10月24日-6
「え、あ、あうぅ……」
…うろたえるしかない僕に、畳み掛けるようにソニアさんが迫る。
だって、でも、そう言われてもソニアさんは僕よりも歳上で…、立派な社会人
で、何よりもすごいデザイナーなのだ。間違っても僕ごときがタメ口で話して
いいような人では断じてない。
…いや、もちろんそれも理由だ。でも何より僕がソニアさんに敬語なのは、僕
自身がそうするべきだと、そうしたいと思っているからだ。だからこの「提案」
は飲めない。飲みたくない。
だけど……。
この僕の小さな拘りは、彼女の希望を無下にしていいようなものなのか…?
他の誰でもない、ソニアさん自身が「タメ口」を望んでいるというのに……?
そんな思いが……ふいに僕の心に湧き上がった。
「…ンン? ……シュンヤ?」
「……わ、分かりまし、い、いや……、オッケー、…分かったよ」
…ほんのわずかの間、迷って……考えてから、僕はソニアさん、いや、ソニアの
希望に沿うことを…選んだ。
「グッド。そう来なくちゃネ。じゃあ……また明日ネ。お隣サン。フフ……」
「あ……、う、うん!」
僕の返事に満足そうにソニアさ…、ソニアが微笑んだ。いったい何を思って
こんなことを言い出したのかは分からないけれど、最後にこの笑顔が見れたの
だから、まぁ良しとしよう。
やがて、ギイィ、と重苦しい音を立てて玄関が閉まり、手を振るソニアと
アルシアさんの姿が視界からなくなった。
ようやく長いようで短い、いや、僕の感覚的には短い、でも精神的に疲れた、と
言う意味ではやっぱり長いパーティーがようやく、今度こそ終わったのだった…。
「…ふぅ。…さすがにもう真っ暗だな。綾、送っていこうか?」
「うぅん。大丈夫だよ。…エコちゃん。ちょっといい?」
「ふぇ? う、うん……」
「………?」
と、玄関を出てすぐに、階段の踊り場でそう綾が絵依子に声を掛けた。
するとそのまま少し僕から距離を置いて、二人が何やらひそひそ話を始めた。
いったい何だろうか。僕に聞かれると都合が悪いような話なのか、それとも
普通に、女子同士でないとしにくいような話なんだろうか。
会話の内容はまったく聞き取れないけれど、時折絵依子に浮かぶ驚いたような
困ったような表情から、なんとなく面倒なことが起きたらしい、と僕は感じた。
「…分かったよ。でもあんまり期待しないでよ?」
「うん。ありがとう、エコちゃん」
会話の最後にそんなような言葉が僕にも聞こえた。どうやら秘密会議は終了
したらしい。だけど、どこか困り顔の絵依子に、満足げな綾という、いつもとは
まるで正反対の組み合わせの表情である。
いったい何の話だったのか……正直ちょっと気になるな……。
「…じゃあ瞬くん、エコちゃん、私もここで。おやすみなさい」
「うん。お疲れ様、綾」
「じゃあね、あーや」
そんな短いやり取りの後、綾も自分の家のある棟に歩き出した。それを見届け
てから、僕たちもわずか数メートルの先の我が家に帰り着いたのだった。
がちゃり・・・・・・
玄関のノブを回すと、案の定鍵はかかっていなかった。ということは、やっぱり
母さんはもう帰宅しているようだ。
「…ただいま」
「たっだいまぁー…」
とりあえず靴を脱ぎながら、奥にいるだろう母さんに声を掛けると、何やら
難しい顔をした母さんが玄関まで出迎えに来てくれた。
「…おかえんなさい。っていうか…、これ、どういうこと…?」
でも開口一番、母さんが僕の残した書き置きをひらひらさせながら、そんな
ようなことを口にした。
僕が家を出る前に急いで書いたのは要するに、今日、隣に昨日泊まったソニア
と、その家族のアルシアさんという人たちが引っ越してきたので、そのお祝い
パーティーに参加してくる、というものだった。
確かにこれは、普通に読んだらまったく意味が分からない代物だろう。普通に
考えたら有り得ないような話だからだ。
…でも事実としては何も間違っていないのだ。だから僕はこういうしかなかった。
「えっと……、ホントに書いてあるそのままなんだけど…」
「えぇ……、じゃあソニアちゃん、ホントに引っ越してきたの?」
「うん。母さんにはまた改めて挨拶するって、アルシアさんが言ってたよ」
「はあ……。外国の人ってすごいのねぇ…」
呆れたような、感心したような声を母さんが上げた。でもそれは少し違う。
外国の人だからすごいんじゃなくて、即断即決、そしてそれを迷いなく実行する
ソニアがただただスゴイのだろうと僕は思う。
「あとこれ、よかったら晩御飯にどうぞって」
そう言って僕は、帰り際にアルシアさんに持たされた折り詰めを差し出した。
「あら……、これもすごいわねぇ…」
「僕らはもう頂いてきたから。全部食べていいよ」
母さんが折り詰めを開けると、中には今日のパーティーの料理がぎっしりと
詰まっていた。と言っても残り物とはとても思えないような……まるでお店で
売られているパーティーボックスみたいにキレイに仕立ててある。
さすがにソニアのお姉さんだけあって、アルシアさんも美的センスというか、
この道の才能は相当高いらしい。
「え! ちょっ! ローストビーフ! まだ残ってたの?!」
「…おまえが全部食い散らかしそうだったから、とっさにアルシアさんが隠して
おいたんだろうな」
「ぐぎぎぎぎ……」
まだ食い足りない、と言わんばかりの絵依子の頭にチョップしながら、僕は
また別のことを考えていた。あのアルシアさんという人も、よくよく考えれば
ずいぶんと謎の多い人だ。あの外見でソニアの「姉」だといい、かなり流暢な
日本語で喋れたり、日本人でも忘れかけてるような日本の風習にも通じている
のだから。
でも何よりの謎は……ソニアさんとの関係だろう。
「じゃあこれは後で頂くわね。…ちゃんとローストビーフは残しておいてあげる
からね、絵依子」
「……やっぱいいよ。お母さん。全部食べていいから」
…………??!!
…突然聞こえてきた、これまた信じがたい絵依子の言葉に、さっきまで考えて
いたことが全部吹っ飛んだ。
「…え、で、でも…あんた食べたいんでしょ? 私だったら別に…」
「いいよ。…よく考えたらもうお腹いっぱいだし」
「……………」
…思わず僕と母さんは顔を見合わせてしまった。まさか絵依子が肉を眼の前に
してこんなことを言うなんて。仮にもし本当にお腹が一杯でも、こいつなら
『お肉は別腹だよ~~』ぐらい言いそうなものなのに。
「え、絵依子。おまえ…大丈夫か? どっか調子悪くなったとか……」
「…うっさいなぁ。どこも悪くないし!」
「じゃ、じゃあ……これ、ありがたく頂くわね。あ、お風呂沸かしてあるから、
あんたたちも入りなさい」
「…わたし、ちょっと疲れたから、今日はお風呂はいい。…もう寝るね」
「…………」
「……………」
そう言うと絵依子は洗面所の方に向かっていった。どうやら歯磨きをして
パジャマに着替えて、本当に寝るつもりらしい。そんな絵依子の後ろ姿を二人で
見送りながら、僕たちは首をひねるしか…できなかった。
「…瞬弥。あんたはどうするの?」
「う、うん。絵依子が寝たら入るよ」
「……何があったのかしらねぇ…」
「…だねぇ……」
そこから少し、ソニアとアルシアさんについて話していると、絵依子が寝室に
入っていった。入れ替わるようにして僕も脱衣所に行き、いつものようにぱっぱ
と服を脱いで風呂場へと入った。
・・・ざぶん・・・・・・
「ふおぉぉぉぉ……ぉぉ……」
今日も掛け湯もそこそこに湯船に浸かると、ちょうどいいお湯加減が全身に
染み渡っていき、口からまた変な声が出てしまった。
それにしても……考えてみれば本当にここ数日は信じられないようなことばかり
が起きている気がする。おまけに今日のことは極めつけだ。母さんに一通り説明は
したけれど、言ってる僕自身がいまだに本当のことなのかと疑ってしまうほどだ。
そしてこれからはタメ口で、なんて言われたけれど、明日からどんな風に彼女に
接すれば良いのか。僕には正直見当もつかない。
日名瀬さんに言われたように、僕には女子の友達なんていない。強いて言えば
綾がそうなのかもしれないけれど、あいつは幼馴染で家族に近い。だから結局、
どう接したら良いのかは分からないままだ。
いろいろと思い浮かぶことはある。だけどその全部が、本当にそれでいいのか
確信が持てない。結局これも堂々巡りを繰り返すだけである。
「ぶくぶく……。…また日名瀬さんにアドバイスをもらうしかないか……」
愚にもつかない考え事を無理やり僕は打ち切った。また没頭して、2時間も風呂
に浸かっていたらゆでダコになるか、下手をしたら気づかないうちに溺れてしまう
かもしれない。
まさかそんなことはない、と思いたいけれど、ついさっき、そのまさかが起きた
ばかりなのだ。湯船に浸かっていると、どんどんと身体がほぐれていくのを感じら
れるけれど、それはつまり、さっきまで相当緊張していた証拠でもある。
今日も訳が分からないことの連続で、精神的な疲労も半端なかったんだろう。
まだ9時にもなっていないような早い時間だというのに、うっすらと眠気も感じ
られる。用心するに越したことはない。
「…そろそろ上がるか……」
少し早いけれど、今日は僕もさっさと寝てしまおう。誰に言う訳でもなく、そう
独りごちてから立ち上がって、僕は風呂場を後にしたのだった。




