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造花街・吉原の陰謀  作者: 野風まひる
双子の幽霊編
31/180

6:高純度の愛という猛毒

「おはよう、宵兄さん」

「ああ、おはよう明依」


 以前なら立ち止まって少し世間話をする所だが、明依は立ち止まらずに宵の横を通り過ぎた。宵の事だ。避けられている事もその理由にも気が付いているだろう。話をすれば現実の自分を直視する。そしてきっと宵は、休めと言うだろう。こんなことがいつまでも続くとは思っていないが、しばらくそのまま気づかないふりをしていてほしいと心底願った。


 その日の夜。明依は自分の座敷の襖を開けたが、室内には誰もいなかった。


「この座敷に上がる予定だったお客様には、別の座敷に上がってもらった。今日、明依の仕事はないよ」


 唖然としている明依の後ろから、宵はそういった。そううまくも行かない様だ。何となく、分かっていたことだが。


「なんで?」

「この妓楼で働く人間の体調を考慮して仕事を組むのも俺の仕事だ。理由は、分かっているね」

「じゃあ私、何をしたらいいの?」

「俺と話でもどうかな」


 宵はそういって優しい顔をして笑った。しかし、静かに怒っているようにも見えた。今回ばかりは逃げられないだろうなと思った明依だったが、知らないふりを決め込んで困り笑顔を作った。


「無理しなくていいよ。宵兄さん、忙しいでしょ。私も部屋に戻るから、」


 明依は宵から視線を逸らして隣を通り抜けようとしたが、手首を握られてしまえば、力の差がありすぎて先に進むことはできなかった。そのまま手首を引かれて宵の前に逆戻りだ。その行動は、いつもの宵からは想像できない程荒い気がした。

 やはり今回ばかりは本当に逃げられないらしい。


「心配してくれてありがとう。でも、俺の聞き方が悪かったみたいだ。明依の気持ちを聞いたつもりだったんだ。嫌?俺と話をするのは」


 優しい口調の中に、有無を言わせない何かがあった。どうして宵はこんなに必死になっているんだろうと思う程。


「部屋、少し貸して」


 何も答えられない明依の手を引いた宵は、座敷の中へ入り襖を締め切った後で明依と向かい合った。明かりの灯らない暗い部屋の中に、障子窓から暖色が溢れている。


「明依が仕事に戻るって言った時、無理だけはしないでって言ったよね」

「私は無理とは思ってないよ」

「無理をしていない人間は、こんなに隈を作らない。ゆっくり眠れないんだろ」


 そういって宵は優しい手つきで明依の目元を親指で撫でた。


「本当は、しっかり休んでほしかったよ。せめてちゃんと眠って、ちゃんと食べて、変わった状況に慣れるくらいまでは」


 悲しそうな表情に、申し訳ない気持ちにすらなってくる。同時に、宵はこういう人だったと懐かしいような気持ちになる。そして温かい何かが胸の中に落ちた様な気がした。身を任せて、泣きたくなってくる。


「最近の明依はおかしい。何をそんなに急いでいるんだ」

「忙しく動いていた方が、考える事が少なくて楽なの」

「気持ちは幾分か楽でも、身体が追いついていないんだ。いつか必ず限界が来る。これ以上無理をして長く寝込む事になったら、本末転倒なんじゃないかな。心配しているんだよ、皆」


 そういう宵に、明依はとうとう押し黙った。しばらくの沈黙の後、宵の息を吸う音がほんの少し喉元で震えていた。


「明依。俺はお前に、なんて詫びればいいのかわからないよ」


 目を伏せて視線を逸らしている宵の顔は、もの寂し気で苦しそうだった。


「俺があの時、主郭の地下に明依が来てくれた話をしなければ、日奈と仲違いしたまま別れる事はなかった。だから身体を壊しかけてまで必死になる明依を黙って見ているだけなんて、これ以上はできそうにないよ」


 そういった宵は片手で明依の頬を包むように触れた。


「ごめんね、明依」

「……宵兄さんのせいじゃないよ」


 宵のせいで仲違いしたまま別れたなんて思ったことはない。思いつめている表情の宵にどうしてそう思うのか伝えなければいけない。しかし宵を前に口を開けば、隠していたい本心さえ引き摺り出されそうな気がした。


「日奈は死ぬとき、私のあげた櫛を持っていてくれた。わかるよ、一番の友達だもん。もし私が日奈の立場でも、同じことをするよ。血が滲んでたの。朔に襲われた後に握ったんだと思う。意地を張ってただけ、だから……」


 言葉を終わらせようと息を吐きだした瞬間、身体が小刻みに震えた。ずっと自分自身を許せないでいた。しかし、燻っていたものを吐き出したことで感じたのは、日奈が今際の際に明依の渡した櫛を握った事に、許しているという意味以外はやはり見当たらないという確信だった。


「明依」


 だから、今そんなに優しい声で名前を呼ばないでほしい。


「……でもね、」


 言葉を続けようとして喉元で声が掠れたのは、その言葉を言うな、取り返しがつかなくなると、心が反発しているからかもしれない。


「寂しい。寂しくてたまらないの、宵兄さん」


 安心感と罪悪感がぐちゃぐちゃに混ざり合う。前を向きたいと心底思った自分への裏切りの様に思えて。

 溢れ出した涙を強引に袖で拭う明依の腕を優しく握って引き離した宵は、指の腹で優しく涙を拭った。その悲痛な面持ちに、胸の奥が締め付けられる様だった。


「その寂しさの一部でも埋められるなら、なんだってするよ」


 宵はそういった後、遠慮がちに明依の身体を抱き寄せた。明依は咄嗟に身体中に力を入れたが、その後ゆっくりと力を抜いた。後頭部に回った宵の手が優しく触れて、彼の胸の内へと誘導され動きを止めた。


「俺は絶対にどこにもいかない。明依が許してくれるなら、ずっと明依の側にいる。だから明依は、俺を利用したらいい」

「こうなったのが私じゃなかったら、他の子にもこういう事するの?」


 宵は勿論他の遊女の事もしっかりと気にかけている。しかし、自分がどこか特別な扱いを受けている事に気付かないはずもなかった。管轄外で大して関りのない終夜でさえそういうのだから、間違いないだろう。だから聞いてみたくなった。いつもの宵という人物像からわずかにはみ出したこの雰囲気が、以前夜桜の日にみた宵の雰囲気に似ている気がしたから。


「しない」


 たった一言そういった宵を少し身を引いて見つめれば、優しい顔をして笑った。


「明依、それわかってて聞いてるよね」


 自分でもどうかしていると思う。その優しい笑顔を向けられているのが、自分だけだという優越感が何もかもを塗り替えようとしている。


「それズルいよ、宵兄さん」


 明依は宵の胸に額を押し付けた。

 最初から、選択肢を与えられていた。だから宵は〝利用したらいい〟なんて表現をしたんだと思う。綺麗に距離を取る方法だって宵ならいくらでも思いついていただろう。『一線を越えればきっと、俺達はこのままじゃいられない』と言ったのは宵だ。それなのに、その選択すら委ねようとする。今ここにある簡易的な幻想世界の在り方を選択する権利は、全て明依にあるという事だ。


「じゃあ、一緒に考える?」


 そういった宵の言葉で思い出したのは『互いに想う気持ちが重なることがあれば、その時一緒に考えよう』と言った夜桜の日の事。宵の問いかけはつまり、気持ちが重なっていることが前提だという事。心底ズルい人だと思った。本当は、何一つ重なってなんかいないのに。しかし、気持ちは重ならないままでもきっと、宵なら上手に騙してくれるのだろう。


「私達、どうなるの」

「どうにもならないよ。明依が望むなら」


 そういって壊れ物を扱う様に優しく、明依の頭を撫でた。


「強がっていたいの」

「どうして?」

「雪、私の為に泣いてくれたの。雪が成長したとき、こんな街でも凛と生きていけるんだって、お手本になりたい」

「できると思うよ、明依なら。でも、心の拠り所くらいあっていいんじゃないか」


 心の拠り所なんていらないと、終夜に豪語した。しかし、今この瞬間の虚しさを埋めたいだけの衝動的な何か。それが、自らのコントロールさえじわじわと不能にしていく感覚。

 きっと宵なら、不安になる度に繊細に作られた安心感をくれる。望む時に、望む形で。だからただ、宵の手のひらに立っていればいい。そうすればきっと、彼がいいと思うタイミングでいいと思う様に踊るのだろうから。きっとどんな形でも、宵は受け入れてくれただろう。例えば日奈のように親しい友達として。例えば今まで以上に兄のような存在として。例えば旭の様にただ燻る思いを抱えるだけの恋愛対象として。

 でも結局、今すぐ、埋めてほしい。

 胸の内に開いた深い穴を、埋めてほしい。 


「だけど、」

「明依。俺の気持ちが、伝わらないか」

「でも、」

「どっち?」


 明依の言葉を遮って、宵は強引に視線を合わせた。この期に及んでもなお、言い訳が押し寄せてくるのだ。だから、きっとこれは責任転嫁。


「答えて」


 押し切ってほしい。どこまでも強引に。言い訳さえ遮って、入り込むすきもないくらい。宵は、明依がそうでもしないと決心がつかない事にもそうしてほしい事にもきっと気付いていて、気付かないふりをしてくれる。


「伝わってる」


 明依は小さな声でそう呟いた。


「〝好き〟」


 明依が囁いたそのたった一言で、今ここにある簡易的な幻想世界の在り方は決まった。きっと、寂しいと宵に告げた時からタガは外れていたんだと思う。だからきっと、こうなることは決まっていた。


「うん。俺も〝好き〟」


 明依にそう返答し優しい顔をして笑った宵は、明依に触れるだけのキスを落とした。たったそれだけの事で満たされ、ゆっくりと燻って消えかけた隙間から、罪悪感や例えようのない虚無感が見え隠れした。宵の首に腕を伸ばして引き寄せると、宵はもう一度明依にキスを落とす。先ほどよりもほんの少しだけ長い時間唇を重ねて満たされても、離れていけば同じことだ。まるで穴のあいたバケツみたいだなんて、明依は頭の隅で考えていた。


「ねえ、もっと」

「一応、遠慮してるんだよ。欲張るとみっともないかなって」


 啄ばむ様なキスを繰り返した後、突然口内に割って入ってきた宵の舌に明依は自分の舌を絡めた。しかしそれはすぐに離れて、終わりの合図に宵はもう一度口付けを落とした。


「やだ、もっと……。やめないで」


 自分からこんなに縋る様で甘える声が出るなんて知らなかった。


「やめないよ。わりと本気でやめる気ないから」


 そういった宵は片手で明依の顎を掴むと上を向かせて唇を落とす。そしてほとんど無理矢理割って入ってきた宵の舌は、明依の性急な思いに応える様に荒く口内を犯していく。嫌じゃない。しかし口付けだけで夢中にさせられている明依は、酸素を求めて何度も何度も鼻から息を吸っているのにすぐに苦しくなっていた。ほとんど無意識に一歩、また一歩と後ろに下がるととうとう壁に背中が当たる。そのタイミングで離れた唇に物寂しさを認識するよりも前に、宵は首筋に本当に弱い力で甘く噛みついた。


「捕まってて」


 深く息を吐いた後でそういった宵は、明依の背中と膝裏に腕を回して横抱きにした。


「自分で歩くから……!」

「いいから。甘えてよ」


 明依を抱えながら器用に襖を開けた宵は、予め敷かれてあった布団の上に丁寧に明依を下ろした。角度を変えて何度も深く入り込んでくる宵の舌に応えながら、聞きなれた帯の解ける音が部屋中に響いた。唇が離れて肩で息をする明依を見た宵は、優しい顔で笑った。


「可愛いよ、明依」


 明依はぼんやりとしていたが、宵の一言でとっさにうつ伏せになった。何度も何度も男性と夜を共にしたが、それは〝黎明〟という遊女としてであって、〝明依〟として誰かを受け入れるのは初めての事だった。何が違うんだという話だが、自分でも驚く程違っていた。

 そうすると次に浮かんできたことは、多数の男に触れられた身体に抵抗を持たれていないだろうかという疑問だった。明依の知る宵は底なしに優しい。もしもそう思っていたとしても絶対に態度に出ないだろう。そうやって自分自身を肯定できなくなる事を、背負う覚悟がない事を、汚れている、というのかもしれない。


「なんで逃げるの?」

「恥ずかしくなって」

「逃げられると追いかけたくなる」


 あの優しいを具現化した様な宵が、そんな言葉を自分に向けて言っているというだけでこの甘い空気に夢中になる。そんな事を考えている間に宵に着物を掴まれて、肩口が空気にさらされた。明依が身を捩って横を向くと、宵は肩を抑えつけて再び仰向けの状態にさせて胸元に口付けた。


 『そうやって甘やかされて守られて、一体アンタには何が残るんだろうね』

 脳内に直接響く様に明依に語りかけてくるのは、今一番聞きたくない声だった。

 『そしていつか、一人じゃ立ち上がれなくなる。そういうのを、依存っていうんだよ』

 依存なんかしない。胸の穴を埋めてほしいだけだ。目的なんてそんなもので、その全ては自分自身でわかっている。

 『依存するタイプの毒は、派手で甘いって相場が決まってる。惑わされて、気付いた時には堕ちるところまで堕ちてる』

 依存なんてしない。だって、毒だと分かっていて今毒を飲もうとしているんだから。自分を見失ったりしない。

 『毒を飲むのが自殺志願者だけの甘い世の中なら、非合法薬物は存在しない。そして、この街は存在していないんだよ』

 絶対に大丈夫だってわかってる。自分の事は自分がよくわかってる。わかっているのに、


「宵兄さん、私……」


 目尻を通過する涙の感覚に、明依は両腕を目の上に置いた。


「……ごめん、ごめんなさい」


 自信がなかった。この恋人ごっこに依存してしまう材料は、何もかも全てそろっている様な気がしたから。〝私以外の女と喋らないで〟なんて平気で言ってのけるメンヘラ女の気持ちが、もう今この時点で何となくわかっている。それに、この都合のいい世界だけでしか自分のものにならない宵の心も身体も、全部自分のものにしたいなんて浅はかなことを思ってしまっているから。


「怖くなった?」


 宵が身を起こし身体が軽くなる。それを引き寄せたい感情と理性との間で明依が戦っている間、宵は乱れた明依の着物を直した。

 初めてでもないんだから、怖いはずなんてない。そんな優しさに付け込んで、この世界に浸ることが出来ていたらどれだけ幸せだっただろう。例えそれが、造られた世界でも。申し訳ないなんて言葉で片付けられるはずもない。自分から望んでおいて。


「あの日」


 そう呟いた後で自らの目元を覆う明依の両手首をそれぞれ握った宵は、強引に布団に縫い付けた。


「終夜に何を吹き込まれた?」


 明依を見下ろしながらそういった宵が纏っている雰囲気は酷く冷たかった。

 明依の脳裏に浮かんだのは、朔を前にした時に懐に手を入れていた宵だった。もしかするとあの時、朔を見据えながらこんな表情をしていたのだろうかとそんなことを頭の隅で考えていた。


「答えて」


 いつから気づいていたのか。そんな疑問すら答える気の無さそうな程圧倒的な雰囲気に、明依は押し黙って息を吸った。


「……甘やかされて守られて、一人じゃ立ち上がれなくなる事を依存って言うって、」

「それで?」

「私は、間違いなく依存するタイプだって」

「……なるほどね」


 そういった宵はため息をつきながら鼻で笑った。その様子に明依は身体中に力を入れた。


「あの日、雪の部屋にいた時に何度も終夜の事を俺に言うチャンスはあったはずだよ。それなのに、どうして庇った?」

「助けて、貰ったから」

「終夜が勝手にしたことなのに?」


 その通りだ。しかしこの感情をうまく表現する方法を明依は持っていなかった。


「ごめん、今のは意地が悪かったね」


 明依の手首を握る手の力を緩めた宵は、いつも通りの雰囲気を纏っている。明依は身体の力を抜いた。


「誰とどんな人間関係を作るのか、それは明依の自由だと思ってるよ。でも、正直に言うと終夜にこれ以上関わってほしくない」


 濡れ衣を着せられた挙句殺されかけた終夜にさえ嫌悪感を直接的に表に出さない。そんな宵を見ていると、ますますあの男が嫌いになりそうだ。


「明依は終夜の事を信用しているのか?」

「まさか。ありえない」

「だったらもう、終夜の言う事に耳を貸さなくていい」


 明依の返事を聞くよりも前に、宵は自分の額を明依の額に押し付けた。


「心の拠り所くらいあっていいんだよ、明依。気負っても気負わなくても、時間は平等に流れていくんだから」


 自分を認めてもらえたような気がした。宵は泣きじゃくる明依を抱きしめて何度も背中を撫でた。

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