10月14日-幕間
「……エリナか。どうしたね…?」
真っ暗な部屋に、パソコンのモニターの光だけが照らす中で、ふいに男が
口を開いた。
同時に、ぎし、と音を鳴らして、男がキーボードを叩く指を止めた。椅子に
身体を大きく預けて、しかし振り向くことなく。
まるで、そこに誰かが現れることを、あらかじめ知っていたかのように。
「…昨晩、本部からの新しい「監視者」がこの国に来ました。予定通りです」
「そうか。この事……奴にも伝えただろうね?」
「はい……」
「…結構。他に何かあるかい……?」
「いえ。特にはありませんが……、その……」
「……ん。なんだい? いいから言い給えよ」
静かに、音もなく部屋に現れた女性が、言いにくそうに口ごもる。それに真っ
白な髪を頭にたくわえた男が先を促す。
しかしその髪の色ほどには、男は年齢を重ねているようではない。顔つきだけ
を見れば男は30代、いや20代ほどにも見える。
どこか得体の知れない風貌の男に促され、エリナと呼ばれた女性が意を決した
ように口を開いた。
「……来日したのは、あの『ソニア・エルンステッド』です。これも…貴方の
予定通りなのですか……?」
「…ソニア? ソニア……だって?」
「そ、そうです! あの…「THE ART」のソニア・エルンステッドです!」
エリナの顔と声が、かすかに気色ばんだ。しかしそれも無理のない話だった。
会士の中では知らないものなどいない、世界最強と謳われる、圧倒的な力を
持つという「THE ART」がこの国に派遣されてきたという事態は、下手を打てば
自分たち、いや、眼の前のこの男の計画すら危ういと言えるだろう。
それだけの力を、実力を『ソニア・エルンステッド』は持っていることを
彼女は知っているがゆえの声色だった。
雄々神の前ではどうにか平静さを装ってはいたものの、男の前でついエリスは
本音をこぼしてしまった。しかし男の返事は、彼女の想像の完全の外側だった。
「……ん、ソニアって…誰…だったかな…?」
「は……、…は…………っ?!」
「ソニア…、ソニア・エルンステッド…? アルシア・エルンステッドじゃなくて、
ソニア…エルンステッド…?」
「…………」
唖然とした表情を浮かべて、エリナは思わず言葉を失った。あろうことかこの
男は、あのソニアを知らないと言ったのだ。
到底それは信じられるものではなかった。この世界に身を置く者ならば誰であれ
ソニアの名を知らないはずがない。ましてや男が引き合いに出したようなアルシア
という名など、彼女は聞いたこともなかった。
「あ……、あの……」
「ソニア……? ソニア……、あ、あ…?」
「……そう…です。ソニア・エルンステッドです。まさか…本当にご存知ないの
ですか?」
「あぁ…、いやいや、思い出したよ。ほぅ。そうか……。なるほどね…。あの
ソニアがね……。なるほどなるほど…」
「………?」
「…なんでもない。知っているといえば知っているさ。ただ……」
「……た、ただ……?」
「…古い話さ。昔々の、古い知り合いということだよ。きっとずいぶん大きく
なったんだろう」
ふっ、と懐かしそうに、男が目を細めた。
「資料では…今年で18歳だということですが……」
「…そうか、もうそんなになるのか。泣き虫だったあの子がね……。ふっふっ…」
「…………」
ソニアの事を古い知り合いだと言った男を、怪訝そうな表情でエリナが見やる。
これまでも過去の事をそう多くは語らない男だったが、しかしそれはエリナには
あまりに意外過ぎるものだった。
…この人は、いったい何者なのか。
時折そんな言葉が口をついて出そうになるのを、これまでもエリナは幾度となく
耐えていた。
「ま、それはともかくだ。奴の方はどうなってる?」
「…順調です。ただ、若干の問題は残っています。やはり『実験』に耐えられる
素材の確保が難しいようで……」
「ふぅん……。そうか…」
そんなエリナの想いなど知らない風に、顎に手を当て、考え事をしているような
素振りを男がした。しかし、それもあくまで素振りでしかない。することはもう、
男の中ではとっくに決まってるのだ。
「どう…されるおつもりですか?」
「…なら、新しいエサを準備させよう。頃合いを見計らって、奴の手に渡るように
手配しよう。準備だけしておいてくれ」
「…承知いたしました」
「無論…判ってると思うけど、くれぐれも悟られないように、だよ」
「はい。心得ております。創司さま」
「じゃあ頼んだよ」
「……はい。それでは」
そこまで言うと、くるり、とモニターに向き直り、「創司」と呼ばれた男が再び
キーボードを叩き始めた。背を向けた創司にエリナもお辞儀をし、部屋から退出して
いった。
部屋から出る瞬間、エリナがわずかに創司を振り返った。何かを言いたそうに
その唇がかすかに動いたものの、それは言葉にならなかった。
扉が閉じられ、再びキーボードを叩く音だけが部屋に響く。だが、リズミカルな
打鍵の音がふいに止まり、真っ暗な部屋に静寂が訪れた。
わずかな間の後、小さな、つぶやくような声が部屋に響いた。
「……これが「運命」か。…願わくばソニア、無事にこの使命を果たさんことを。
ってね……」