10月23日-4
・・・キーンコーン・・・カーンコーン・・・・・・
…ようやく今日の授業も全部終わり、僕はカバンを引っ掴んで教室を飛び出た。
家にいるはずのソニアさんのことも気になるけれど、絵依子や綾のことも気がかり
だった。
朝、あんなことを言ってしまったことを、僕は二人にちゃんと謝らなければ
ならない。ただ……謝りたい気持ちはあるものの、かといって面と向かっては
それも難しく感じてしまう。
どう言えば…どう謝ればいいだろうかと考えながら、ともかく僕は靴箱のところ
まで来ていた。
と、靴箱の向こうの出入り口のところで、ふいに見知った人物がキョロキョロと
所在なさげな感じで立っているのが見えた。
……綾……だ。
「……あ…」
向こうも僕に気がついたのか、たったとこちらに小走りで駆けてきた。だけど
正直言って実に気まずい。
どうやって話を切り出そうか、どう謝ろうかと、まだまるで考えがまとまって
いないのに、いったい今さらどの面下げて顔を合わせられるというのか。
でも。
「……あ、あの…瞬くん……、朝のこと…ごめんね……」
「え……! いや……、あ、あの、僕の方こそごめん…悪かったよ…」
なんと僕の目の前にやってきた綾が、うつむきながら朝のことを切り出して
くれた。おかげで僕もごくごく自然に、すっと謝罪の言葉を口にすることが
できた。いろいろ考えていた自分がバカみたいだと思えるほどに。
僕の言葉に顔を上げた綾は、少し驚いたような、でも嬉しそうな表情だった。
これでまずは一つ問題解決だ。あとはソニアさんの件をきちんと説明すれば
綾についてのミッションはコンプリートでいいだろう。
「ところで…今日はもう帰るのか?」
「うん…。今日は部活もないし……」
「そっか、それに病み上がりだもんな。その方がいいよ」
「う、うん……。それでね、いっしょに帰っても……いいかな?」
「…変なやつだな。そんなのいちいち聞くほどのことじゃないだろ」
「…うん! そう…だよね!」
靴を履き替えながらそんなやり取りをした後、僕は綾と一緒に校舎の出入り
口を抜け、校門を出た。
…こうやって綾と並んで帰る、なんてのはずいぶんと久しぶりな気がする。
学校へ行くのは毎朝いっしょだけれど、帰りは部活の関係で、綾とは時間が
合わないからだ。
だけどこれは、考えようによっては丁度いいチャンスかもしれない。
「ところで…、ほんとにもう身体は大丈夫なのか? なんか……過労で倒れた
って聞いたけど」
「うん。もう全然大丈夫。……のんびり寝てなんかいられないし」
「……? ま、まぁ、元気になったんならそれに越したことはないよな」
そう言ってから見た綾の顔は、朝とは違って今はずいぶんと顔色もいい。
表情も能面のようだった朝とは別人のように、いつもの綾そのものだった。
これなら確かに大丈夫そうだ。
「ありがとう…心配してくれたの?」
「そりゃ綾は家族みたいなもんだからな。するに決まってるだろ。ってか、
綾も僕のこと、心配してくれてたんだよな……、ほんとに……ごめん」
「……え?」
「確かに…知らない人が家に上がり込んでたら、不安にもなるよな。でも、
ソニアさんはそういうんじゃないから。安心してくれ」
「……う、うん…。…っていうか…急にどうしたの? 瞬くん」
「いや…お昼にさ、クラスの女子に怒られたんだ。だから……」
「女子って……瞬くんが? なに? どういうこと…?」
「…だからそれを今から説明するよ。ちょっと長くなるけど…最後まで聞いて
ほしい」
なんとなく自然に、ソニアさんについて説明できる流れになってくれたので、
帰りの道すがらに僕はこれまであったこと、経緯を話すことにした。
先日のソニアさんとの出会いから、鎌倉の観光案内、そのために日名瀬さんに
助けを求めたこと、鎌倉での出来事、家に帰ってからのこと、そして今日のお昼
のこと。それらをなるべく詳しく説明したのだった。
もっとも、さすがに気恥ずかしい部分や、あまりに自分が情けなく、カッコ悪い
部分は少々ぼやかして、だけど…………。
「…そう…だったんだね。よく分かったよ。話してくれてありがとう」
「…本当にごめん。僕は…綾や絵依子の気持ちなんてまったく考えてなかった」
「うん。でも…もういいの。事情は分かったもの」
一通り話し終えると、ようやく納得した、という風情で綾がうなずいた。でも
次の瞬間、今まで見たことがないような真顔のまま、綾が口を開いた。
「それで…瞬くん。瞬くんは……その人のこと、どう思ってるの?」
「え、どう……って、どういう意味で?」
「その外国の人……、ソニアさんって人のこと、好きなの?」
「…へ……ぅえぁっ!!!!」
…いきなり、とんでもない言葉が綾の口から飛び出したのを耳にして、思わず
僕の口からも変な声が出た。
こいつは……急にいったい何を言い出すんだ?
「あ……、あのさ、そんな訳ないだろ。どこをどうしたらそう思うんだよ」
「じゃあ…違うの?」
「当たり前だろ。そもそも僕なんかが好きになっていいような人じゃないんだよ、
ソニアさんは」
そうだ。ソニアさんがいくらあれほどの美人と言っても、そんな感情など僕に
起こるはずもない。僕とソニアさんでは、国も違えば住む世界も違う。同じ絵描き
としても才能も実力も桁違いだ。釣り合いなんか取れるはずもない。むしろ憧れ
とか尊敬というのが、今の僕の気持ちに近い。
「ふぅん…? 人を好きになるのに、そんな資格みたいなのがいるのかな?」
「い、いや、そういうことじゃなくて……、と、とにかく違うんだよ」
「そっか……、うん、そうだよね。ふふふっ…確かにそうかもね。あの人、すごい
美人だったもんね。確かに瞬くんじゃ釣り合い取れないかも」
「………むっ…、…いや、分かってくれたんならいいけどさ……」
……確かにその通りだし、自分でもそう思ってるけど、人から言われると微妙に
腹が立つな……。
「でも本当、びっくりしたよ。今朝ね、急にエコちゃんが家に飛び込んできたの。
昨日の晩から変な女の人が家に居座りだしたとか、瞬くんがその人に操られてる
とか言うんだもん。お母さんもびっくりしてたよ」
「そりゃまた…とんでもない話だな…」
話だけ聞けば、意外にそう間違ってもいないだけに、なるほど事情を知らない
人から見れば、確かにそう思われても仕方ない。他人の話として聞かされたら
僕だってびっくりするだろう。
…改めて僕は、自分の視野の狭さを認めざるを得なかった。
「でしょ。だけど私、一昨日に倒れてからずっと意識が朦朧としてて、最初は
エコちゃんが何言ってるのかよく分からなかったんだけど、瞬くんに何かが
起きたっていうことは分かったの。そしたら急に身体に力が湧いたっていうか
それであわてて飛び起きて……」
「……そっか、ごめん……」
「うぅん。だからもういいの。それになんだか私、この騒動で逆に元気に
なっちゃったみたい。だからもう気にしないで。ふふふっ!」
「…………」
言われてみると、確かに今日の綾はいつもよりも元気というか、口数も多いし
靴箱のところで会った時もだったけれど、妙に積極的で行動的な感じがする。
けれど…同時にかすかに違和感もある。無理をしている…という感じでもない。
ただ言葉にならない…言葉に出来ないレベルの違和感なのだ。
少しもやもやするけれど、分からないことを考え続けても仕方ない。僕は
頭を切り替えて話を続けた。
「…それでさ、絵依子のやつにもちゃんと謝ろうと思う。今日、あいつの様子…
あれからどうだった?」
「え……、ど、どうかなぁ。エコちゃんとはクラスが違うから、私もあれから
会ってないから…」
「…そっか……」
そうなると家であいつを待つということになるけれど、あまりソニアさんが
いるところでは話したくない、という気持ちが僕にはある。また朝の時のように
興奮して、おかしなことを口走るかもしれないからだ。
となると、帰ってきたところを捕まえて、なんとか外に連れ出して、さっき
綾にしたように丁寧に説明するしかないか。
などと考えながら歩いていると、ふと気づけば家のある棟はもうすぐそこの
ところまで僕たちは戻り着いていた。
「あ、あのさ……。あの……」
事情が分かってもらえたのなら、出来れば綾にも直接ソニアさんと会って、
きちんと彼女のことを知ってもらいたい。そんな風に僕は思った。実際に会って
話をすれば、もっと安心してもらえるはずだからだ。だけど…。
「…うん。あの時は私もまだ寝ぼけてる感じだったから、今度はちゃんとご挨拶
するね。朝の失礼もお詫びしなきゃだし」
「…………!!」
だけど、またどう切り出していいか分からず口ごもっていると、今度もなんと
綾の方から微笑みながらそのことを提案してきた。
まったく優等生にも程がある。出来の良すぎる『妹』の気遣いに、思わず僕は
心の中で泣いた。
「…ありがとう、やっぱり綾はさすがだな」
「…そんなことないよ。それに…」
「……? それに?」
「…うぅん。なんでもない」
…一瞬。つぶやくような小声で答えたそのほんの一瞬だけ……綾の顔が朝の時
みたいな…能面みたいな無表情に…戻った。
「………っっ…?」
「……? どうかしたの? 瞬くん」
「え……、い、いや……別に……」
……今のは…いったいなんだったんだ……?
僕の…見間違いか……?
かすかに違和感はあるものの、もうすっかりいつも通りだと思えていた綾から、
ふいに感じられた異変に…僕は言葉を続ける事ができなかった。
そしてそのことを考える間も、問う間もなく、僕たちはもう家の階段の前まで
来ていた。
とりあえず僕はまた、さっきの違和感を頭の隅に追いやって、郵便受けを開けて
鍵があるかどうかを確認した。
「ない…な。ということは……」
朝、ソニアさんには、もし出かけることがあるなら鍵はここに、と伝えたから、
ここに鍵がないということは、彼女はまだ家にいる、ということになる。
もしかしたらもうソニアさんは家から居なくなっているかもしれない、という
密かな不安もあったけれど、どうやら大丈夫そうだ。
ふと振り向くと、さっきまでの無表情はどこかへ消えて、綾がにこにこと笑顔で
うなずいた。
そんな綾に促されて、僕は意を決して玄関を開けた。鍵はかかっていなかった。
ということは、ソニアさんはやっぱりまだここにいる、ということだろう。
・・・がちゃり
扉を開けると、当たり前だけどそこは…いつもの僕の、僕たちの…見慣れた
我が家の玄関だった。でもソニアさんがここにいてくれていると思うと、当たり
前のはずの景色なのに、妙に明るく感じられる。
「あ、あの……、た、ただいま…」
とりあえずそう言ったものの、返事はなかった。というか、人の気配がしない。
あわてて脱いだ靴を蹴り飛ばして、僕はダイニングに飛び込んだ。でも、やっぱり
そこもがらんとした空気のままだった。
「え……、そ、ソニアさん……?」




