豚汁と暴食
人は、動き続けていないと生きていけない生き物だ。
食事とか運動とか新陳代謝とか。寝ている時だって、寝返りを打たないと体がおかしくなる。
そして、精神的な意味でも同じことが言える。
仕事や勉強がうまく行けば嬉しいし、失敗したら落ち込むがその分次こそはと頑張る。
江戸時代の百姓だって、毎年の米の出来不出来に一喜一憂してたはずだ。
なら逆に、人が一番モチベーションを保てなくなる状況ってのは、どんな時だろう?
簡単だ、それまでの頑張りが完全に無駄だと思い知らされた時だ。
「……まあ、普通だな」
その言葉を聞いた瞬間、まるで世界が凍り付いたような感覚に襲われた。
「異世界人に人気の味噌を使ってるのは珍しいし具も多いのはいいんだがなあ……。パンもないのにこれで銅貨五枚は、ちと高すぎだな」
そう言った最初の客――商人風の男は、ここから少し離れた別の屋台を顎で示した。
「あそこを見てみろよ。ここと違って野菜も少なめだわ何の動物かもわからないクズ肉ばっか使ってやがるが、それでも銅貨三枚っていう安さでこの市場の名物になっている店だ。しかも、銅貨一枚追加でパンも売ってくれる」
男がそう言いながら顎で指す斜め向かいの屋台には、絶えず五人以上の客が群がっていて、器の中のスープを啜って黒いパンをかじる活気のある様子が見えていた。
「ちょっと待ってろ」
そう言った男はおもむろに自分が指し示した屋台の方へ歩いていくと、すぐにウチのとは別の器を持って戻ってきた。
そして、その器を俺に差し出してきたことで、その意図が薄々わかった。
「ほれ、食ってみろ」
「え、でも、お客さんにそんな……」
「バカ言うな、お前が出した料理の、これのどこが商売だ。門外漢の俺にも、赤字どころじゃない食材が使われていることくらい察しがつくぜ。これは物を知らねえヒヨッコへの、俺からの差し入れだ」
「じゃ、じゃあ……」
そこまで言われて、そこまで見抜かれて、断るわけにもいかない。
俺は男から器と受け取ると、添えられていたスプーンで薄く色のついたスープを一口、飲んでみた。
「……不味い」
感じたのは、少しの塩と胡椒。ただそれだけ。
素材の旨味を生かした味付けと言えばかっこいいが、元の世界なら確実に手抜き料理呼ばわりさせる代物だ。
「だが、食えねえわけじゃねえ。そもそも、スープと味付けなんて中の具を食うためのものであって、それ以上を望む客なんて平民にはいねえんだよ」
「でも、せめて出汁の一つでも使えば……」
「そんなもん使ったって、客の腹は膨れねえよ。味なんて無駄なことに金を使うくらいなら、その分具を増やすか銅貨一枚分でも安くする方が間違いなく客は喜ぶだろうぜ」
「そ、そんな……」
折角の豚汁を美味しく頂かない馬鹿がどこにいる!!
そう言ってやりたかったけど、ここは俺の生まれた世界じゃないと気づいて、のどまでデカかった思いを押し殺した。
「……じゃあな、ごっそさん」
そんな俺を気遣ってか、初めての客はそれ以上何も言わずに去って行った。
「少しはこの世界のことが分かってもらえたでしょうか」
男の姿が見えなくなってからしばらくして、ミレーヌさんがおもむろに声をかけてきた。
「詳しくはまたの機会にしますけど、この世界の、少なくとも平民には、毎日美味しい料理を頂くなんて贅沢は許されないんです。汗水たらして手に入れたお金は僅か。その中で、少しでもお腹を満たせるように何とかその日その日の糧を得ているんです。さすがに素材のまま肉や野菜を食べるほど無知ではありませんが、調味料なんて喉を通れば十分なんですよ」
淡々としたミレーヌさんの説明に、俺は応えることができない。
きっとそれがこの世界の価値観なんだなと頭では分かっていても、そんな残酷な食生活がこの世界の常識なんて、心が受け入れられない。
「……少し時間が必要ですよね。ちょっと王宮の仕事を片づけてきます。夕方にまた戻ってきますね」
そう言って屋台を離れたミレーヌさんを、項垂れた俺はついに見送ることができなかった。
そんな風に酷評された俺の豚汁だったけど、意外にもその後も客は来た。
だけど、
「うん、まあ、こんなもんか」
「パンはないのか?ずいぶんと強気だな」
「故郷の家族への土産話にはなったよ」
「こんな高級食材を使いまくって、あんちゃんも物好きだな」
やってきたのは、いずれもそれなりに金を稼いでいそうな中流以上の男達。
しかも全員が全員、最初の客と似たり寄ったりの反応だった。
――いや、誤魔化すのはやめよう。
全員が全員、味に関する感想を一言も言わなかった。
「う、ううう……」
そんな仕方のないことを考えていたせいだろう、気づいた時には喉から嗚咽が、目からは涙が勝手に漏れ出していた。
だってあんまりじゃないか。
俺が異世界転生してまで叶えたかった願いは、もう一度豚汁を食べることだ。
そのためにできる限りのことはした。
所持金ギリギリまで食材を買い、調理器具も揃えて、寝る間も惜しんで料理した。
その結果できたのが、食材の良いところを全部台無しにした豚汁もどき。
不味いというんなら、まだやりようはある。不味い部分を改善すればいいんだから。
だけど、普通と言われたらおしまいだ。
客の誰も改善なんて望んでいない。もっと言えば興味もない。普通なんて感想を持ったものは誰の記憶にも残らない。
「うう、うううううう」
屋台を始めたのは午前中だったはずなのに、もう日が傾いて夕焼けが空を染め始めている。
赤字覚悟で作った豚汁は、まだまだ大鍋の半分も減っちゃいない。
当然だ、これまで来た客は両の手で数えられる程度なんだから。
もう、豚汁を作れないのか?
チートも無しに異世界転移した俺に、今日使った食材をもう一度揃えるのは、金銭的にハードルが高すぎる。
言ってみれば、フランス料理のフルコース十人前の食材を大鍋一個にぶち込んだようなものだ。
我ながら無茶苦茶やったもんだと自覚している。後悔はしていないが。
他の食材を代用するのはありえない。
昨日だって、ミレーヌさんの助けを借りて探しに探したあげくに、あの食材だった。
なにか妥協ができるとしても、ニンジン、大根、里芋の代わりは利かない。
いや、それだってモドキとしか言いようのない酷い出来だったわけだけど、それでも譲れないものは譲れない。
ひょっとしたら、王都以外、もっと言えば王国の外、世界中を探し回れば、もっといい食材を見つけられる可能性はあるかもしれない。
だが、それこそチート無しの俺がやってのけられるとは思えない。
金を稼いで護衛を雇う?それとも実力をつけて冒険者にでもなる?どっちにしろ、そうなるまでに一体何年かかる?そもそもそこまでやり遂げられるのか?
いや、これはもう疑いようもなく、現実逃避だ。
人生の袋小路に入っているのに、まだ何かできることがあるはずと、事実から目を逸らしているだけだ。
「……ただ、豚汁が食べたいだけなんだけどなあ」
そう口に出して言って、また涙があふれる。
夕方になって影が長くなったせいか、泣き顔を見られる心配は今のところはない。
ミレーヌさんが席を外したのも、きっと俺に時間をくれるためだったんだろう。
じゃなきゃ、これまでずっと付き添ってくれていたのに急に別行動を取った理由が分からない。
もう俺以外の屋台は、閉店のための圧片付けが本格化している。
王宮の日暮れの鐘が鳴るまでに店仕舞いをする必要があるとミレーヌさんが言っていたから、そのためだろう。
ちなみに俺はミレーヌさん枠というか特別扱いで、私物以外の片づけはしなくていいと言われている。
まあ、片付けろと言われてもできないんだが。
「帰るか」
ぼそっと言った自分の言葉に、ちょっと驚く。
心の中ではまだ諦めたくないと思っていたはずなのに、一度口に出してみればすんなりと受け入れた俺が居たからだ。
どっちにしろ、ミレーヌさんが戻って来あたらそこで終わりだ。
その時に迷惑をかけないように、片づけられるものは片付けておくべきだろう。
そう思って、座っていた木の椅子から立ち上がったその時に、屋台越しに声をかけられた。
「おい、そいつを食わせろ」