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造花街・吉原の陰謀  作者: 野風まひる
双子の幽霊編
30/180

5:きっと正解なんかじゃない

 朝起きて、一番最初に襲ってきたのは虚無感だった。仕事をすると決めてから毎日毎日、明依はこの虚無感を味わっていた。ここはやはり、紛う事なく浮世の地獄だ。


 すっかり変わり果てた吉原の街で客を相手にするうちに気付いたことがある。仕事内容は相変わらず。しかし、そこに本当にごくわずか、自分を認められた様な実感が確かにあった。余りに刹那的。最初こそ思ったが、だんだんと心の拠り所のない遊女が、その刹那的な承認に身を委ねたいと思う気持ちが理解できるようになってきた。


 幾度となく味わってきた、今この瞬間の虚しさを埋めたいだけの衝動的な何か。それが、自らのコントロールさえじわじわと不能にしていく感覚。あれだけこの街の普通には飲み込まれないと思っておいて。自分の感情に目を背けて走り出した反動は、予想以上に大きかったという事だ。


「黎明」

「十六夜さん」


 廊下で突如呼ばれた名前に誰かと振り向けば、そこには十六夜がいた。明依は十六夜に駆け寄り、軽く頭を下げた。


「花祭の時の一件、本当にありがとうございました。宵兄さんが戻ってきた時、こちらからご挨拶もせずすみません」

「私がしたくてしたことなんだから、そんな事気にしないで。立て続けにいろんなことがあって忙しかったでしょう。それに、宵さまがうちまで来てくれたのよ。ひどい怪我だったから心配していたんだけど、傷も残らずに済んでよかったわ」

「どうして満月屋(ここ)に?宵兄さんに用事ですか?」

「いいえ、あなたの顔を見に来たの。襲われたって聞いたから」

「わざわざありがとうございます。見ての通り元気なので、大丈夫です」

「それならよかった」


 そういった十六夜は柔らかい笑顔を作った後、目を伏せた。


「大変だったわね、雛菊の事。今更だけど、何か私にできる事があれば何でも言って」

「ありがとうございます。何かあれば、相談させてください」

勝山(かつやま)大夫も、何も言いはしないけれど黎明の事を心配していたみたいよ。私が会いに行くと伝えたら、『近いうちに飲みに来るように伝えておきな』って」


 ぶっきらぼうにそう言い放つ勝山が浮かび、明依は思わず笑った。


「勝山大夫らしいですね」

「本当にね。じゃあ一緒に行きますかって誘ったんだけど、素直じゃないんだから」


 そういう十六夜は口元に手を当ててくすくすと上品に笑っている。

 こんなに穏やかな人も自分と同じ仕事をしているのだと、再度認識している。一体どんな気持ちで客と共に過ごしているんだろう、なんて以前までは何とも思わなかった疑問が、次から次に浮かび上がってくる。


「その後は、何もない?」


 十六夜のいうそれが、終夜に関連しているという事はすぐにわかった。日奈が死んだ時に座敷から出てくるのを見て、朔を粛清するところを見て、吉原の真実を聞いた。これが到底何もないの部類に入るとは思わなかったが、それを十六夜に話す気にはなれなかった。


 十六夜は丹楓屋の遊女。終夜が管轄する妓楼に所属しているのだ。明依よりも終夜と関わる可能性が高い事は間違いない。だから十六夜に余計な情報は入れる事で危険な目に合うかもしれないなら、嘘をついてでも話したくなかった。


「はい、何もありません」

「ちゃんと眠れている?顔色がよくないわ」


 そういった十六夜は、心配そうに明依の顔を見つめた。


「しばらく休んでいたので、まだ本調子じゃないのかもしれません。多分、すぐに慣れます」

「それならいいんだけど」


 声色から納得している様子はない十六夜だったが、そういう明依に押し黙った。


 十六夜はきっと、明依が今感じていることを話せば親身になって話を聞いてくれるだろう。しかし一度話してしまえば、きっともう止められない。


 縋りつきたいと思ってしまう。だから今は、甘える要因になるものは全て排除して強がっていたかった。同じ境遇の十六夜も、気にかけてくれる宵さえも。


「また二人が並んでいる所が見られるなんて思わなかったよ」


 そういって廊下を歩いてきた宵は穏やかな笑顔を浮かべている。その笑顔に何度救われたかわからない。しかし今の明依にとっては、一時の安らぎさえ自分の為に涙を流す雪に暗い夜を越えていくと誓った理想の自分と、現実の自分との差異を直視する材料にしかならなかった。


「十六夜。明依との話が済んだなら、少し話さないか」

「はい、是非」

「十六夜さん、今日はわざわざありがとうございます。それじゃあ、私はこれで」

「よければ明依も一緒に」


 そういう宵の声色から、ほんの少し遠慮を感じる。日奈が死んでからというもの、遠ざかるばかりの宵との距離感に気付いていた。終夜が明依の声を真似て宵を追い払った日、宵は何か話がある様だった。最近の宵は少しおかしい。しかしそれはお互い様だと明依は思っていた。


「ありがとう宵兄さん。せっかくだけど、用事があるの。また機会があれば誘って」

「……わかった。行こうか十六夜」


 やはり宵は、無理矢理明依を引き止める事はしない。明依は十六夜に頭を下げて足早にその場を去った。

 人間の感情というのは複雑だ。自ら断る事で距離を空けようとしているくせに、それが虚しさとなって返ってくる。

 それどころか、本当にお似合いの二人を見て悔しさの様な説明不可能な感情と、脳内に浮かんだ宵と仲睦まじく話す十六夜に嫉妬心すら芽生えているのだから救いようがない。


 その嫉妬心の根源の正体が一体何なのか、見当もつかないくせに。いつから自分はこんなに構ってちゃんになったんだと自傷して鼻で笑えば、幾分か気持ちは楽になった気がした。


「明依」


 正面から歩いてくる吉野は、心の内に溶け込むような優しい声で名前を呼んだ。しかしそれに反して難しい表情を作ったまま、明依の真正面に立った。


 明依は吉野から顔を逸らした。目を合わせる事が出来なかった。それはこれから吉野が何を言おうとしているのか、何となく想像がついてしまうから。そしてそれに対する明確な回答を、持ち合わせていないからだ。


「無茶し過ぎよ」


 何も答えない明依と、それ以上を言わない吉野の間に沈黙が生まれる。


「環境が大きく変わって、すぐに適応できる人間は少ないものよ。立て続けにいろんなことがあった。今はまだ、自分の心を(ほど)く時期じゃないかしら」


 心を解く。それはきっと変わった環境を見つめ直し、旭と日奈の死をもう一度なぞり自分自身と折り合いをつけるという事なのだろう。


 明依は客である藤間(とうま)の言葉を思い出していた。『過去の何一つが欠けていたって今の私にはならないなら、どうしようもなかった事も受け入れようと思えてくる。そして、小さな事にも感謝できるようになるものだ。そう思うまでに随分と長い時間が流れたのに、まだ自分の中で解けきれていない何かがあるのも事実。それでも昔よりは随分と、楽になった。時間とは、そういうものだよ、黎明』


 旭の死は、日奈と宵のおかげで前を向けた。しかし、日奈の死から前を向く自分が想像できなかった。明依の中で日奈の存在が飛び抜けて大きかった事。日奈に嫌いだと告げたまま別れた事。終夜の言葉を借りるなら、二人がいなくなったことで浮き彫りになった〝本当の造花街・吉原〟の姿を前に正気を保てるほどの支えがない分、余白のない自分自身の心の問題。


 だからきっともう、藤間の言う通り長い時間をかけて解いていくしかない。それなら今、立ち直れないかもしれないリスクを取って自分自身と折り合いをつけようとは到底思えなかった。


「これ以上嫌いになりたくないんです、自分の事。だから……ごめんなさい」

「少しずつでいいから認めてあげて、明依。あなたが可哀想よ」


 吉野の横を通り過ぎてすぐ、彼女はそういった。明依は思わず足を止めた。


 少し前までは自分でもそう思っていた。

 旭がいて日奈がいる日常は、幸せだった。だからそれ以上の幸せは望まないと決めていた。

 その二人を失って、自分は心底不幸な人間だと思った。だから宵の言う通り素直に休んでいたし、答えのない問を何度も繰り返してきた。しかし本当は、不幸でも可哀想でもなかった。誰よりも恵まれた環境で、誰よりも幸せにこの街で生きてきた。


 詰まる所自分自身がこの街の〝普通〟を直視しているだけの事。だから、慣れない事に心が反発するのは当然の事。リミッターを外していないと、自分の通常の尺度で現状を図ってしまえば、耐えられない。それならせめて、考える隙間さえない程忙しく動いていたい。だからどうか、優しい言葉を注ぎ込まないでほしい。


 そこまで考えて我に返り、明依は廊下を歩いた。


 これが正しいやり方だなんて到底思っていないし、今更強がるには他人から与えられる幸せに触れ過ぎている事もわかっていた。


 自分自身の事すらよくわからないが、現状まだ〝可哀想な自分〟に酔っていて忙しく働こうとしているのなら、そのまま脇目も振らずに悲劇のヒロインを演じ切ることを願うばかりだ。


 少しだけ開いていた襖の横を通った時一瞬見えた双子の姿に、明依は足を止めた。数歩戻ってその部屋の襖を開けてみるが、誰もいない。明依はしばらく部屋の様子を伺っていたが、室内に舞っている埃が太陽の光を受けてキラキラと光っている以外にこの部屋は何もなかった。


 双子の幽霊の正体を突き止めようなんて恐ろしい事は到底思っていないが、寝不足で通常よりも頭が回っていない事は確かだった。加えて、自暴自棄になっていたのかもしれないし、本来考える必要があることが多すぎてどうでもよくなったのかもしれない。ここ最近視界に入ってくることが増えて、何となく親近感と興味が湧いたのかもしれない。とにかく自分が今からしようとしている事は、この街では正常ではない。


「私に何か、用事があるの?」


 しかし当然、返事はない。

 終夜の言っていた『アンタが何もしなきゃ、あっちも何もしないよ』という言葉を思い出して、同時にこの行動が吉原の人間からすればかなり異常な事に怖くなった。もしもこれが双子の幽霊にとって何かした、という判定になるなら、何かされる、という事なのではないか。


 吉原の人間に、双子の幽霊に話しかけたなんて言った日には、関わるどころかしばらく口をきいてすらもらえないだろう。そう考えると双子の幽霊という存在が急に現実的な恐怖の対象となった気がして恐ろしかった。


 とんでもないことをしでかした気持ちになったが、どうすることも出来ずにそっと襖を閉めた。話しかけた自分を心底呪った。触らぬ神に祟りなしという(ことわざ)を思い出している時点でとっくに手遅れなのかもしれない。 

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