10月26日-4
「…ふ…はぁ…っ………」
……やっとソニアから解放され、家に帰り着いたとたん、思わず僕は玄関先で座り込んでしまった。何というか……異常に疲れた。
「しかしこれ……ヤバいな……。はぁぁぁぁ……」
たったの、ほんの数十秒だったとはいえ、今までにない、かつてない勢いで脳みそをぶん回したのだ。その過集中の反動が、安心したとたんにどっと押し寄せてきたらしい。
とはいえ、いつまでも座り込んではいられない。どうにか身体を起こして、僕はのろのろとリビングへと向かった。
「おかえんなさい、瞬弥……って、あんたどうしたの? 頭なんか押さえて」
「おかえりお兄ちゃん! って……ほんとにどーしたの? 何なの? 闇の力とかに飲まれそうなの?」
「……はぁぁぁ…」
マグカップ片手に出迎えてくれた絵依子の言葉が、ただでさえくらくらしている頭にさらに追い打ちをかける。思わず僕は両手で頭を抱えてしまった。…まったくこいつは何を言ってるんだ……?
「いや……ちょっと疲れたっていうか……。頭使いすぎて知恵熱っていうか……」
「…ふーん。よくわかんないけどお疲れっス。お兄ちゃんもなんか飲む?」
「んん……? 絵依子…それ、いつもの紅茶か?」
「そうだけど…何?」
確か脳みそは砂糖で出来てるから、糖分を摂ると異常が治まると聞いたことがある。ということは…つまり…。
「………ッッ…!!!」
「え! ちょっ?! お兄ちゃん?!」
とっさに僕は絵依子のマグカップを奪って、そのまま一気にぬるめの紅茶を喉に、胃へと流し込んだ。
予想、想像通り、絵依子の紅茶はいつもの砂糖たっぷりの激甘仕立てだ。普段ならこんなのは邪道すぎて、紅茶への冒涜として許せないけれど、しかし今日だけは…今だけは……、その邪道こそが僕にとっての何よりの助けになるはず…っ!
「……っぷはぁ……っっ…!」
全部を一気に飲み干すと、すぐに効果が現れた。今までのくらくら、霞みがかったような頭の状態が、見る見るうちにいつも通りに戻っていったのだ。
「ちょっ……信じらんない! なんで勝手に人の飲んでんの?!」
「ご…ごめんごめん。でもどうしても……こいつが今の僕には必要だったんだ」
「は……はぁ?! なにそれ意味分かんないんだけど! うぎいぃぃっ!!!」
紅茶を僕に盗られた絵依子が、顔を真っ赤にしてブチ切れている。確かに大好物を急に横から掻っ攫われたら、そりゃ絵依子でなくても誰だってキレるだろう。
「ふぅ……だからごめんって。すぐに新しいの淹れるからさ」
「ぬぎぎぎぎ……! じゃあさっきのより美味しいやつ! じゃないと一生祝うからね!」
「はいはい…、それをいうなら呪うだろ…、了解っと…」
もっと美味しいやつ、という絵依子のリクエストに応えるべく、さっそく僕は立ち上がってダイニングに、そしてお皿や茶碗をしまってあるのとは別の収納を開けた。そう、ここにしまってあるのは、ここぞという時に飲もうと取っておいた、普段使いの茶葉よりちょっとだけ高級なやつなのだ。
そういえば今頃気づいたけど、結局アルシアさんが言っていた「とても良い茶葉」のお茶が飲めなかったのは残念だった。あの人たちが言う「とても良い」って、いったいどういうレベルなのか、僕には想像もつかないな…。
「…ところでさぁ、いつもより帰るの遅かったじゃん。何してたの?」
入れ替わるように母さんが夕飯の支度にキッチンに立ち、僕はダイニングに戻って二杯目のお茶をいただいていると、同じく二杯目のマグカップを置きながら、今まで読んでいたらしい本をぱたんと閉じてそんなことを絵依子が聞いてきた。
こいつが読書とはまた珍しい……。やっぱり近々槍が降るんじゃなかろうか。
…などと考えながら、さてどうしたものかと僕は少し言葉に詰まった。本当のことを言うと、また絵依子が不機嫌になりそうなのがちょっと怖いのだ。
「あーやと一緒に帰ってたんでしょ? あ、そのままあーやの家に寄り道でもしてた?」
「え、なんでおまえ…知ってるんだ?」
「なんでって……普通に校門のとこで見かけたからだけど」
「そ、そっか。なるほど。でも、それだったらおまえも一緒に帰ればよかったのに」
「…わ、わたしは…ちょっと用事があったから。それよりもどうだった?」
「どう……って、あ、そうだ! おまえ…最近の綾の様子をどう思う?」
「え、な、何? 急にどうしたの…?」
僕は昼にあった日名瀬さんとの会話…、つまり、ここしばらくの綾の様子が少し変だという話を打ち明けた。そしてその理由に、何か思い当たることはないかと尋ねた。僕には分からなかったけれど、絵依子と綾は同学年で同性で、血は繋がってないけど姉妹みたいなもので……。
先日のあのヒソヒソ話のこともある。ゆえに僕の知らないことを何か知っていても不思議はない。
「う~~~ん……? 心当たり…かぁ。まぁ…あるような…ないような…?」
「…なんだそれ。ってか、やっぱり何か知ってるのか?! なんだ?!」
「…言いたくない。てか言えない。言ったらわたし、多分あーやから絶交されるから」
「な……」
…そこまで言っておいて、肝心なところは秘密って……。
でも、無理に聞き出そうとしてもたぶん無駄だろう。今の絵依子の表情からは、はっきりとそれが伺えるのだ。
「…直接じゃなくても、なにかヒントとか…そういうのもダメか?」
「……ダメかな。わたしバカだから、うっかり答えバラしちゃうかもだから」
「ぬぐぐ……じゃ、じゃあ…」
「はいはーい! ご飯できたわよ! 絵依子! 並べるの手伝って!」
「はーい! 今日は何かな? 今日は何かな? ふふふふんふん~~~」
「……っ……」
それでもせめてどうにか秘密の一部、一端だけでも聞き出そうと食い下がったものの、いきなりのキッチンからの母さんの声掛けに、絵依子がすばやく椅子から飛び降りた。「話は終わり」とばかりのその態度に、これ以上の追求はやっぱり無駄だろうと僕は悟ったのだった。
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「…ふわ……。じゃあ母さん、先に休ませてもらうわね。戸締まりよろしくね」
「うん。おやすみ」
「おやすみ~~~! ごゆっくり~~~!」
夕食の後、明日も早いらしい母さんがあくびをしながら寝室に向かっていった。時間はといえばまだ8時にもなっていない。
いつものことながら本当に看護師の仕事って大変なんだな……。
「ねね、お兄ちゃん。ところで…今晩どう?」
などと考えながらさっき使った食器を洗い、片付けていると、ふいに絵依子がそんなことを小声で言ってきた。どう…とはどういうことだ?
「どう…って、何が?」
「…もお、決まってるじゃん! 今日はお母さんも早く寝るし、あいつらをやっつけに行こうよ!」
「……え、あ、あぁ……、そうか……」
あくまで小声で、でも語気は強めの絵依子にそこまで言われて、やっと僕はさっきの言葉を理解した。
しかし怪物狩りか…。確か前に行ったのは4日か5日ぐらい前だ。たったそれだけなのに、その間にいろんなことがありすぎて、何だかずいぶんと前のような気がする。
…まったく、この数日に本当にいろんなことがありすぎた。その前回の戦いの時に女性の坊さん…真都と出会ったこと、綾が過労で倒れたこと、ソニアと出会ったこと、日名瀬さんにアドバイスをもらってソニアと鎌倉にいっしょに出かけたこと、その後に帰ったと思ったソニアが家に泊まったこと……。
本当にいろいろあり過ぎて、これが現実なのか今も疑わしいぐらいだ。
「で、どう? またバイクでさ、びゅーんって行って帰ってきたら、そんなに遅くもならないと思うし」
「あ…、あぁ、そうだな。じゃあ…サクッと行くか……」
まぁ絵依子の言うことにも一理はある。このところ慌ただしくてまったく意識から抜け落ちては居たものの、怪物狩りは絵依子と僕の……父さんから受け継いだ使命みたいなものなのだから。
と、でもそこまで言ってからふと僕は思い出した。
「………あ……」
「ん? どうかした? お兄ちゃん」
…まずい。まずいぞ。今の今まで完璧に忘れてた。いろいろバタバタしていたことで、前回の怪物狩りから僕は絵依子のカードを一度も確認していない。もしかしたら何枚か白紙に戻ってしまっているのもあるかもしれない。だとしたら、それをどうにかしないと、とてもじゃないけど戦いに行くのはマズイ。
「…い、いや…、やっぱり今日はやめとこう。カード…何枚か消えてるんじゃないのか?」
「あ…うん。そうだけど……でもちょっとだから大丈夫だよ。へーきへーき!」
「いや……ダメだ。いつも言ってるけど、ちゃんと準備はカンペキにしてからじゃないと、あいつらと戦うのはダメだ。あいつらは……」
「……むぅ。分かってるよ。あいつらは訳わかんないから常識が通じない、でしょ」
「そ、そうだ。常識もそうだし、前回ああだったこうだった、みたいなのも通じない可能性も高いんだ。だから何が起きても対応できるようにカードだけは揃えてないと……」
まさか今までカードの件をど忘れしていたとはさすがに言えない。なのでとっさに僕はそう口走った。もっともカードについて僕がそう考えているのは本当なのだから、完全に口からデマカセというわけではないのだけれど。
しかし、これで絵依子が諦めてくれればいいのだけれど…、…どう……かな……。
「…そっか。分かった。じゃあ…しょうがないね」
「………っほ……」
少しの沈黙の後、そう絵依子が答えた。
……よかった。割とあっさりと絵依子が引き下がってくれたことに僕は胸をなで下ろした。というか、いつもだったらギャーギャー反論してきたり、あれこれと反発してくると思ってたのだけど、ちょっとこれは本当に意外だった。
逆に物分りが良すぎてちょっと気味が悪いぐらいだ……。
「…た、たぶん、明日だったら大丈夫と思う。ごめんな、絵依子」
「ぜーんぜん。あ、だったらお兄ちゃんも早くお風呂入って、早く寝たら? 疲れてるんでしょ?」
「ふむむ……、それもいいな。じゃ…これが終わったらそうするか」
「後片付けの続きはわたしがやっとくからさ。ささ! さささ!!!」
「え、そ、そうか……? ホントにいいのか……?」
「いいからいいから! はい一名様ご案内~~」
・・・ばしゃっ
「ふぇぇぇ…ぉ…」
絵依子になかば無理やり背中を押されるようにして風呂場に来た僕は、いつものようにささっと掛け湯をしてから、一気に湯船に首まで浸かった。すると思わず変な声が出た。
ほとんど毎日入っているというのに、このお風呂というやつはまるで飽きるということがない。人類が発明したものの中でも、トップランクの一品なのではなかろうか。
「さてと…。しかしとにもかくにもまずはカードだな……。明日もまた行けないなんて言ったら、今度こそブチ切れそうだしなぁ……」
…などと独りごちたものの、正直面倒であることには違いはない。綾のこと、ソニアの宿題のこと、そして…怪物のこと、ソキエタス…だの会士だの、真都たちお坊さんのこと……。
まったくもって訳が分からないことだらけの上、他にもバイトのことなど、考えないといけないことが山のようにあって、正直いっぱいいっぱいだ。
本当の本音のところで言えば、もう戦いなんてゴメンだ。本当にこれ、どうにかならないものなんだろうか。
「……って、絵依子がそんなの納得するはずがないよな……」
いったい何がそこまで絵依子を戦いに駆り立てているのか。父さんの遺言というのはもちろんあるだろう。でもそれだけとも思えないことが時折あるのだ。
今日はなぜか、たまたまなのか機嫌が良かったからなのか引き下がってはくれたけれど、たぶん明日には元通りの、いつもの絵依子に戻ってるだろう。だとしたら、やはりカードの件だけはきっちりと守らなきゃならない。
「ぶくぶく……とにかく…なんとかしなきゃな……」




