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造花街・吉原の陰謀  作者: 野風まひる
次代頭領候補編
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10:前を向く覚悟

「準備ができましたよ」


 八千代がそう言うと、襖が開いてぞろぞろと入ってきた男女が片付けを始めた。

 明依がその人達から再び襖へ視線を移すと、そこには宵となぜか時雨が立っていた。


「その着物、」

「明依お前……嘘だろ」


 宵がそういった隣で、時雨は盛大に溜息をついて俯くと片手で頭を抱えていた。


「こんな綺麗な女を自分の部屋じゃなくて、別の男の所に送るのか……?俺が?」


 数多の女を相手にしてきた時雨に綺麗だと言われたことは素直に嬉しい。しかし、別の男の所に送るって何だ。と思っている明依をよそに時雨は、信じられない。という表情を浮かべて俯いている。


「送るフリだろ」

「重要なのはそこじゃねーだろ。問題なのは俺が客じゃないって事。こんなに綺麗になった明依の遊び相手が俺じゃないってなんだよ」


 呆れた様な口調でそういう宵に、時雨はどうにも納得がいかないと言った調子でそういう。

 なるほど。花魁道中は、満月屋から自分を買った客の待つ揚屋までの道を歩く。時雨はどうやら一緒に歩いてくれるらしいが、その先で待っている男が自分ではない事に絶望しているらしい。それにしても、夫婦ごっこや恋人ごっこと言われる吉原の男女の関係の中でここまで堂々と〝遊び相手〟と口にするのは時雨くらいだろう。


「だから、今日明依に客はいないって言ったろ」

「だったらもっと問題だろ。こんなに綺麗に着飾ってるのに、何の目的もないなんて。ありえないな。俺が買う」

「買わせない。終夜の目的は花魁道中だ。明依の隣を歩いてくれたらそれでいい」

「女が綺麗に着飾ってたらひとしきり褒めた後、惜しみながら(つつし)んでそれを脱がすまでが男としての最低限のマナーだろーが。意気地なしかてめェは!」


 全てが正しい様に聞こえるのに、根本的に全てが間違っている様な気がする。その心意気はぜひとも殿方に見習ってほしい所ではあるが、今回のメインは花魁道中。女の意見としては時と場合を考慮した結果、勘弁いただきたいところだ。

 そんな時雨の発言に、宵は盛大な溜息を吐いて「話にならない」とげんなりした様子で呟いた。時雨の側にいる宵は、いつもと違う顔が見られる。こんな状況なのに、それを少し嬉しく思っていた。


「大体な、お前がいつもいつも俺が明依を買う事を止めるからだぞ。するなって言われる事はしたくなるだろ」

「だったらいい機会だ。子どもじゃないんだから少しは節操というものを覚えて帰るといい」


 どうしてもどうにかしたい時雨と、ゴリ押しに引き下がるかと思いきや一歩も引かない宵に苦笑いを浮かべた明依を、時雨はもう一度まじまじと見た。


「いや、無理だろ。送るだけは無理。全財産払うわ。それにこれから先一年の稼ぎの内八割をお前の見世に渡す契約をしてもいい」

「落ち着け」


 もはや正気ではなくなった時雨に宵はたった一言そう言い放った。自分を卑下するわけではないが、遊女の自分にそんな大層な価値はない。明らかに、いつも宵に止められていて手に入れられないもの程欲しくなる衝動が時雨を狂わせていた。

 そうは分かっていても悪くない気分だし、本気でため息をこぼす時雨を見て明依は緊張していた肩の力を抜いた。


「どうして時雨さんが一緒に歩いてくれるの?」

「終夜に言われたんだって。明依の隣を歩いてくれって。本当に、何を考えるのかわからない」


 宵はそう言うと小さく息をついた。


「理由を聞いたら『集客能力があるから』ってさ。今回の事、終夜は何か言ってたか?」

「宵兄さんを頭領にしようとする動きは大きくなっていくだろうから、都合よく使ってやろうって考えてるだけだって」

「わかんねーな。まァ、普段から何考えてるのかわからないヤツなんだから、考えたって労力の無駄遣いだろ。終夜サマの仰る事だ。どうせ俺ら一般庶民には、拒否権なんてないんだからな」


 時雨の言う通り、終夜のあれこれを考える事は確かに労力の無駄遣いだ。そんな明依と時雨の会話を聞いた宵は、黙って考え込んでいた。


「それにしても明依。お前本当に綺麗だな」

「やめてよ。なんか恥ずかしいから」


 改めてそういう時雨に、明依は照れを隠して笑った。


「時雨の言う通り。本当によく似あってるよ、明依」


 宵はいつもの口調でそう言いながら、いつもの優しい笑顔を向けた。しかし、明依が何か言葉を発するより前に、時雨はそれはそれは盛大な溜息を吐き捨てた。


「ダメだダメだ。全ッ然なってない。こういう時は〝似合ってる〟なんて曖昧な言葉は使わないんだよ。せめて何が似合ってんのかちゃんと口に出せ。女にわかってもらえると思って甘えんな」


 勝手にイライラして恋愛指南を始められる方もいい迷惑だろう。

 しかし、女性に対する態度にはさすがと言わざるを得ない。あっけらかんとした性格からテキトーだと思われがちの時雨だが、対面すればきちんと相手に敬意を持っている事が伝わってくる。そしてやはりこう思う。宵の様な完璧人間を前にして堂々と自分の意見をぶつけられる時雨の態度そのものに憧れている。花魁道中を共に歩くのが時雨というだけで、心強い事は間違いなかった。


「なるほど、勉強になるな。じゃあそんな特別な言葉は、別の男の準備した着物を別の男の為に着てわざわざ自分の足で歩いて行こうとしていない時にとっておくよ」


 宵はあくまでもいつもの調子でそういうが、宵の見ている先にはおそらく明依に着物を準備して着る様に言った終夜がいるのだろう。突如として決まった今回の花魁道中に対しての反抗の様。だと思い切ることが出来たらいいのに、宵のその発言が胸を高鳴らせて正常な思考回路を奪っていく様な気がした。時雨はそんな宵に感嘆の声を上げている。

 勘違いだ。どんなふうにだって解釈できる言葉だった。私たちはそんな関係じゃない。これ以上は望んでいない。期待と裏切りはセットだと思え。そう肝に銘じようとする明依を他所に、八千代はクスクスと笑った。


「とても夢のあるお話ですこと」

「八千代さん!違いますから!」


 勘違いで片付けたかったのに。そういう八千代に明依は大きな声でそういった。


「楼主さん。勝手にお邪魔してごめんなさいね。すぐにお暇しますから」

「明依がお世話になりました」

「いいえ、久しぶりに楽しかった。このままだと表はどんどん騒がしくなるでしょう。早く行った方がいい」

「何のお構いもできませんで。ぜひまたゆっくりいらしてください。……明依、行こうか」


 宵はそう言うと、明依に手を差し出した。明依が宵の手を握ると、彼は明依のペースに合わせて歩きだす。後ろでは「俺の役目だろ」と文句を言う時雨がいた。

 身に着けた着物が、装飾品が重たい。重たいはずなのになぜか今は、きっと大丈夫だと根拠のない自信に溢れていた。いつか大夫になった時の為にと言って、吉野に高下駄を借りて日奈とよく練習した。互いの肩に手を当てて、何度も二人で床に倒れ込んで、その度に笑った。すぐそばで手本を見せてくれる吉野の背中に、酷く憧れた。いつかこんな風になりたいと思った。その思いが偽物だったとは言わない。しかし一つだけ確実に言えるのは、そのままの思いではきっと何一つ掴む事は出来なかっただろう。自分に何が足りないのか、気付くことも出来なかっただろう。

 出入り口に到着すると、そこには終夜が用意したであろう人達が着飾って明依を待っていた。先に履物を履いた時雨が明依を振り返って手を伸ばす。しかし、高下駄に足を通そうとした明依の手を、宵は少し引いた。


「待って。裾を上げないと」

「この着物は、裾を上げずに着るのよ」


 そういう宵に、八千代は凛とした声で答えた。


「花魁道中は外八文字で歩きます。このままだと裾が邪魔をして、足が動かせない」

「高下駄履いても裾を引きずるぞ。午前中には雨が降ってた。泥でも跳ねたらせっかくの白い着物が台無しだ」


 確かにこのままでは足から流れる様に広がった裾が邪魔をして、外八文字なんてできるはずがない。しかし明依は焦りすら感じていなかった。今起こっているすべてが別の次元で発生している様で、自分には無関係の様なこの感覚。旭と日奈が死んだ時と似ていて、しかしどこか大きく違っていた。もしかすると思考回路が正常に機能していないのかもしれない。緊張の針はとっくに振り切っていて、むしろ全てが自分の手中に収まっているのではないかと思える程に冷静だった。

 焦る宵と時雨とは対照的に、八千代は穏やかな顔で笑っている。


「それでいいの。この着物は、おひきずりだから意味がある」

「無茶です。どうやって歩けと言うんですか。それでさえ明依は初めてなんですよ」

「伝統的な方法でいこう。まずは裾を上げる。それから外八文字で歩く」


 この着物はきっと本来誰かの物で、その誰かに渡す為に別の誰かが仕立てた物なのだろう。それが誰なのか知らない。ただ、この着物があの藤間の発言と重なったからなのか。藤間の言う物語の人物、自ら選んで脇役になった男と酒を注ぐ女の話。それを今、明依は頭の中で思い描いていた。今時女は男に酒を注ぐのだろうか。藤間の描く小説の中の話だろうか。だったらそれはきっと時代物だ。だってその情景はまるで、時代に取り残されたこの花街での出来事の様に思えるから。


「大丈夫」


 そんなことを並行して考えながら、二人の会話を断ち切る様にほとんど無意識にそう呟いた。

 『もう駄目だと思う時こそ、自分を騙してでも胸を張って堂々としていなさい』

 吉野のその言葉が頭をよぎった後で、ようやく現状が自分の中で溶けていく。着物を仕立てた誰かはきっと、この着物に思いを込めたに違いない。裾を引いて歩くことに意味があるというのなら、仕立てた誰かの気持ちを汲んでやろうと、そんな気持ちが溢れていた。


「二人ともありがとう。でも、大丈夫」


 二人が何か言うより先に高下駄に足を通した。

 何を根拠に大丈夫というのか。どうしてそこまで冷静なのか。そう疑問に思ったのか、宵と時雨はただ唖然としていた。


「何もかも殿方に守っていただくほど、女はか弱い生き物ではありませんよ」


 そういう八千代の声を聞いた後、明依は宵の手を放した。

 歩きにくい事この上ない高下駄に、裾引きの着物が絡まれば清々しいほど盛大に転ぶ事だろう。しかし、そんな不安や恐怖でさえ些細な事の様に思う。くよくよと悩んで生きる価値すらわからず、他人任せで右も左もわからなくなった今までの自分自身に比べたら。

 ここで歩かないなんて選択肢は、もはや今の明依にはなかった。


「いってきます、宵兄さん」


 だから今日、今ここから始まる花魁道中。満月屋から揚屋までの道のりの間、活力も集中力も全て使い切って一滴だって残さない。

 そんな覚悟を胸に秘めて、明依はゆっくり息を吐いた。

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