ソイツ
斧が振り下ろされる。
「――っ」
すんでのところで回避。危機一髪助かった僕は、そのままソイツの元から逃げ出そうと、足を必死になって動かし、と逃亡を図る。
転ばないように...転ばないように...脳内でそう何度も願いながら、屋敷の中をとにかくがむしゃらに走る、走る、走る。息が続く限り、どこまでも。
心臓が痛い。破裂してもおかしくないほど動いてる。でもそんなことに構ってる暇は無い、止めたら終わりだ、安心したら終わりだ、落ち着いたら終わりだ。たった一つの出口求め、身体中を奮起させる。頼むから、いまだけは無理をしてくれと。
ようやく一階についた。出口はこの先。まっすぐ、ひたすら続く道をまっすぐだ。
ソイツはいない、足が遅いのだ。おそらくまだ三階あたりだろう。まだ、間に合う。
「――っひゅ―――っは――ぁ―――――ぃ、ぁ―――」
酸素が足りない。頭なんかまともに回らない。疲れからか、走ってるのに眠気が襲い掛かってくる。当たり前だ、自分という人間の限界なんてとうに超えているからだ。
朧げな意識。目に映ったのは扉、重厚感のある、それでいて開けるものを拒むような雰囲気を醸し出している。畏怖感を覚えさせるような扉。
ドアノブは一瞬で回す。突っ込むように開け、そのまま正真正銘最後の体力を使い、駆け抜ける。
扉まで、あと三...二...一......いまっ‼
ぶわっと僕に当たるのは心地のよい涼しい風と、斧。
横に一閃。乱暴に振るわれたその一撃は僕の首を通過――しなかった。
体力が尽きたのだ。開けたと同時に一瞬の安心感が僕の中に芽生え、身体から力を抜かせた。命取りになると思われた行動が、自身の命を繋いだのだ。
だが、一撃避けただけで、あいつの手にはまだ斧が握られている。乱暴に振るうだけで、命を刈り取ることができる凶器。そこには血がついていた。すでに乾いた血。
涙が出てきた。あれは僕をかばった姉の物だと、直感的にそう思えた。
そんな僕をみてニタリと笑うソイツ。あれは僕を馬鹿にした笑いじゃない、姉だ。姉を、僕をかばった姉を馬鹿にして笑っているのだ。
絶望と疲弊によって動かなかった僕の体が、怒りによって動き出す。せめてこいつに一矢報いなければ、怒りが収まらない。
殺されるくらいなら、やってやる。
ニタニタ笑い油断していたソイツの腹を殴り、ふらついた体に対して渾身の蹴りをかます。
斧を手放し、一メートルほど吹き飛んだソイツを見て、内心、いけるのではと、そう思った。
もう一撃入れてやろうと、勢いよく蹴飛ばそうとしたとき――ふらっと、体から力が抜ける。
使い果たしてしまったのだ。体力を根こそぎ、すべて。立てるはずもない、よくよく考えれば、蹴れて殴れたこと自体が奇跡みたいなもの。ここまで自分の体はよく頑張ったと労ってやりたい。
ソイツは立ち上がる。分かっていたと言わんばかりに、ソイツは愉快そうに笑う。ニタニタ、ニタニタと。
動かない体に対し、身体中からは依然怒りがわいてくる。無茶苦茶に走ったことにより、アドレナリンがドバドバと出てきたせいもあってか、今の僕にはソイツから逃げようという気も、怖いという気もなかった。あるのは純粋な殺意だけ。
ゆっくり、ゆっくりと近付いてくる。ただ、何故か斧は持ってない。
目の前にまで近付いて、しばらく見た後に僕の腕をつかむと何処かへと連れていく。
抗うことも出来ずに地面とすりあう肌に苦しんでいると、やがて目的の場所に到達したのか、僕を乱暴に離す。
目の前に見えるのは部屋。ここに来た時には見つけられなかった部屋。
扉をソイツが開けると、見えた景色は――絶望だった。
勝手にソイツが一匹だけだと考えていた自分がいた。そんなことはない。目の前に広がるだだっ広い部屋にいるのは何十、何百というソイツ。開けた瞬間、一斉にこちらを向き、ケタケタと笑ってきた。
部屋に何十、何百にも響く耳障りな嗤い声。再び襲い掛かってきた恐怖に震えていると、ソイツ、僕を追いかけていたソイツは僕の腕をまた掴み、引きずり部屋の中へと入る。
扉はソイツに閉められ、部屋の中央へと連れられる。
どうすることもできない僕がうずくまっていると、ソイツが数匹僕の体に群がってきた。
「――く、くん、な...‼どっかいけ、近寄るな...!」
ソイツらは僕の体を持ち上げると、操り人形に動かし始める。
手、足、顔、体、すべてをソイツらに操られる。
なにやら手に握られた感触がしたこと思えば、その感触の正体は斧。先ほどのではなく、新品の斧だ。
なにをさせる気なのか、ひょっとして、自らの手で殺させる気なのか。
顔を無理矢理動かされ、抗うすべも時間もなく前を向かされ、見えた景色は――ソイツらの数倍、数十倍の地獄。
姉がいる。
母親がいる。
父親がいる。
親友がいる。
彼女がいる。
ぼくの、大切な人たちがいる。
どうしてここにいるのか、姉はともかく、どうして両親、ましてや彼女まで。理由はともかくとして、生きていることを喜ぶべきなのか。感覚がおかしくなった僕にはもうなにも分からない。
『A唖 亞唖ア あハハハハハ』
狂った嗤い声が聞こえる。ソイツらは楽しんでいる、これから起きる何かを。
ギギギと、ソイツらが持ってきたのは大きな十字架。そこにソイツらは姉を引きずり、端についてある拘束器で拘束させ、ゆっくりと、ゆっくりと僕に見せるように目の前に立たせる。
ソイツらはまた、僕を操り人形のようにして動かし始めた。視線は逸らさせず、姉の方を向かされ、右手に持たされた斧を――
「――おい」
ゆっくりと、あえて力は込めされず、姉の腕へと伸ばされ――
「――やめろ」
柔らかく、綺麗だった肌を撫でるようにして、じわじわといれていき――
「――やめてくれ」
食材を切るように上下に動かし、姉の腕は少しずつ――
「――いやだ」
硬い感触の部分は、すこしだけ強く動かされ、じわじわと――
「――あ...あ......」
やがて、すかっと空を切るタイミングになると、下の方から強めの衝撃音が――
「あああああああああああああ‼‼」
ぴちょぴちょと何かが滴る音が響く。ソイツらの嗤い声は不自然なほど聞こえず、延々とその音が鳴り響く。
そのとき。
姉の瞼が、ひらいた。
「ん、んん..いっ‼ちょっと待って、なにかいた――」
視線は痛みの方――右腕、だったほうへと動く
「――ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ‼‼‼‼‼‼‼」
姉の叫び声が僕の鼓膜を揺らす。
そう言えば、姉のゆめはかんごしさんだって、きいたことがある。
ソイツらのわらいごえ――ちがう、これは
「...あは、あはは、あははははははははは」
――僕だ
そんな僕たちを無視して、ソイツらは、姉の左腕の方へと動かし始めた。
姉はそんな僕に気付かない。おそらくきられてから気付くのだろう。
ソイツらは嗤わない。愉しそうに、ぼくたちを見ている。
姉の後ろで、ソイツらが母親をあの十字架に拘束しているのが見える。
――全員、僕の手でさせる気だ。
僕の右腕が上下に動かされる。先ほどよりもゆっくりと。
姉を嗚咽が聞こえる。なにか言っている。身を捩って逃げようとしている。
斧は止まらない。姉の泣き叫んだ声が僕の身体をゆする。
床へと、なにかが落ちる音がする。
僕の右腕は今度は足へと動く。それに伴い、姉の悲鳴が一層強くなった。
乾いた嗤い声が虚しく室内に響いた。
丑三つ時に出す気はなかったんですけど、衝動のまま書いたらこの時間。
関係ないけど。