッドは顔を上げる。
こうして生きている以上、これが現実なのだ。いつもアシェリーの幸せを願っていた。今だってそれは変わらない。そう決意して、ウィルフレッドは、再び一歩を踏み出した。
そして、もう一度。ウィルフレッドの人生が始まった。