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7:雛菊の花

「本当に助かったわ黎明。ありがとう」

「お仕事ですが、楽しかったです」


 丹楓屋での勤務最終日から一夜明けた朝。丹楓屋の前で柔らかい笑顔の十六夜と握手を交わした。勝山をはじめとした丹楓屋の遊女たちも、笑顔で見送ってくれている。


 本来なら昨日の夜に仕事が終わってすぐに帰る予定だったのだが、勝山の計らいで明依の為の小さな宴会が開かれた。

 正直に言えば、苦しんでいる宵をこの目で見ておいて、挙句の果てに助け出せなかった状態で酒が飲みたいと思えるはずもなかったが、当然断る事も出来なかった。


 主役であるはずの明依を差し置いて上座に踏ん反り返る勝山の様子は、紛れもなく吉原が誇る4人の大夫の一人だった。それなら最後までせめて大夫らしくしてほしかったものだが、そうはいかなかった。


 勝山は最初は猪口で酒を飲んでいた。

 通常なら、両手を添えて丁寧に口に含む事がマナーとされている。しかし勝山は、片手でくいっと猪口を傾けるのだ。


 そこに男性の様な豪快さを感じると共に、繊細な女らしさを感じる。

 おそらく勝山が両手でしとやかに猪口を傾ければ、彼女の魅力は半減してしまうのだろう。本当に松ノ位は自分を魅せるのが上手い。

 〝自分らしさ〟というものが何なのか、余すことなくわかっているんだと実感した。

 勝山の酒を飲む一連の流れでさえ、そういう余興なのだろうと思わせられる。


 ここから勝山を褒めた自分を殴り倒したい気持ちになるのだが、遊女たちと親し気に話している和やかな空気は、視界の端で徳利に口をつけて飲んでいる勝山によって強制終了だ。


 絶対に目を合わせてはいけないという意識だけはあったのだが、勘の鋭い勝山はすぐに明依を見てニヤリと笑った。

 それから「黎明!こっちに来な!」と呼びつけられた明依は、当然酒を注ぐこともない。勝山に肩を抱かれて隣にただ座っているだけだった。


 「私の奢りだって言ってんだ。黙ってのみな」という勝山が差し出したのは徳利だ。

 明依が恐る恐る猪口を差し出すと「こんなちまちま飲んでいられるかい!」と明依の持っている猪口を放り投げた。


 それを十六夜が何食わぬ顔でキャッチして、遊女から拍手が巻き起こっている様子を明依は震えながら見ていた。

 そこからは当然、勝山に飲めと言われれば持っている徳利から直接酒を飲む地獄の宴会だった。


 こんな手が付けられない酒乱モンスターを大夫にしたヤツは誰だ。

 もっと言うなら、梅ノ位から竹ノ位に異例で昇格させたヤツは誰だ。


 殿方の酒の相手を幾度となくしてきたが、こんなに質が悪いのは初めてだ。

 客ならば間違いなく出入り禁止になるところだが、もはや明依は自分自身を今すぐ出入り禁止にしてくれないだろうかと心底願っていた。


 襖の隙間からこっそり覗いていた丹楓屋の楼主とバッチリと目が合ったが、彼はさっと襖を閉めて逃げて行った。


 神様どうかお願いします。

 あと半分でいいんです。

 あと半分、あの楼主の毛根の息の根を止めて下さい。


 と、酔った頭で低レベルな事を考えた辺りから、明依の記憶はもうない。

 誰かが「勝山大夫、普段殿方とのむときはこんなことにはならないのにねー」と言っていたことは覚えている。


 だったら女と呑む時も自我を保ってくれと切に願った。


 今朝起きた時には、広い座敷の中で遊女がいたるところで潰れていた。満月屋ではまず見る事のない光景だ。


 遊女全員に布団が掛けてある。勝山は自分だけしっかり布団を敷いて眠っていたため、おそらく彼女が全員に掛布団を掛けたのだろう。当然明依にも。


 ここは本当にいい妓楼だと思ったが、頭が割れそうな頭痛に見舞われてそれどころではなくなった。

 そんな中涼しい顔で襖を開けた十六夜が少し憎らしかった。


 十六夜から聞いた話だと、昨夜帰ってくるはずの明依が返ってこないと心配した吉野が丹楓屋に来たらしいのだが、酔った勝山が酒と潰れた明依の首根っこを掴んで引きずったまま丹楓屋の入り口まで連れて行き「吉野、コイツは私の手中だ。義兄弟の契りを交わした」とか言って追い返したらしい。


 十六夜がそう語る中、明依は布団にくるまったまま、割れそうな頭を抱えていた。

 一周周ってどうでもよくなり「ああ、そうですか」と蚊の鳴く様な声でしか返事が出来なかった。


 思い返しただけで酒の味がしてきそうな話だが、結局それも含めていい思い出に違いない。

 終夜の息がかかった妓楼ではなかったことに安心していた。


「今度は、遊びに来てもいいですか」


 吉原の妓楼同士は基本的にライバルだ。

 数ある店の中でどの店が限られた観光客から金をとる事が出来るのかが商売なのだから当たり前だが、今回の様に特別な事情がなければ遊女が別の妓楼に足を運ぶ事など滅多にない。


 勝山に向かってそう言うと、彼女は煙管をふかしながら薄く笑った。


「次はもう少しまともに相手になってもらいたいモンだよ」


 そういう勝山に明依は笑って頭を下げた。

 明依を含めて昨日の宴会に参加した人間はもれなく頭痛と戦っているというのに、間違いなく一番酒を飲んでいたであろう勝山はその様子を全く感じさせなかった。


「一週間お世話になりました」


 明依はもう一度丁寧にお辞儀をして、遊女たちに見送られながら丹楓屋を後にした。


 あっと言う間の一週間だった。

 勝山は何を思って急に宴会をしようと言い出したのか明依にはわからないが、気晴らしという意味が含まれていたのではないかと思う。

 その証拠に、昨日よりも随分と気分がいい。


 何一つ解決してはいないが、以前よりもまだ冷静に物事を考えられる様な気がした。そんな事を考えながら歩いていると、観光客に紛れて前方からヒラヒラと手を振る清澄がいた。


「おはようございます。清澄さん」

「やあ明依ちゃん。いい天気だねェ」


 今日の清澄はいつも以上に機嫌がいいように見えた。


「今帰りかい?」

「はい。そうです」

「昨日は勝山ちゃんが宴会を開くって噂になってたけど、あの妓楼の宴会はさぞ愉快だったろう」

「楽しかったですよ。よく覚えてないですけど」

「まァ。勝山ちゃんだからね」


 その宴会が一体どんな様子だったのか理解したのだろう清澄は苦笑いを浮かべた。それにしても、一つの妓楼で行われる宴会の話まで噂になるのだ。


 本当に吉原の人間は噂好きだ。電子機器もない女だらけの花街では当然なのかもしれないが。


「日奈ちゃんへの大夫昇進祝いはもう送っているかい?」


 明依ははっとした。日奈の大夫昇進からすぐに旭が亡くなって、すっかり忘れていたのだ。


「そうだ。何にも考えてなかった」

「その件自体がどうなるかわからないから勧めるのもと思っていたんだけどねェ、実はとっておきの物があるんだ。今から店を開けるから、時間があるならついておいで」


 本当は昨日の夜帰る予定だったのだ。今更一時間程度遅れた所でどうという事もない。そう判断した明依は清澄について行った。


 もしも松ノ位昇格の件が白紙になったとしても、主郭から大夫になるだけの技量があると認められた事に違いはない。

 気持ちを込めて何かを贈りたいと思っていた。


 他愛もない話をしていると、清澄の店はすぐだった。今日も番傘が立てかけてある。


「そういえば。もう、前の事になるんだけどね。初めてこの番傘が持って行かれていたんだよ」


 どこか嬉しそうにそういった清澄は、戸を開けて明依を店の中へ誘導した。


 〝留守だけど、雨が降っていたら使っていいよ〟というあくまで店に来た客を対象にして立てかけている番傘なのだが、明依はそんな事誰もわからないだろうと思っていた。


 それって、盗まれただけじゃ。と内心は思ったが、清澄が嬉しそうにしているので明依は差しさわりのない返事をした。


「ちょっと待っててね。今持ってくるから」


 そういった清澄は、店の奥に入っていった。清澄が商品を出す為に店の奥に入っていくことは初めてだった。

 一体どんなものが出てくるのか。明依はわくわくしながら清澄が戻ってくるのを待った。


「お待たせ」


 清澄は見るからに上品な布で包んである何かを台の上に置くと、布を手で優しく払ってから出てきた桐箱をゆっくりと開ける。


 桐箱の中には、櫛が一つ入っていた。それを見た明依は、思わず声を上げた。


「その様子だと、気に入ってくれたみたいだねェ」

「はい。本当に素敵です」


 日奈への贈り物にこれ以上のものはないと思った。雛菊の絵が描かれた上品なデザインだ。清澄が桐箱から櫛を取り出して、布で出来た入れ物の中に入れてくれた。


 明依はその間、空になった桐箱を見ていた。櫛だけが入っていたにしては桐箱は大きすぎる。明依は桐箱を指さしながら清澄を見た。


「清澄さん。ここにも何かあったんですか」

「簪が二本あったんだよ。はい、どうぞ」

「ありがとうございます」


 同じデザインの簪なのだろう。興味本位で聞いただけだが、入っていた簪はこの櫛のように素敵な物だったんだろうなと、一目見られなかった事が残念な気持ちだった。


 櫛を受け取った明依は、清澄にお辞儀をしてから店を出た。上機嫌の清澄に見送られて明依は満月屋への道を急いだ。なんだか無性に日奈に会いたくなった。


「ただいま戻りました」


 明依がそう言って満月屋の中に入ると、待機していたのか、花が咲いた様な笑顔で吉野が出迎えた。


「無事だったのね。よかったわ」


 そういう吉野は上機嫌だ。今日は清澄といい吉野といい、皆なんだか機嫌がいいなと明依は思った。


 昨夜、首根っこを掴まれて意識を飛ばした様子を目の前で見ておいて、今日は二日酔いで生気のない顔を見て無事だったと思える根拠があるなら聞かせていただきたい。


 自分の顔がもはや化粧ごときでは抗えない程悲惨な事は、鏡で見てわかっていた。


「日奈が昨日からずっと心配しているのよ。部屋にいるから、行ってあげてちょうだい」

「あの、吉野姐さま。いい事でもあったんですか?」

「そうよ。でも私の事はいいの」


 吉野はそういって明依の背中を押した。よく理解できないまま日奈の部屋の前まで誘導され、吉野はさっさといなくなった。

 明依は脳内で誰かの誕生日か何かだろうかと頭を巡らせたが、全く思い当たらない。


「日奈、入るよ」


 そういって日奈の部屋の襖を開けると、日奈は文机の前に座ってこちらを振り向いていた。


「明依、よかった!本当に心配したの!昨日の夜帰ってくるって言っていたのに、吉野姐さまが丹楓屋に行っても追い返されちゃったって言っていたから」


 いつもの様子の日奈を見て、何とも形容しがたい感覚に陥った。気力の全てを攫われた様な、そんな感覚だ。

 急に目の前でへたり込んだ明依の様子が普通ではないと思ったのか、日奈は心配そうに立ち上がって明依の肩に手をやった。


「どうしたの!?どこか痛い?お、お医者様!でも、なんて説明したら、」


 あたふたし出す様子が日奈らしくて、明依は思わず短く声にだして笑った。

 しかし同時に、ぽろぽろと着物に涙が落ちた。感情がぐちゃぐちゃだった。


「大丈夫、平気。どこも痛くないよ」


 笑いながら泣いているくせに、声だけは至って冷静だった。そんな様子を見た日奈は、唇をきゅっときつく結んで目に涙を溜めていた。


「何で日奈が泣いてるの?」

「わかんないけど、明依が泣いてるから」

「どういう事、それ」


 強がってそういったが、止まることを知らない涙はどんどん溢れてくる。この感情の根源が一体何なのか、明依は明確に理解した。


 慣れない場所でずっと糸を張り詰めていた。殺されるかもしれない極限の状態に晒されていた。平気でいられるはずがなかったのだ。


 日奈は明依を抱き寄せると、子どもをあやすように明依の頭を撫でた。


「よーしよし。泣いてもいいんだよー。私も一緒に、泣いてあげる、から」


 わざとらしく言い始めて、最後は言葉を詰まらせて鼻をすする日奈に、明依はこらえきれずに日奈を抱きしめて泣いた。


 おそらく日奈は、どうして明依が泣いているのかわかっていないだろう。

 それでも一緒に泣いてくれる。

 なんて優しい友達を持ったんだと、明依は自分を誇らしく感じた。


 自分がどれだけ日奈という存在に救われているのかを思い知った。

 今心底、安心している。


「明依。言いにくいけど、酷い顔だよ」

「じゃあせめてもう少し言いにくそうに言って」


 ひとしきり二人で泣いた後の事。

 あまり思ったことを直接口にしない日奈がはっきりと酷い顔というのだ。

 よほどひどい顔をしているに違いない。もう鏡を見る事も怖かった。


「そうだ、日奈。渡したいものがあるんだ」

「渡したいもの?」


 自分からそう切り出しておいて、何でこのタイミングなんだと思った。

 しかし切り出してしまったものは仕方がないので、明依は先ほど清澄の店で買った櫛を日奈に差し出した。


「松ノ位昇格、おめでとう」

「ありがとう!明依。早速みてもいい?」

「どうぞ」


 日奈は布袋の中から櫛を取り出して目を見開いた。


「これ、」


 日奈はそういうと鏡台の引き出しから木で作られた細工箱を取り出した。


 細工箱とは、普通の開け方では開かない箱だ。

 それはいつか日奈が一目ぼれして買った入れ物で、日奈はいつも本当に大切なものはこの箱の中に入れていた。


 大切なものを入れているというのに、日奈はいつもどおりそれを明依の目の前で操作して、蓋を開けた。

 日奈が取り出したのは、一本の簪。明依が渡した櫛と同じ、雛菊の模様が描かれたデザインの物だった。


「この簪、昇格祝いだって旭がくれたの」


 差し出された簪を、明依は手に取った。

 おそらく、清澄が持ってきた桐箱の中にあった内の一つ。


 想像通り、とても綺麗な簪だった。

 旭もあの店で、同じように清澄からあの桐箱を見せてもらって、同じような思いでこの簪を買ったのだろうか。


 旭の生前の様子に触れられた様な気がして、胸の内がちくりと痛んだ。明依は簪を日奈に返すと、日奈は簪と櫛を細工箱の中にしまって再び鏡台の引き出しの中に仕舞った。


「おーい。明依ちゃーん、日奈ちゃーん」

「サプライズゲストがいるのよ」


 襖の前で名前を呼ぶ清澄の声と、続いて吉野の声。高揚している様子が声色から伝わってくる。何のことかわからなかったが、二人は返事をした。


 襖が開き、てっきり清澄か吉野がいると思ったが、そこに立っている人物に明依も日奈もあいた口が塞がらなかった。


「明依、日奈。ただいま」


 目も当てられない程傷と包帯だらけではあるが、依然と変わらない笑顔の宵が立っていた。

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