10月24日-5
「………へ………はぁぁっ……??!!」
…自分の耳が受け止めた空気の振動に、僕は一瞬……思考が止まった。
…いま、僕は何を聞いた…?
いま…ソニアさんは何と言った……?
僕の……聞き間違い……、いや、いや、……確かに僕は聞いた。ソニアさんが
僕のことを「気に入った」のだと…。
でも、あまりに信じがたい言葉に、僕はただ……呆然とするしか…なかった。
「そういうコトだからシュンヤ、これからモよろしくネ。フフ……」
「え……あ……あ……」
…昨日、いや一昨日から、信じられないことばかりだ。やっぱりこれは……僕は
まだ夢の中なんだろうか。
いや、でもそれは無い。そんなことはそれこそ一昨日からずっと考えてきたこと
だからだ。そしてその度に、この考えはさらなる「現実」に否定されてきたのだ。
だからこれも…たぶん夢なんかじゃない。頭ではそう思う。だけど何度否定
しても、そんなことばかり考えてしまう。だってそれぐらいこれは……有り得ない
ような話だからだ。
あんなに美人で才能のある人が、この僕を気に入った……、つまり……僕に好意
がある、とも取れるようなことを言ったのだ。そして、それがこの謎の引越の理由
でもあると。
…つまり、僕の近くにいたいがために、ここに引っ越してきたとソニアさんは
言ったのだ……。
「……………???」
……こんなことを言われたら嬉しいに決まってる。嬉しくないはずがない。
でも、それ以上にあまりに信じがたい話すぎて、僕の脳みそはまたパニックを
起こしかけていた。
…本当に訳が分からない。これが夢でないのなら、何が夢だと言うのか。もし
これが本当に夢でないのなら……。
…僕はシンプルに……、単純に頭がおかしくなってしまって、白昼夢を……、
いや、幻覚をずっと見ているのだとさえ思った。
それぐらい…今のこの状況は有り得ない。あのソニアさんが僕のことを気に
入った、だなんて。
あるいは……上手くなったとはいえ、まだ日本語が完璧でないゆえの言い間違い
なのかもしれない。それとも…単に僕はからかわれているだけなのか……?
…考えても考えても、考えれば考えるほど、ソニアさんの言葉の意図が分から
ない。そしてまた思考がぐるぐると回る。堂々巡りだとは分かっていても。
「…………」
「…ちゃん」
「……………」
「…兄ちゃん………」
「もぉ! お兄ちゃんってば!!」
「……へ…? あ、え、絵依子か…。…急にどうした?」
…ふいに掛けられた声に、僕は現実世界に引き戻された。また僕はしばしの間、
どっぷりと一人の世界に沈んでいたらしい。
「…もぉ。なにボーっとしてんの? そろそろ帰ろうよ」
「え、か、帰るって……まだ来たばっかりじゃ……」
「…なに言ってんの? もう2時間ぐらい経ってるよ。そろそろお母さんも帰って
来る頃だし」
「……は…? おまえこそ何を……」
そう言いかけてふと周りを見ると、ソニアさんの姿は近くになく、僕は一人で
ベッドに腰掛けていた。そんな僕を絵依子が見下ろすように立っている。確かに
少し時間が経ったような感覚や雰囲気はあるけれど、いくら何でも2時間はない。
「……まったく大げさなやつだな……」
…半信半疑のまま携帯を取り出して時間を見たとたん、僕は愕然とした。
なんと時間は…確かに絵依子の言うとおり、7時近くを示していた。
ということは…本当にあれから2時間近くが過ぎたということで、つまり僕は、
ソニアさんのあの衝撃的な言葉を聞いた瞬間から、完全に意識が、記憶が飛んで
いたらしい。
確かにまた少しの間ぼんやりしていた自覚はある。でも……まさか2時間もだ
なんて…。
「そ、そっか。そうだな…。じゃあ………」
どうにかそれだけを喉の奥から絞り出して、僕はベッドから立ち上がったの
だった。
「…あら、もうお帰りですか?」
「はい、今日はこれで失礼したいと思います。ところで綾は……」
そう声を掛けてきてくれたアルシアさんに答えながら目を走らせると、ダイ
ニングでソニアさんと談笑している綾の姿が見えた。どうやら誤解も解けて、
うまく打ち解けているらしい。良かった良かった…。
「あ……。瞬くん、ずっと向こうから帰ってこなかったけど…どうかしたの?」
「あぁ、いや……、た、たいしたことじゃないよ。ちょっと休んでたって
いうか…」
「フフ……、ほらネ。言った通リでショ? シュンヤは本当ニ面白いネ。急ニ目ヲ
開けたママ寝始めたのヨ」
こっちに気づいた綾とソニアさんが口々にそんなことを言ってきた。まあ……
確かに寝ていたようなものではあるけれど…。
と、ふいに悪戯っぽく笑うソニアさんが、ぱちり、と片目を閉じた。瞬間、
さっきの彼女の言葉を思い出し、思わず僕は…顔が赤くなっていくのを感じた。
「……っっ……!」
「…オゥ! そう言えバ料理ガ冷めちゃったワネ。すぐニ新しいのヲ…」
「……い、いえ、大丈夫です。それより…そろそろお暇しようかなって」
「フゥン……? ソウ…」
…どうにか平静を装って、僕は帰宅の意思をソニアさんに告げた。ソニアさんと
一緒にいることは楽しいし嬉しいけれど、今ここにいるのは、正直心臓に悪い。
知らない間に帰宅する時間になったのは、ある意味で幸運だったかもしれない……。
「…綾はどうする? まだいるか?」
「う……ん…。じゃあ…私も帰ろっかな」
「そっか。じゃあ……ソニアさん、アルシアさん、今日はごちそうさまでした。
ありがとうございました」
来た時と同じに、また3人で連れ立って挨拶し、帰ろうと玄関に向かいかける
と、二人が揃って見送りに来てくれた。
「今日ハ楽しかったワ、シュンヤ。皆モ楽しんでもらえたカシラ?」
「え、えぇ。楽しかったです…」
「はい。またお料理教えてもらってもいいですか?」
「えぇ。秘伝のレシピはまだまだありますから!」
「フフ…、エークはドウ…?」
「…まぁまぁかな。今度はお菓子も用意しといてよ」
「判りましたわ。では次は美味しいクッキーを焼いてお待ちしていますね」
…あとで絵依子のやつは絶対シメる。そう僕は心の中で決意を固めたのだった。
「と、ともかく、今日はありがとうございました。良かったらまたうちにも来て
下さい」
「判ったワ。それとシュンヤ。今日カラ敬語は無しヨ。えェト……、タメ口…?で
話スこと。OK?」
「………は……っ……?」
……いったい今、何が聞こえたのか、また思考が追い付かずにいると、ふいに
こちらを覗き込むようにしてきたソニアさんと目が合った。
「……シュンヤ?」
「…え、あ、は、はいっ! わ、分かりましたっ!」
とっさに僕は訳も分からず返事をしたものの、なぜかソニアさんがまたおかし
そうに、くっくっと喉を鳴らした。
「フフ……、判っテないじゃナイ。今日カラ、敬語ハ、無シ。OK?」
…改めてソニアさんが子供に言い聞かせるように、ゆっくりとした発音で繰り
返した。おかげでようやく理解はできたものの、発言の中身はとうてい受け入れ
られるようなものではない。最後の最後に、とんでもない爆弾を投げつけられた
気分だ…。
「え……、で、でも……」
「言い訳ハ不要ヨ。YES? OR NO?」
「え、あ、あうぅ……」




