死因はエコバッグ
曇っていれば確実に雪でも降ってきそうな寒空。
そんな鉛色の景色の下、真冬のオアシスの一つと言えるスーパーでの買い物を終えて、暖気と冷気の境目の出入り口で一息つく。
都会に出て来て早一か月。
ようやく新居にも職場にも慣れて、心の余裕ができ始めてきた。
そこで、前々からやってみたかったことを実行に移すことを決めた。
ずばり、豚汁を作るのだ。
どうせ作るなら料亭の匠も腰を抜かすような究極の豚汁を!!
……なんて意気込んだ時代もありました。
そのために家具購入用の資金を、イベリコ豚のバラ肉や産地直送野菜の通販とかにつぎ込んでさあ作るぞと決意したのが、二週間前。
……うん、彼らは文句なく良い食材だったよ。
ただ、素材そのものの良さを生かした料理(野菜炒めと煮物)として胃袋に収まったわけだけど。
もちろん、失敗の原因は判明している。
刑事さん、時間が、時間がなかったんです!!
まだまだ住み慣れないアパートと、まだまだ右も左も分からない職場の間をひたすら往復するだけの日々。
そんな中で凝った料理を作る暇なんてあるはずもなく、消費期限を数日過ぎたところでようやっと諦めがついて、厳選した食材を手近なおかずにクラスチェンジさせて胃袋に収めた、ってわけだ。
豚汁が好きになったのがいつからなのか、全くと言っていいほど覚えがない。
ていうか、豚汁を嫌いな日本人なんていないよな?
もちろん、食物アレルギー的に受け付けない人や、宗教上の理由で豚を神聖視する人たちにケンカを売るつもりは無い。
だけど、豚汁を食べることを許されている人類の中で、あれを苦手だと言ってのける人がいるのはちょっと信じられない。
料理としては汁物に分類されながら、その実豊富な野菜も肉も摂取出来て、これだけ栄養バランスの良い逸品もそうはない。
あとはこれに握り飯の一つでもあれば、極寒の寒空の下だろうがすぐに極楽浄土に早変わりだ。器と箸さえあれば食べられるのもポイント高い。
特別な日も、そうでない日常でも、いつでも食べたい豚汁。
むしろ、どこかの猫型ロボットが無限に豚汁が食べられる秘密道具を出して来たら、生涯賃金を全て差し出してでも買い取りたい。
人間、腹さえ膨れていば大抵のことはどうでもよくなるもんだ。
もちろん、前回の二の轍を踏むつもりはない。
右手に重くぶら下がる大きめのエコバッグの中には、豚バラ、大根、人参、里芋、こんにゃくの具材の他に、顆粒出汁がぎっちりと収められている。
味噌と山椒はすでに購入済みだったのは、不幸中の幸いってところか。
でなきゃ、完全に容量オーバーするところだった。
前回の失敗の最大の要因は、ずばり出汁にこだわり過ぎたところだ。
削り節から作ろうとすれば、誰だって一日仕事になるに決まっている。
貴重な休日の午前中を睡眠欲に明け渡している今の俺じゃ、物理的に時間が足りなくなるのは分かり切っていたことだった。
それでも、かつお節の塊をネットで購入する時に何のためらいもなくスマホをタップしている辺り、やっぱり疲れがたまっているらしい。
なんてことを考えながら、家までの寒さに耐える覚悟を決めてスーパーを出て、すぐ前の横断歩道に目をやったその時だった。、
視界の右上あたり、歩行者用の信号機の色は緑がかった青、だったのは間違いない。
そして、俺とすれ違う形で渡ってきている小学校低学年くらいの男の子と、少し離れた歩道にそれを追いかけている母親らしいアラフォーの女の人。
そこまでは、ごくごく普通の日常の光景。
違ったのは視界の端の端、歩行者用信号機よりもさらに右側に映った大きな物体だ。
パアアアアアアアアアッ
今まさに交差点を右折して俺の視界に入ってきているのは、大人二人分の車高がありそうな大型トラック。
それが、全く減速せずに横断歩道に入ってこようとしている。
意識と焦点を合わせた先には、運転席に座る若い男の姿。
その運転手が、スマホでもいじっているのか俯いた視線で全くこっちを見ていないことに気づいた瞬間、体は勝手に動いていた。
「危ない!!」
そう言った時には、こっちに渡ってこようとしていた男の子の体を叫び声を上げている母親の方へと全力で突き飛ばしていた。
――男の子は……よし、ちゃんと受け身を取ってる。頭を打った感じもないから大丈夫だろう。
幸い、男の子の代わりに横断歩道のど真ん中にいる俺と大型トラックとの間には、まだ距離がある。
全力で逃げればギリギリ避けられる、そう思った瞬間、まるで死神に手を強く引っ張られたかのように、俺の体は右手を中心にくるりと半回転した。
――あ、慌てすぎて右手に持ったままだったエコバッグ……
新生児くらいの重量の豚汁の材料が命取りになるとはな、と思ったその時、右から来た凄まじい衝撃と痛みと共に、俺の意識はシャットダウンした。
――せめて、今夜のごちそうの豚汁の材料だけは地獄まで持っていってやると、右手のエコバッグの紐を固く握りしめたまま。