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造花街・吉原の陰謀  作者: 野風まひる
傾城・松ノ位編
79/180

13:彼の遺したもの

 いくら気分がいいのだとしても毎日5時に起床するのは夜型生活には辛いので、いつもより早く眠って一時間ほど早く起きた。それだけで、気持ちには随分と余裕があるものだ。


 明依は文机に置いてある終夜から取ってもらった水風船を見た。段々としぼんで、終夜から貰った時よりも小さくなっている。なんだかどこか、もの寂しい気持ちになる。それはあの二人を思い出してか、終夜とのあの日を思い出してか、それともこれから先の未来を想ってか。


 『……俺と来る?どうせ同じ未来なら』


 あの時もし一緒に行くと言っていたら、どんな未来が待っていただろうか。

 ぽっと頭に浮かんだ考えをかき消す様に、水風船から視線を逸らせて、身支度を済ませて部屋を出た。

 自分との約束を一つ試してみる事にして。


「おはよう」


 いつもなら互いに挨拶なんてしない竹ノ位の遊女の隣を、そう言って通り過ぎる。

 おそらく今、遊女たちは不審な目で明依を見ている事だろう。5年前、何度挨拶をしても話しかけても無視され続けて心が折れてからというもの、一度だってまともに会話をしたことがなかったんだから。

 それが分かっていながらも、廊下をすれ違う遊女に「おはよう」と挨拶をし続けた。


 別に仲良しごっこがしたい訳じゃないし、返事を求めているわけでもない。相手にしてあげた分の見返りは求めない。これは自分がやりたくてやっている事だと、明依は夕霧の教えを忠実にこなそうと、勝山から教えてもらった自分との約束と絡めて実践を試みていた。


 大きな一歩に違いない。今までは気まずいような、委縮したような気持ちになっていたが、自分から挨拶をする事で自分の中に線引きが出来ている様な気がする。

 ()()選んで、()()意志で挨拶をしている。

 その意識があるだけで、随分と気持ちが違う。やはり世界は変わっている。心ひとつで、形を変えて。


 明依は外に出た。今日、しなければいけない大きなことが一つ。


「いらっしゃいまし」

「こんにちは。満月屋の黎明と申します」

「あら、満月屋の。本日はどういったご用件で」


 松ノ位、高尾大夫を抱える大見世。三浦屋に足を運んで入り口でそう告げると、従業員の女は態度を変えずに穏やかな様子でそういった。


「不躾なお願いと承知の上で申し上げます。……高尾大夫と話をさせていただけませんか」


 高尾に会えたとして、頭を下げて松ノ位に推薦してほしいなんて図々しい事を頼むつもりはない。ただ、話をして認めてもらう事が出来るならそれに越したことはない。

 何もしないで機会を待ってばかりいる事が、今はどうにもできそうになかった。


「高尾大夫はどなたともお会いしないのよ」

「どうすれば、会う事ができますか」

「諦めた方がいいわねェ。私の知っている限り、その希望が通った方はいないから」

「……そうですか」


 そう言って明依が俯くと、ふいに視線を感じた。明依が視線を上げると、妓楼の中からこちらを見る人物と目が合った。中性的な顔立ちに、凛とした立ち姿。色の派手な着物を着た女だった。髪は結えるほどの長さはない。

 遊女だろうか。そんなことを考えていると、彼女はさっと踵を返してあっと言う間にいなくなった。


「ごめんなさいね。気を付けてお帰りなさいな」


 そう言われて、従業員の女に視線を戻した明依は「……はい。ありがとうございました」と呟いて三浦屋を出た。

 予め清澄から聞いていたので、想定内ではある。可能性が少しでもあるのならという気持ちではあるが、自分でもなかなか図々しい話だという自覚はあった。


 それから明依が向かったのは、小春屋だ。


「それはつまり、高尾大夫に会えるコネがないか、って事か?」

「コネ……。まあ、そう。何かない?」


 小春屋を訪れたのは他でもない、吉原一の人気者。時雨になら何か伝手(つて)があるのではないかと思っての事だった。


「じゃあ、一晩」


 時雨は、まるで勝山の様に人差し指を立てて明依を見た。

 時雨に抱いてほしいと思っている女なんて星の数ほどいて、選びたい放題のはずなのに、どうしてそんなに抱きたいんだろう。なんて、恥じらいの一つもなく明依はそう思った。

 提案はクズ中のクズだが、一晩でコネが買えるなら安いものなのか。とそこそこ真剣に考えていた。


「冗談だよ。断れよ」

「だって時雨さん、普通に言いそうだもん」

「そんなクズい方法で抱いたって、なーんも面白くねェ。少しずつ崩してくのがいいんだよ」


 何の話をしているのかはわからないが、とにかく時雨は本気ではないらしい。


「コネとまでは言わないけど、何かない?高尾大夫の決まった行動パターンとか」

「何もないな。残念だが、あの妓楼の情報収集は無理だ」

「どうして無理なの?」

「とにかくガードが固くて仕方ねェ。高尾大夫の客も、妓楼の内側の人間もみんな、頑なに彼女の話をしないらしい。その辺の閉鎖的な宗教団体より、内部の状況を知る事は難しいだろうよ。それに、高尾大夫の側には常に派手な着物を着た遊女が付いていて、そいつが彼女に近付く人間を常に厳しく警戒している。噂では(かげ)なんじゃないかって話だ」


 派手な着物を着た遊女。それはおそらく、先ほど見た遊女の事だろう。高尾の世話役か用心棒か何かなのだろうか。


「とにかく、諦めた方が賢明だな。時間の無駄だ」


 高尾への接触は時間の無駄遣い。もし会う事が出来たとして、推薦してもらえる保証がどこかにあるわけではない。それなら、主郭から直接推薦をもらえる方向にシフトした方が賢明なのだろうか。


 主郭。

 それで思い浮かんだのは、叢雲の顔だった。旭を殺した男。そんな男に認めてもらわなければ、昇格する術はない。


「時雨さんは、旭を殺した犯人を知ってる?」

「……その情報源は終夜だな」


 以前時雨は情報は何もないと言っていた。しかしそれから状況が変わっているのなら、時雨が知っている可能性も大いにあると思ったのだ。しかし問いかけたつもりの明依に、時雨は少し厳しい視線を向けた。


「言うなよ。誰にも」

「……どうして?」


 どうして終夜も時雨も、この事を言うなというのだろうか。この事を内々で隠蔽するつもりだから、公表できない。そんな理由だったら、一体どうしたらいいんだろう。


「お前は今、危険な立ち位置にいる。終夜が殺したいという宵が目に掛けている遊女。主郭の人間がゴリ押ししている宵を頭領選抜一位に押し上げた遊女。それから、〝吉原の厄災〟と必要以上に深く関わる女」


 そう言われて明依は、押し黙った。時雨は本当に、吉原の中での事をよく知っている。


「忘れるなよ。日奈と旭は、お前が死んだら悲しむ事は間違いない。現状お前にできる事は何もないんだ。適材適所ってヤツだよ。他の誰かに任せておけばいい」


 一体いつまで待っていればいいんだ。やっとその情報が入ってきたと思ったのに、自分にできる事が何一つない。それがもどかしくて堪らない。

 終夜と花魁道中の時にこんな約束をしていなければ、また何も知らないままだっただろう。真実を知りたいと思う事は、悪い事なのだろうか。こんなに、難しい事だっただろうか。


「時雨さんは昔から、旭と終夜を知ってるの?」

「アイツらがこーんな時からな」


 時雨は座ったまま、自分の頭くらいの位置に手をやった。


「……暮相って、知ってるか?」

「頭領の死んだ息子さん?」

「そう。そいつがよく、連れて歩いてたよ。終夜も、旭もな」


 自分の知らない旭の顔。胸が高鳴ったのは、それだけの理由じゃなかった。自分の知らない終夜の顔。日奈と旭の知る、終夜の顔。


「俺はあれほどの人たらしを見たことがないし、これから先も多分拝むことはないだろうよ」

「時雨さんや、旭より?」

「俺なんて比じゃねーよ。旭もそうだな。なんだか憎めないところはよく似てたよ。あの終夜でさえ、暮相にだけは心を開いていた様に見えた。終夜も旭も『暮相兄さん』『暮相兄さん』って、よくアイツの後を追っかけ回してた。……本当になァ、上手かったんだよ。人の心の中に入り込むのが。いつもへらへら笑ってて、どこかいい加減で。でも、人の痛みが分かる。そんなヤツだった。だからみんな、まさか自殺するなんて思ってなかったのさ」


 蕎麦屋の二階で、終夜は確かに『あんな終わり方をする人じゃないって強い先入観があった』と語っていた。

 終夜と旭が、兄と慕った人物。


「終夜や旭だけじゃない。どこの妓楼の楼主も、気難しい主郭の人間も、遊女も陰間も、みんなあの男が好きだった」

「時雨さんも?」

「ああ。……この妓楼に来る前、俺はいろんな妓楼を転々としてた。客や従業員と揉める事は日常茶飯事だったし、楼主を殴って折檻部屋行きになったことも一度や二度じゃない。どこの妓楼も、俺をいらないと言った。俺はそれすら、どうでもよかった」


 今の時雨からすると、全く考えられない話だ。人を意図的に傷つける様な人ではない。これが終夜の言う、先入観というやつだろうか。


「飲み方もわからないくせに大人の真似して酒を飲んでたら、ひょっこり暮相が現れて『一緒に飲もうぜ』って言うんだ。顔も名前も知ってたが、恵まれた人間に俺の何がわかんだよって思ってた。で、アイツが俺の隣で俺より速いペースで酒を飲むから、負けじと俺も飲んだ。二人で飲んで、酔って、愚痴って、吐いて。記憶飛ばして、笑い話だ。それがきっかけで、よく一緒にいたな。……それから、アイツに今の妓楼の楼主を紹介してもらった。あのじーさん、人がいいくせになんも出来なくてな。そのせいで妓楼はお取り潰し間近。だったら、俺がしっかりするしかないから、環境に馴染んだ。……俺は本当に、運がいい男だよ」


 そう言うと時雨は少し懐かしむように目を細めた。きっと、目が眩むほど美しい思い出を見ているのだろう。


「いつだったか。俺は周りから必要とされていない人間だったって、暮相に話したことがある。そうしたらアイツは、『俺はたくさんの人に認めてもらうより、たった一人でいいから、本当に認めてほしい人に俺を認めてほしい』って言うんだよ。贅沢なヤツだと思ったんだ。恵まれた人間はどんどん新しいものが欲しくなるんだな、なんてわかった気になってた。……あれはきっと自分の親、裏の頭領の事を言ってたんだろうなって、後になって気が付いた。あんなに近くにいたのに、何も気付いてやれなかった」

「……宵兄さんか終夜か、どっちかしかこの街にいられないとしたら、って……前に時雨さん、そう聞いたでしょ」

「……そうだな。旭も死んだ。随分と生意気だが、せめて暮相が大切にしていた終夜を守ってやりたいって、思う気持ちもどっかにある。それなのにアイツは、なりふり構わず好き勝手にやりやがる。……段々腹立ってきたな」


 時雨はそう言うと、ため息交じりに笑った。


「話が逸れて悪かったな」


 仕切り直すようにそういう時雨に、明依は軽く首を振った。


「なんで暮相の話をしたかって言うとな、あの男が吉原の解放を唱えた時、それを支えていたのは高尾大夫って話だ。恋仲だったって噂もある」


 人と関わらないという印象のある高尾の意外過ぎる話に、明依は驚いていた。


「高尾大夫は、もともとは満月屋の遊女だ。暮相は今でいえば先任の旭、後任の終夜みたいな立ち位置だったから、関わるのは難しくなかったんだろうよ。当時から独特の売り方をする遊女でな。馴染み客にしか顔を見せない。そして、一度でも話した相手の名前と顔、その内容は絶対に忘れないって噂だ。その売り方がよかったのか、満月屋にいた頃から権力や財力で外界に影響を与える人間を馴染みにして、とんでもない金額を稼いで吉原に貢献していた。それで、経営が傾きかけていた大見世の三浦屋に主郭が異動を命じて、間もなく松ノ位に昇格した」


 他の妓楼に異動するなんて、吉原ではあまり聞く話ではない。明依の知っている所では、勝山大夫に憧れて自ら異動を希望した十六夜くらいだろう。主郭が大見世に異動を指示するくらいだ。本当に凄い人なのだろう。


「今でも馴染み客の顔触れは増える事はあっても減ることはないそうだ。みんな熱心に高尾大夫の所に通ってるらしい。その太いパイプを活かして暮相と吉原解放の目処(めど)を立てていたって話だ」

「……なんだか、日奈と旭みたいな関係だね」

「そうだな。もしかすると、そうだったのかもな。……ただ暮相が死んでからというものの、高尾大夫は表はおろか裏側でさえ何の動きもない。その噂が本当だったとして。お前が松ノ位に上がった先の最終目標が旭と日奈の望んだ、未来の子どもたちの為の吉原解放なら、為になる話も聞けそうだと思ったんだが、残念ながら何の伝手もコネもないな。諦めて自分なりの方法を考えた方がよっぽど効率的かもしれないぞ」


 どうしてまだ誰にも言っていない吉原解放について知っているんだと警戒する明依に、時雨は気を抜いた様に笑った。


「清澄さんと施設に行って、日奈と旭がどうして吉原を変えようと思ったのか。本当の意味で理解したんだろ。お前はそういうの、見て見ぬふり出来ないタイプだよな。明依」


 そういえば清澄が前日の夜に時雨と飲んでいたと言っていた。今度は明依が気を抜いて笑った。


「時雨さんって本当に何でも知ってるし、人の事よく見てるよね」

「案外俺は、愛の重いストーカー気質なのかもな」

「……それはありえない気がするけど」


 仕事とはいえ、女をとっかえひっかえしているヤツが何言ってんだと思ったが、さすがの明依も為になる話を聞かせてくれた相手に本心をそのままぶつける気にはならなかった。

 空気が緩んだ後で、明依はやっと出されたお茶に口をつけた。


「……裏の頭領は、旭が吉原を解放したいって言った時には何も言わなかったの?」

「特に何も聞いてないな」

「自分の息子は吉原から追放したのに」

「さあな。〝怖気付いた〟なんて言われちゃいるが……。本当の所は分からないな」


 晴朗の言った通り、暮相というたった一人の人間がいなくなった影響が、吉原のいたるところで見られている気がした。吉原の解放を最初に提案した人物。彼は何を思って、吉原の解放を唱えたのだろう。

 死んで時が流れてもなお、たくさんの影響を吉原に与え続ける人間。


 不謹慎なことを承知で言わせてもらえば、明依にはこの混沌(こんとん)とした吉原の状況そのものが、彼が最期に残した呪いの様に思えた。


 明依がもう一口お茶を飲むと、真剣な表情をしている時雨と目が合った。


「なに?」

「……期待するなよ。終夜は必ず、お前を裏切るぞ」


 時雨は明依に、念を押すようにそういう。

 終夜も同じことを言っていた。いつもいつも裏切られてばかりで、もう慣れてしまっているのか。はたまた、それがぼやけて定まらないくらいに、信じたいと強く思っているのか。

 焦る気持ち一つ浮かばないこの心は、どこに向かっているんだろうか。

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