さようなら異世界
白い天井が見える。
柔らかいものに背中が支えられている感覚や、胸までかけられた布の肌触りから、どうやらベッドに寝かされていることが分かる。
なんで、と思いながら起き上がろうとして、両手首が何かに強く引っ張られた。
予想外の体の動きに、再び背中からベッドにダイブ、その原因が気になって両の手首を自分の顔に近づけてみて、わかった。
「手錠……?」
「あら、気が付きましたか?」
俺が目覚めるのを待っていた、わけじゃなく、視界の端に映っている偶々タイミングよく開かれたドアから現れながら、蒼い制服を着た、ブロンドの長い髪が映える若い女性が声をかけてきた。
――なんだろうか、ちょっと警戒されている気が……
「ああ、起き上がらない方がいいですよ。まだ体調が戻っていないでしょうし、念のために拘束させていただいているので」
そう思っていたら、制服姿の女性は明るい声で俺のことを気遣ってくれた。
どうやら、警戒されていると思ったのは俺の勘違いらしい。よかったよかった。
それはそれとして、不可解な俺の状況だ。
「拘束?なんで?」
「……やっぱり覚えていないんですね。申し遅れました。私はミレーヌ。シュンイチさんを担当させていただく異世界局の役人です」
……え?今なんて?
「ああ、驚くのも無理はないです。我が王国が誇る転生システムは、大国にも劣らない最新技術でして、転生者の肉体の完全再現はもちろん、名前を始めとした基本的な個人情報もトランスリサーチ機能で網羅することが可能で――」
「いやいや、そっちじゃないです。ていうか、わかっててやってます?」
いくら気絶したからって、その直前に自分の名前を名乗ったかどうかくらい分からないはずがない。
そう思いながら、じーっと見ていると、
「あ、バレちゃいました?重大な告知をする前に、ちょっとしたジョークを入れた方が場が和むかなー、と思いまして」
そう言った彼女、ミレーヌさんは告げてきた。
「シュンイチさん、あなたは前世で死亡して、この世界に転生しました」
「は、はあ……」
「まあ、いきなりこんな話をされても分かりませんよね。『ドッキリ』でしたっけ?転生者の方達が良く口にされていますよ」
何が何だか分からないといった感じの、俺のうっすいリアクションなんてお見通しだったんだろう、ミレーヌさんが分かりやすく説明してくれた。
俺がトラックにはねられて死んだあと、記憶を伴った魂は体から分離して、いわゆるあの世に向かうところだったらしい。
それを、この世界の魔法かなんかで引き寄せて、これまた魔法で作ったという俺そっくりの肉体に宿らせて転生させたらしい。
……なんか、聞いているだけで気分が悪くなってきた。
あの世?俺の魂を引き寄せた?魔法で作った俺そっくりの肉体?
倫理観もへったくれもない、神様にケンカを売っているような悪魔の所業のオンパレードに、ミレーヌさんの顔をまともに見れない。
「あっ、でも心配しないでくださいね。魔法で転生させたといっても本人にはっきりとした拒絶の意思があれば強制できませんし、新しい体も死体を利用したとかではなくて新たに培養したものですし、個人情報の取り扱いもそれはもう厳重に――」
俺がドン引きしているからだろう、慌てた様子で自分の説明をフォローするミレーヌさん。
そのせいだろうか、逆に俺の方が冷静になってきて、ちょっと心に余裕ができてきた。
グウウウウウウウウウゥ
……余裕ができてきたのは、胃袋の中の方だった。
「あらあら、そう言えば、他の転生者の方々の食事はとっくに終わっている頃ですね。待っていてくださいねシュンイチさん、今すぐ用意しますから」
「待った!!」
そう言った時には、両手首の手枷のことなんか完全に忘れて、ミレーヌさんの腕を掴んでいた。
「シュ、シュンイチさん、手首から血が……!?」
「血なんかどうでもいいんです!!俺の、俺が右手に持っていた荷物はどこですか!!」
空腹の音と一緒に思い出したのは、俺が気絶した理由とその経緯。
右手にしっかり掴んでいたはずのエコバッグがないことに気づいて、誰かれ構わず在り処を聞いて回った挙句に、突然後頭部に強い衝撃が来てそのまま気絶してしまったんだ。
目覚めた今なら俺が気絶させられた必要性も理解できるし、俺の頭を殴った人も責めるつもりは無い。
そんなことよりも、豚汁の材料の行方の方が大事だった。
「あの中には俺の大事なものが入っていたんです!俺が転生してきたあの場所のどこかに落ちてませんでしたか!?」
その瞬間、俺を見ていたミレーヌさんの眼がふっと下を向いたのを見て、残酷な答えが想像できてしまった。
「残念ですがシュンイチさん、前世の持ち物をこの世界に持ち込むことは不可能なんです。ですから、その荷物は向こうの世界の置き去りに……」
「そ、そんな……」
その言葉を聞いて、手枷にも構わずにミレーヌさんの腕を掴んでいた手に込めていた力が抜けて、その反動のままに仰向けでベッドに倒れ込む。
仮に、一緒に転生してきたという誰かが俺のこの姿を見ていたら、たかが豚汁の材料ごときと笑われるかもしれない。
でも、よーく考えてほしい。
……もう二度と豚汁が食べられないと知って、絶望しない日本人なんていない!!
「……そうだ、豚汁のない世界なんてこっちから願い下げだ。死のう」
「え、ええっ!?」
いつの間にかに思っていたことを声に出して喋っていたらしい。
ミレーヌさんが驚いた声を出してきた。
「早まらないでくださいシュンイチさん!転生システムに選ばれたっていうことは、シュンイチさんがまだまだ生きたいと思った証なんです!その望みを叶えないで死ぬなんてダメですよ!!」
こんなミジンコ以下の存在に成り下がった俺の心に、ミレーヌさんの優しい言葉がしみこんでいく。
だけど、心が満たされても、豚汁でお腹が満たされることはもうないのだ。
……だめだ、そう思ったら泣けてきた。
「え、あ……元気出してくださいシュンイチさん!元の世界に未練があるのは分かりますけど、この世界もけっこういいところがあるんですよ。特に魔法なんて、シュンイチさんと同じ世界の人達からは大好評で、適性のある人はもう初級魔法をいきなり成功させたりしているんですよ!」
「……適正、俺にもあるんですか?」
「あ、いえ、その……、シュンイチさんが寝ている間に調べさせてもらいましたけど、残念ながら……」
「無かったんですね」
ここはちょっとは落ち込むべきところなんだろうけど、今の俺には関係ない。
そんなことより豚汁だ。
「あ、でも、もしかしたらこの世界でも、シュンイチさんのお望みの品を揃えられるかもしれませんよ!私も付き添いますから、今から城下の市場に行ってみませんか?大国には及びませんけど、王都の市場は近隣の国からも珍しいものが集まって、ちょっとしたものなんですよ!」
「市場、ですか」
――なるほど。
ミレーヌさんの言う通り、豚汁の材料はそこまで珍しいものは入っていない。
基本は肉と野菜だけで、さすがにパーフェクトに揃えるのは無理でも、時間と手間をかければ似たような食材は見つかるかもしれない。
そうそう、別にケーキとかフォアグラとか、自然界には決して存在しない食材が必要なわけじゃあるまいしこれなら希望が出て――来なかった。
そう、豚汁という字面からはパッと思いつかないが、かの至高の逸品に欠かせない、唯一にして絶対の、日本が誇る奇跡の調味料、この世界にあるわけがないオーパーツがあるではないか。
その事実を思い出した俺は、再び言った。
「味噌がない。死のう」
「シュンイチさん!?」
こうして、俺の第二の人生は終わった。