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3:丹楓屋に訪れた夜

 十六夜が案内した座敷の一室の中は静かだった。プライベートな空間を確保できるように防音がしっかりとしているのは、どこの妓楼も同じらしい。


 真正面に胡坐をかいて座っている終夜は、頬杖をついてどこか楽しそうに明依を見ていた。

 こんなチャンスは二度と訪れない。絶対に失敗出来ない。まずは抵抗する自分の心に逆らって、終夜との距離を縮める事が先決だ。


「三味線でも弾こうか?」

「いや、いいよ。うるさいし、興味ないから」

「そう」


 提案をあっさりと断りそれに対して明依がそっけなく返事をしても、終夜は変わらない表情で明依を見つめていた。

 一体何がそんなに楽しいのかわからない。


「気を使わなくていいよ。俺は別に客として来てる訳じゃないんだし。どうぞご自由に」

「じゃあ、遠慮なく」


 明依はそう言うと終夜を放って窓辺に移動し、障子窓を開け放った。


 一体どうしたらいい。どうすれば何を考えているかわからない男との距離を縮めて、隙を作ることができるのか。一つ間違えれば死ぬかもしれないこの状況で。


 頬の体温を奪っていく風は、この雑な造花街には似合わない程心地いい。


 下では勝山が所謂、花魁道中を始めた所だったようで、観光客は一目見ようと大賑わいだ。

 勝山を見ていると不思議と勇気付けられる。単純だな、と思わず口元を緩めれば、固まっていた糸が少しばかりほどけた様な気がした。


「大人しく待っていられなかったの?」


 耳元で聞こえた声に明依は目を見開いて振り向いた。見下した様に微笑んでいる終夜の瞳には、恐怖心を隠す事さえ忘れた自分自身の顔が移っている。


 足音所か、裾が畳を擦る音さえ聞こえなかった。恐怖心から肌が粟立つ感覚が確かにあるのに、同時に情欲を撫で上げる様な声色が、鼓膜を通り抜けて感覚をゆっくりと支配していく。


 まるで即効性の毒の様だ。


 本当に、この男は一体何者なのか。底なし沼だと知っていても、釣られてこの男の素性を知りたくなってくる。


「宵兄さんを返して。とか、ふざけた直談判?そんな訳ないか。本当、何しに来たの?」


 そう言うと終夜は明依の顎を強引に掴んで自分の方へと引き寄せた。


「俺に会いたかった。なんて理由だったら、悪くないね」


 終夜の口調からは、そんな事はありえないと思っている事が読み取れる。バカにしている様な声色だ。


 『負けん気の強さも聞いてた通りだ』と終夜が以前言っていたが、それはある意味当たりかもしれない。


 ここは遊郭の座敷の中。

 つまりこの空間は、相手がどこの誰であろうと、遊女の独擅場でなければならない。


 何を考えているか悟らせない事は、何も終夜だけの専売特許ではない。その気なら乗ってやろうじゃないか。と、明依はため息とも取れる様子で息をゆっくりと細く吐き出した。


 明依の中の〝黎明〟という別人格ともいえる意識が、息を吸った瞬間だった。


「終夜に会いたかったから、会いに来たの。言い忘れていたことがあったから」


 そういって終夜の目をまっすぐに見つめる明依に、見開いた終夜の瞳は確かに揺れていた。


「アンタの思い通りになんて、絶対なってあげないから」


 そういって、明依は自分の顎を掴んでいる終夜の腕を力いっぱい握って引き離した。

 終夜は唖然としたまま、握られた自分の手へと視線を移した後、口角を上げた。


「てっきりみっともなく怯えてばかりだと思ってたのに、とんだ見当違いだ。さすが吉原が誇る遊女さまだね」


 終夜は明依の手首を荒々しく掴むと同時にぐっと自分の方へと引き寄せると、逆の手を明依の腰に回した。


「気が変わった。アンタを買うよ、黎明」


 終夜の手が、握っていた明依の手首から這うように動いた後、手のひらを合わせて止まった。それから明依の指を一本一本絡めて取っていった。


「優柔不断なヤツ。客として来てる訳じゃないんじゃなかったの?」

「そのつもりだったんだけど、会いに来たなんて言わせておいて食事だけして帰るなんて、男としてみっともないと思わない?」


 相手を見極める勘と、一夜の内に違和感なくゆっくりと、かつ無駄なく相手に自分という存在を刻み込み、また会いたいとふいに思い出させる技術を持っているのが遊女だ。


 遅効性の毒を見舞ってやる。


 力に屈しない〝黎明〟という遊女を、脳内で反芻すればいい。

 やがて重要情報だと判断した脳が勝手に錯覚を起こしだすだろう。

 そしてそのまま、地獄の底まで引きずり降ろしてやる。


「失礼します」


 襖を開けた十六夜のおかげで、この凭れそうな程甘くて重い空気が一掃されるかと思ったが、十六夜のいる方向へと顔を向ける明依の頬に触れた終夜は、強引に明依の視線を自分の方へと引き戻した。

 しかし別に、何か次の行動を起こすわけでもない。


 そうしている間に食事を運び終えた十六夜は、二人を一瞥もしないままピタリと襖を閉めて出て行った。

 終夜は楽しそうに口角を上げている。

 凭れそうな程甘くて重い空気は、終夜の手によって強制継続されている。


「お腹空いた」


 かと思えば、終夜はあっさりと明依を解放する。そして、十六夜が運んだ豪華な料理が乗った台の前に座った。


 明依は外を見たが、勝山の姿はもう遠い。

 障子窓を閉めると、終夜が視界の端で手招きしていた。


 終夜は本当に一晩を買うつもりなのだろうか。


 戦う術を持たない明依には、終夜の隙を伺う以外方法はない。

 なりふり構ってはいられない現状では、寧ろ幸運であることに違いないのだが、恨む対象ともいえる終夜に仕事と言えど媚を売る事が悔しくて仕方がなかった。


 しかしそうはいっても距離を縮めて隙を伺わなければいけない事に変わりはない。

 結局終夜の横に座って背筋を伸ばした。


「はい、あーん」


 顔を上げると、終夜が一口サイズに切った具を箸で掴んで差し出していた。


「えっ、なに?」

「雰囲気作りも大切だと思って。ほら、どうぞ」


 もしも本気で雰囲気作りをしようと思っての行動なら、下手にも程がある。


 本気でやってんのか?という気持ちと、この状況で冗談は言わないか。という葛藤の後に浮かんだのは当然、なんでこんな茶番に付き合わないといけないんだと思う気持ち。

 しかし、怪しまれない程度に距離を縮めたいのも事実だった。


 渋々差し出された料理を咀嚼して飲み下す一連の行動を、終夜は何もせずに見ていた。


 趣味趣向を受け入れてこそ遊女と言えるし、よほどの事でない限り嫌悪感を抱く事はない。という事を前提としても、この男がもし、女が食べ物を咀嚼して飲み下す様子が好きなんてカミングアウトをしたら、嫌悪感が顔に出る自信がある。こんなに屈辱的だとは思わなかった。


「美味しい?」

「美味しい」

「そっか」


 料理は美味しい。

 こんな豪華な料理が美味しくない訳がない。きっと凄い金額なんだろうな、と思ったのも束の間、終夜は再び明依の口元に料理を運ぶ。


 明依はただ、差し出される料理を咀嚼しては飲み下すを繰り返した。しばらくすれば終夜は満足気な様子で、料理を自分の口に運び始めた。


「てっきり毒が盛ってあると思ったんだけど、」

「私に毒見させたの!?」

「うん、そう」


 さも当然の様にそう呟く終夜に、明依は身体中から汗が噴き出すのを感じた。

 しかしよく考えれば、丹楓屋が出した料理に毒が入っている訳がない。

 激しく動かされる感情に、明依はほとほと疲れ果てていた。


「でもよく考えたら、アンタそういうの考える程頭よくなさそうだよね」


 どうやら終夜は明依が毒を盛っているんじゃないかと疑ったようだが、生憎そこまでの考えには至らなかった。


 しかし、おそらく終夜にとって誰かを疑うという生活は普通なのだろう。自業自得だが、多方面から相当な恨みを買っている様だ。

 ただでさえ〝裏側〟の人間は何をしているのかわからない。毒の一つくらい盛られてもおかしくないのかもしれない。


 そう考えると、なんだか少し終夜が哀れに思えた。


 そう思わせる事こそが終夜の狙いなのだろうか。何か裏があって意図的に不規則な雰囲気を作っているのだろうか。一度そう思えばもう、脳内で答えの出ない疑問を繰り返すだけだ。


 明依がそんな事を考えているうちに、終夜はさっさと食事を済ませて「ごちそうさまでした」と手を合わせていた。


 意外とちゃんとしているんだな、と思っている明依をよそに終夜は立ち上がると、躊躇なく隣の部屋へ続く襖を開けた。


 布団が一枚敷いてあるなんて事のない部屋の内部が見えた時、明依の心臓は、ドクリと嫌な音を立てた。終夜は明依に背を向けたまま、枕元に私物を放っていく。


 その中の一つに、鍵の束がある。

 終夜が寝ているうちにあれを奪う事が出来れば、宵を助けに行くことが出来る。


 願ってもないチャンスであることに違いないのだが、手放しで喜ぶことは出来そうにない。


「おいで」


 敷かれた布団の上に座った終夜は、まるで子どもを呼び寄せる様に明依の方へと両手を伸ばした。


 優しい声色と表情が、罪悪感を誘発する。

 しかしそれは一瞬の事で今度は、この男は宵に罪を被せているのかもしれない。旭を殺した犯人かもしれない。そんな考えが無意識に浮かび上がってくる。


 そしてすぐに、この男も異性と馴れ合う事が出来るのか。なんて、もっともらしいことを考えて無理矢理上書きした。


 終夜が眠るまでだ。なんて事ない、いつもと何も変わらないただの仕事じゃないか。

 そう言い聞かせて踏み入った部屋は、酷く暗い様に思えた。


 明依が終夜の前に座り両手を伸ばすと、彼は少し身を乗り出して明依を優しく自分の腕で包み込んだ。


「日奈はどう思うだろうね」


 その終夜の一言に、明依は彼の背中に伸ばしかけていた手の動きを止めた。


「悪い事してる気分になって来ない?俺はこういうのも嫌いじゃないけど」


 おそらく、日奈の共通の友人同士だからという意味なのだろう。


 しかし、明依にとってそれは違った。

 日奈は終夜の事が好きなのだと確信しているからだ。


 どうしてこの部屋に立ち入るよりも前に、それよりももっと早い段階で、気を回すことが出来なかったんだろう。

 鍵を奪う事だけに注意を向けすぎた、考えなしの行動が招いた結果だった。


 自分自身が選択を迫っている様に思えた。せわしなく頭を動かし続けていても、その答えが出る事はない。


 終夜は身体を離して明依の頬に触れると、気味が悪いほど綺麗な顔で微笑んだ。


「これから先の事は、二人だけの秘密だね」


 まるで明依の心を内を読んでいるかのようにわざとらしくそう言って顔を寄せる終夜から咄嗟に顔を背けて、力一杯押し返した。


 この男と共有する秘密なんて、枷と同じだ。


 しかし終夜は、自分の胸板に触れている明依の腕を引っ張って引き戻し、強引に布団に押し付けた。


「逃げるなよ。客の相手をするのが、アンタの仕事だ」


 背中を強く打ち付けて顔を顰めた明依に振ってきた言葉は、背筋が凍るような冷たい声だった。

 指一本でも動かせば殺される。そう確信させるような雰囲気に、生存本能が警告を鳴らしている。


 急に頭を優しくなでられ、明依の身体はびくりと反応した。

 そんな明依を見た終夜は、また優しい顔をして笑った。

 それだけで、緊張感がほどけていく。


 力の抜けきった身体が、酷く気怠い。

 寒暖差の激しい終夜の言動は脳内を麻痺させていく。

 気が狂ってしまいそうだ。


 終夜はゆっくりと瞬きを繰り返して、重力に従って布団に放られた明依の手に指を絡めた。


 唇を近づけながら目を閉じた終夜を、明依はただ、目を見開いたまま見つめるしかなかった。

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