嫌われる絵
昔から絵を描いていた。
最初は自由帳に。ひとけのない道路に。大学ノートに。
そのうちA4用紙に下絵を描いてスキャンし、色をパソコンで塗るようになった。生まれてからの日数のうち、絵を描いていない日の方が少ないのではないか。
今でもそこらへんの通りすがりの人を10人集めたら一番「うまい」と思う。
私にとって「絵がうまい」というのは褒め言葉ではない。
もちろん、言ってくれる人は嫌味でもなく他意もないということは知っている。単純に褒めて労り、本当に「うまい」と思ってくれているのだろう。ありがたいと思う。でもそれ以上でもないことを私はよく理解している。
私の絵は「うまい」だけなのだ。技巧的に他の人よりよく訓練されているというだけだ。これ以上の言葉を引き出すことは私にはできない。誰の心をくすぐることも、また見たいと思わせることも、別な絵に対する興味も引き出すことができない。
この事実にはパソコンで絵を描き始めてやっと気がついた。その当時付き合っていた恋人は私の絵をストレートに「気持ち悪い」と言った。姉もそうだった。「うまいけど、気持ち悪いよね」。おそらく大半の人の印象がそうなのだろうと思う。
絵を描く場合の指標として、「デッサン」というものがある。これは要するに、「自分が見たものを描画する」ということと理解している。私はこれは結構できた。簡単だ。目の前にあるものを頭が認識した通り紙に写したらいい。
この「デッサン」というやつがある程度できると、ぱっと絵を見た瞬間にその絵のデッサンが狂っているかどうかわかるようになる。世の中の商業的な漫画やイラストも結構これが狂っているものが多い。多かった。最近はデジタルで処理するためかプロの人たちのもので目立ってデッサンが狂っているものは見なくなった。単に私が漫画やイラストから離れていたからかも知れないが。
別にデッサンができない人でも狂いを識別する方法はある。左右反転してみることだ。反転してみると、絵の偏り、歪み、精度が面白いほどに晒される。
昔はこれで悦に入っていた。ものすごく評価されている絵でも、デッサンが取れてない、足が変なところから生えている、手が下手くそ(手指や足の指、関節部は難易度が高い)、自分の方が上手い。
でも、だんだん見えてきた。そんなことはどうでもいいんだと。
デッサンがなんだ。関節の向きがどうしたっていうんだ。そんなものがどうであっても、その絵は人の心を動かす。人を感動させ、美しいと思わせる。それは魅力が溢れている。技巧ではない、言葉にし難い輝きがあって、人を惹きつける。
絵を描く上で肝心なのは「うまく」描くことではない。自分が描いているのは説明書の参考図ではない。正確に描くことではない。人の心に何かを残すものでなければならなかった。そしてそのことに気づくこともできず、重ねた年月の程にうまくも(技巧的にも)なれなかった自分は、絵心というものが元々なかったのだ。ただ訓練を重ね、修練によってあたかも人より絵が描けるかのように思い込んでいただけだ。
私が描いてきたものは誰の心にも触れない。かわいそうな作品たちだった。
でもそれらがまったくの無駄だったと思うかと言うと、そうは思わない。
それは私の頭の中にいたキャラクターを具現化してくれた。彼らはそれぞれに私に彼らの物語を語り、私のための世界を構築してくれた。それは私の・私による・私のための世界への鍵だった。確立されたその世界がある限り、私はどんなに辛いことがあっても思い悩むことがなくなった。
誰もその鍵を持つ必要はない。私の世界は私だけのものなのだから。それは絵を描いて初めて得られたものだし、だからこそ誰からどのように私の何を貶されようと、構わないと思う強さを手に入れることができたと思う。
これからも絵を描いてゆく。私の頭の中の世界は私にしか正確に描くことはできないし、私は私の世界が誰よりも好きで居心地がいいのだ。