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造花街・吉原の陰謀  作者: 野風まひる
傾城・松ノ位編
74/180

08:花なら一華

「アンタ、見張られてたんだろ」


 勝山は部屋から出ながらそういった。どうして知っているんだと唖然としている明依をよそに、勝山は明依に背を向けて廊下を歩いた。


「終夜の様子を見ていたらわかるよ」

「何か違うんですか」

「長い事見てりゃ、何となくわかるもんさ」


 あの男の微妙な違いなど分かった事もない。

 勝山という人間は、あっけらかんとしている様に見えて、他人の感情を読み取る事に長けている。現代の殺伐とした人間関係の中ではおそらく珍しい、少し古くも温かい人間だ。


「アンタと終夜が関わるのが面白くない人間がいるのかねェ」


 勝山は廊下を歩きながら、独り言のようにそう呟く。明依はどういう事なのかわからず、何も答えないまま、勝山の後ろを歩きながら背中を見ていた。

 辺りでは、時雨のいる小春屋同様に楽し気な遊女の話し声と、豪快な笑い声が聞こえてくる。聞いているこちらまで思わず笑顔になる声だ。


「黎明」

「うわっ!!」


 急に目の前で振り返った勝山にぶつかりそうになりながら、明依は何とか後ろに下がってそれを回避した。視界の全てを勝山の豊満な胸が占拠している。

 危うくダイブする所だった。いや、もう一秒反応が遅れてダイブしておきたかったかもしれない。人生で一度くらいそんなラッキースケベに巻き込まれてみたい。と、深層心理なのか混乱しているのか、低レベルな事が頭に浮かんだ。

 完全に気が逸れていた。丹楓屋の中から聞こえる楽し気な声に耳を傾けていたから。


「何もしなけりゃどうにもならない。当然だ」


 勝山は明依の目をまっすぐに見てそう言った。

 先ほど丹楓屋に来る時に終夜が言った、『俺達が怪しい動きをしないなら、何もしてこないみたいだよ』という言葉と同じ意味という事でいいのだろうか。つまり、主郭の人間が見張っているから、真っ直ぐに満月屋に帰れと言う事か。


「さっき私は、大きなリスクが伴う決断なんて、毎日毎日迫られるものでもないと言った。ただ、大きなリスクを取らなきゃ、動かない物事もあるもんだ」

「例えば……?」

「そんなモンは自分で考えな」


 勝山は腕を組むと、テキトーな口調でそういった。なんで急にそんな投げやり。と思ったが、勝山は未だにまっすぐ明依を見ていた。


「雑草タイプは逆境で力を発揮できる。だから、逆境そのものを〝面白くなってきた〟と解釈し直す事もできる。人生は楽しいと思ったモン勝ち。私たちは最高に運がいい。そうだろ」


 そして、挑発的な顔で笑う。

 明依も勝山も、この街に自ら望んできた。無理矢理この街に売られた人間と比べれば、まだ気持ちの面では余白があるのかもしれない。吉原の中では違うかもしれないが、ここから一歩外に出た世界の〝世間一般〟では、どう考えても恵まれているとは言えない。恵まれている人間は、こんな街に縛り付けられて裏側を生きるなんて決断はしないはずだ。

 それなのに運がいいなんて。この人がそう言うなら、そうなんだろう。

 そう思わせる力の源はきっと、勝山の中にも夕霧と同じ、他人の影響では揺らがない軸があるからだ。

 やっぱり、こんな人になりたい。この人たちの隣に並びたい。

 そう思うだけじゃない。

 だったらどうしたらいいだろうかと、夕霧や勝山から学んだことを整理して答えを出し、あれでもないこれでもないと頭の中は勝手に検証を始めていた。

 考え方そのものが、変わっている。確実に。

 勝山の言葉を自分のものにして言うのなら

 〝面白くなってきた〟。


「送って行ってやるんだろ」


 何の話?と思った明依だったが、勝山を見ると明依の背後に視線を向けていた。振り返ると、そこには廊下の真ん中を歩いてこちらに向かってくる終夜がいた。


「これで死なれたら、寝覚めが悪いんでね」


 終夜はそう言うと、立ち止まっている明依と勝山の隣を通り過ぎた。

 勝山はさっさといけと言わんばかりに明依の背を押した。明依はそれにつられて数歩歩いた後、勝山を振り返った。


「勝山大夫。本当にありがとうございます」

「気張んなよ」


 勝山はそう言うと、にやりと笑った。

 そんな勝山に対して疑念を抱かなかった訳ではないが、遠くなる終夜に焦り、ペコリと頭を下げて終夜の背中を追った。終夜に追いついたのは、ちょうど彼が丹楓屋の外に出る頃だった。


 外にある屋台はどこも賑わっている。カップルから家族連れ。本当に楽しそうに笑う人間に紛れて、暗い顔をした男。金を使い果たしたか。はたまた、遊女に袖にされたか。そんなところだろう。

 それから終夜の背中に視線を移した。

 どうしてこの男は、味方一人いない状況でここまで凛としていられるのだろう。揺るがない自分の中の軸。自信。こんな状況下でもそれはピンと張り詰めて、僅かな揺らぎもないのだろうか。

 本当にそれだけで、たったそれだけで死を前にした恐怖も、人間が感じる孤独も感じなくなるのだろうか。

 そんな状況を、〝人〟というのだろうか。

 自分はどうやらせっかちな人間らしい。

 この男の本当の顔を知りたい。今すぐに。


 『何もしなけりゃどうにもならない。当然だ』

 『大きなリスクを取らなきゃ、動かない物事もあるもんだ』

 まるで明依がこう思う事を最初から分かっていたみたいな言い方だ。勝山が『気張んなよ』と言った意味が、分かった。

 

「終夜」


 終夜は明依に背を向けたまま、何も答えない。


「不安なの。手、繋いでくれない?」


 終夜は明依に背を向けたまま盛大に溜息を吐き捨て、それから振り返った。


「怪しい動きをしないなら、何もしてこない事はわかった。そういうの、ナンセンスって言うんだよ」

「わかってる。わかっていても感情は別でしょ。私、死にたくない。不安なの」


 てっきりすぐに小馬鹿にしたような言葉を投げかけられると思っていた明依だったが、終夜は冷たい目でじっと明依を見た後、「本当、女ってめんどくさ」とぶっきらぼうに言いながら、手を差し出した。

 明依がその手を握るが、終夜はほとんど力を入れず軽く触れる様に指を曲げて、さっさと先を歩き出す。


 『典型的な一匹狼気質で、好んで人と深く関わる様なヤツじゃないな』

 『だけど、優しいよ』


 終夜がどんな人間かと聞いた時、旭と日奈はそう答えた。

 いろいろな事が浮かぶ。それはほとんど、悪い事ばかりだ。例えば、終夜のせいで宵は死ぬかもしれない。それなのに、どうして。

 ヤンキーが雨の日に犬を拾っている所を見る心理状況と似た様なものだろうか。今までの残虐非道な行いは、誰かに無理矢理やらされていて、本当はやりたくない事だった。そんな真実があったらいいのに。


 今の彼はきっと、日奈と旭の見ていた〝終夜〟だ。

 ずっと、こんな風に優しい人でいてほしい。そう、心底望んでいた。


 これから自分がしようとしている事に、ほんの少しの罪悪感が浮かんだ。


 明依は終夜の腕を強く引いて、すぐそばの細道に引っ張り込んだ。明依は勢いあまって壁に背を打ち付けた。終夜はバランスを崩したのか、明依の頭上に強く腕をついて止まった。それから終夜は、深い深いため息を吐き捨てた。


「さすが遊女さま。嘘がお上手だ」


 どこから見張られているのかは知らないが、屋根の上に人影はなかった、と思う。同じ地面を歩いているなら、行き交う観光客の波で少しの間くらいは見失ってくれるだろう。


「話がしたいの」

「何それ。口説き文句?」


 真剣な口調でそういう明依に、終夜はいつもの飄々とした口調でそういった。

 終夜は明依の頭上についていた手を離すと、明依の顎を掴んだ。色のない、冷たい無機質な表情だ。


「だったらしょーもないよ。〝抱いてください〟くらい言ってみなよ」


 何も言わない明依に、終夜は挑発的に鼻で笑った。


「撒いて。できるんでしょ」


 そう言うと終夜は驚いた様子も見せず、小さく溜息をついた。


「俺の話聞いてた?何もしなきゃ、何もされない。だから黙って満月楼に帰ればいい」

「帰りたくない」

「俺は帰りたいんだ」

「私は帰りたくないの」

「……アンタの帰りを待ってるよ。大好きな宵兄さんが」

「それでも帰りたくない」


 終夜は少し目を見開いた後、今度は盛大に溜息を吐き捨てる。


「夕霧大夫と勝山大夫に頭のネジでも外してもらったの?」


 呆れ笑いを浮かべる終夜は、いつもの様子でそういう。

 いつもの様子なのに、明依にはどこか自然体に見えた。素の終夜を見た気がして、心が晴れていく様な気持ちになる。しかしそれを表に出すにはどこか気恥ずかしい。これは、旭に対して思っていた気持ちと似ていた。まだ疑わなければ。そうやって自分をギリギリの所で律していた。


「まだ、殴らせてもらってないし」

「うわ。覚えてたんだ、その約束。ねちっこい女」

「女にそんな言葉を吐く男はモテないよ。あと、往生際の悪い男もね」

「せっかく大夫になれるチャンスを掴んだのに、棒にふるの?」

「私は別に吉原から出ようとしているわけでも、裏切ろうとしているわけでもない」

「そもそも俺に深く関わろうとする事自体、吉原にとっては裏切り行為だ。今の吉原の雰囲気を感じていればわかる事だろ。空気読めるようになった方がいいんじゃない?」


 ここまで終夜に言われても、明依は一歩だって引く気はなかった。

 埒が明かない。伝え方を変えなければ。もっと踏み込んだ、直接的な言い方に。


「私はただ、話しがしたいと思っている人に、話したいと伝えているだけ。誰かに見張られている状態で、話がしたい人なんていないでしょ。主郭の人に何か言われても、胸を張ってそう伝える。私は責められる事なんて何もしてない。って」


 明依がはっきりとした口調でそう言うと、終夜は黙った。


「撒いて」


 終夜という人間がどんな人物なのか。一体本当の彼はどこにいるのか。それを知る為に、こんな危険をおかしているというのに


「お願いだから」


 終夜という人間が先ほどの様に思いやりのある人間であってほしいという願望が、大嫌いな神様に祈りたい程強い願いが、消えない。


「そういう事はさ、もっと早く言っといてくれない?」


 言い合う事を諦めたのか、終夜はため息交じりにそう言った。


「退路も解決策も考えてないなんて、致命的だよ」


 終夜はどこか楽しそうに笑っていた。

 安心した様な、嬉しい様な、不思議な感覚。明依は思わず笑顔を作った。


「じゃあ逃げるの?意気地なし」

「そういう言い方は、癇に障るって言ったろ」


 終夜はそう言うと、握っていた明依の手を少し強く握った。

 それから明依の手を引くと、人込みの中に紛れ込んだ。大門を抜けようとして、炎天たちに追われた時と一緒だ。人込みを的確に縫って走る。

 日常から一歩、抜け出す感覚。

 この感覚は、嫌いじゃない。


「どこにいるの?」

「言ったってわからないだろ。一般人に紛れてるんだから」


 それからしばらく、終夜に手を引かれるままに走った。明依はだんだんと息が上がってきたが、当然終夜がペースを落とす事なく平然としていた。

 

「ねえ、どこかに隠れないの?」

「本当に懲りないね。どこかって、例えば?蕎麦屋の二階とか?」


 〝蕎麦屋の二階〟という言葉に、明依の心臓は大きく音を立てる。


「それなら願ってもないチャンスだね。次こそは抑えつけてでも、絶対に言い逃れできない既成事実を作るよ」

「最低」

「使えるものは何だって使うよ。俺は男で、アンタは女。一番手っ取り早くて確実な〝事実〟だ」


 しっかりと形を成すなら、それは確かに一切の言い逃れが許されない確実な〝事実〟だろう。本気でそう思っているなら、最初から黙って連れ込んでいれば終夜にとっては万事解決だったはずなのに。


「切り札ではもう脅せそうにないしね。……でも、最後のダメ押しくらいには使えるかな」


 〝切り札〟とはおそらく蕎麦屋の二階での事を言っているのだろう。終夜の言う通り、今となっては淡々と事実だけを宵に伝える事が出来る様な気がしていた。あれだけ宵にどう思われるのか、怖くて堪らなかったというのに。

 宵の顔が浮かんで、胸が少し痛んだ。内側に浮かぶ疑問なんかじゃない。今明らかに、宵を裏切っている。それならこのまま帰るのかと言われれば、そんな気は毛頭なかった。

 明依は終夜の手をしっかりと握った。

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