10月14日-2
…がらり。
「はぁ…何とか間に合ったぁ……!」
安堵のため息を漏らしながら扉を開け、僕はホームルーム直前の教室に
なんとか滑り込んだ。 いつもながらの綱渡り、という状態に、我ながら
少しだけ自己嫌悪を覚えてしまう。
もう少しだけ早く起きればいいだけなのは判ってる。けど判っていても
出来ない事というのは、間違いなく世の中には存在しているのだ。
…正直それも情けない話ではあるものの、自分を知る、ということは
大事だと僕は思う。敵を知り、己を知れば百戦百勝、とどっかの戦国武将も
言っていたらしいし。いや、それは中国の武将だっけか…?
とにもかくにも自分の席につくと、僕は授業までの時間を寝ることに
した。近頃はバイトの面接やら履歴書作りで睡眠不足気味なので、少しでも
寝れる隙間があるなら逃す手はない。
机に突っ伏すと、すぐに睡魔が襲ってきた。寝られるにしてもせいぜい
10分ほどだけど、この際贅沢は言えないだろう。
「おっはよーー!」
「おはよー、サキ! 珍しくギリじゃん!」
「ふあ………ぁんんん…」
クラスの女の子らしき声を聞きながら仮眠のためのベストポジションを探って
いると、ふと僕の机の横を誰かが通り過ぎるのが見えた。
いや……、その人の手が。その手に握られているものが……見えた。
「へ……。え……っ…?!」
それは……今朝見た……あの新型のスマホだった……。
「え……、え、え……っ?! なんで…それって……!」
思わず眠気も吹っ飛び、僕は飛び起きてしまった。確か今日のニュース
では、発表されただけで発売はまだずいぶんと先のはずだ。
それがどうして…いま目の前に、存在している……?
訳が分からず、僕は女の子の右手ごと、スマホを食い入るように見つめる
しかできなかった。
「え? 渡城くん…、これ、知ってるの?」
ふいにかけられた声の方向を見上げると、きょとんとした顔の女の子が僕を
見ていた。確かクラスメイトの……………………
…誰だっけ…………。
「……あ、う、うん。そ、そのスマホって……今日発表されたやつじゃ……」
とりあえず、それは置いておいて僕は彼女の言葉に応えた。
「…へぇ。渡城くんってこういうの詳しいの?」
「い、いや…そう言うわけじゃないんだけど…。でも発売前なのにどうして…」
「…うちね、父親がメーカーのお偉いさんなの。だから試作機をね、私が実際に
使ってみてテストしてるの」
…少しかがんで、小さな声で彼女がささやくように言った。
なるほど、試作機のテストか…。そういうのもあるんだ……。
「あの…、ちょっと触らせてもらってもいいかな…」
「あ、そういうのはダメなんだ。いちおうシャガイヒ?ってことなの。ごめんね」
「ちょ、ちょっとだけで良いんだ! ゆ、指でこう…指の先っぽでなでるだけ
でもいいから!」
「……なんか渡城くん、言い方がエロいんだけど。とにかくダメだよ」
「う……うぅ……」
…期待を込めた僕のお願いは、あっけなくお断りされてしまった。でも確かに
発売前の新製品を、関係ない人間に易々と触らせる訳にはいかない、というのは
理解はできる。名残惜しいけれど仕方ないか…。
「でもこれ…2,3日前から使ってるけど、気がついたのは渡城くんだけだよ。
さすがだねぇ。ふふっ!」
…なにか、ずいぶんと親しげに話しかけてくるこのクラスメイトの女の子に、
僕はちょっと気圧されてしまった。
というか、向こうは僕のことをよく知ってる風なのに、僕は彼女のことを全然
知らない。名前さえも。
「あ、あの……」
「ぅん? なに?」
「あ………」
いちおう名前を尋ねようかと思ったものの、よくよく考えてみればそれも
失礼な話だ。向こうは僕のことをちゃんと知っているのに。
だから僕は一瞬、口ごもってしまった。
「………? それにしても、ずいぶんとこれ、気に入ってくれてるみたいだね。
だったら発売したらちゃーんと買ってよね?」
「あ……、う、うん…」
結局名前は聞けず、向こうもそのことに気がつかなかったらしく、彼女は
すたすたと自分の席に……、僕の3つ前の席に座った。ほとんど同時にがらりと
扉を開けて先生が教室に入ってきた。
今日もこうして、相変わらずの学校での一日も幕を開けたのだった。
キーンコーン・・・
カーンコーン・・・
「……ふぁ…あ…あ…ああああ…」
チャイムが鳴ったと同時に、クラス委員長の号令が掛かり、みんながばたばた
と立ち上がる。ホームルーム前に吹っ飛んだ眠気はすぐに戻り、いつものように
授業中、ぐっすりと熟睡していた僕も、半分寝ぼけながらあわててそれに倣った。
「えっと…次は現国だっけか……」
椅子に再び腰を下ろして、次の授業の用意をいちおうするべく、教科書を
出そうとした瞬間、お腹のあたりから、ぐぅ、と小さい音が鳴った。
…ふと周りを見ると、女子たちはそれぞれの弁当を取り出し、わいわいと
机をくっつけ始めている。
「……え……?」
それでようやく、今がお昼の時間なのだと僕は気づいた。
「よぉ渡城ー。メシ食おうぜー」
「お前、今日もすごかったなー。現国の山セン、ガチギレしてたぞ?」
ふいに掛けられた声に振り向くと、そこには弁当の包みを持った
クラスメイトの福沢くんと斉藤くんがいた。
「3時間以上ぶっ通しで居眠りとか、もはや居眠りってレベルじゃねーぞ」
「逆にスゲーわおまえ!」
ゲラゲラ笑いながら、二人が僕の机のところにまでやってきた。特に
予定もない僕は、それをそのまま受け入れることにした。
「そういや今日は珍しく、HR前に日名瀬となんか喋ってたよな。女には興味
なさそうな渡城センセイがどういう風の吹き回しだぁ?」
……ひなせ、日名瀬…?
あぁ、朝のスマホの女の子の名前……、それが日名瀬さんか。
「そ、そんなんじゃないよ。ひ、日名瀬…さんが持ってたスマホがさ、その…」
そこまで言ってから、僕はあわてて口をつぐんだ。いちおうあれは発売前の
機種なのだ。あまりペラペラしゃべるべきではないだろう。
「スマホ? 渡城センセイもとうとうガラケー卒業かぁ? そりゃめでたい
なっ……と…」
などと斉藤くんが言いながら、二人が空いた机と椅子を僕のところへ
くっつける。
「ん……、まぁね。今度出るっていうやつはかなりカッコいいから、買っても
いいかなぁって、ちょっと思ったり」
「ほぉ、っていうと、あれか。今日発表の『ペリアX』か。さすがにお目が
高いな」
そう言いながらも福沢くんが何やら微妙そうな顔をしながら、隣の席の
女子の椅子にどっかと腰を下ろした。
「あ、福沢くんも知ってたんだ」
「まーな。でも実はあれはあんまオススメはできんぜ。なんせクソ高いらしい
からな。性能は良くても、コスパ的には最悪だからよ」
「っていうと……?」
「…普通に買ったら10万超えるらしいぜ。おめーんとこの経済状況で、
そんなの買えるか?」
「は…ぁ……っっ?!」
じゅ、じゅうまんえん……?!
あまりに想像以上のお値段に、僕は愕然としてしまった。せいぜい2,3万
ぐらいだと思っていたのに、まさかその4倍5倍もするなんて……。
「………それは…ちょっと…っていうか、普通に無理だね……」
「だろ? いくらハイスペックでも、あれはねぇよ」
ふん、と鼻を鳴らして福沢くんが弁当箱のフタを開ける。でも次の瞬間、
なぜかかちん、と彼が固まった。
「………?」
何が起きたのかと、思わず福沢くんの弁当を覗き込むと、僕と斉藤くんの
時間も、一瞬…止まった。
……そこにあったのは、特大の梅干がひとつ。
おかずもご飯もなく、堂々と中央に張り付けられたそれは、銀色に輝く
弁当箱の中で、なお燦然とした輝きを放っていた。
もしかしたら僕たちは、まったく新しい日の丸弁当の誕生の瞬間を目撃
したのかもしれない…。
「はは…は……。きょ、今日はよ、妹がカレシのを作るってんで、ついでに
作ってもらったんだわ……」
「へ、へぇ……、なかなか…個性的な弁当…? だね……」
「はは……は…。妹ってのはこうなんだよな。こういう生き物なんだよ…
ははははは…」
福沢くんの乾いた笑いが余計に涙を誘う。僕と斉藤くんは、かける言葉も
見つからないまま、立ち尽くすしかなかった…。
「…とりあえず、そっとしておいてやるか…」
「……そうだね…」
僕たち二人も、静かに自分の弁当を平らげるのに集中することにした。例の
スマホのことも忘れてしまうことにしよう。
10万円もするようなスマホなんて、僕には贅沢過ぎる。そんなお金がある
なら、貯金するか家に入れる方がはるかにいい。
「…そうだよ。その方が…いい」
「…あ、うん。確かに…いい。これはこれで結構アリかも……」
…僕の独り言を勘違いしたのか聞き違ったのか、福沢くんはうなずきながら、
ひたすら黙々と梅干を口に運んでいた。
・
・
・
・
・
キーンコーン・・・カーンコーン・・・・・・
「きりーつ! 礼!」
クラス委員の号令が教室に響いた。午後の授業もホームルームも全て
終り、これでようやくお勤め終了、という感じだ。お昼を食べて眠くなった
僕だったが、なんとか一応は最後まで起きて授業を受けた。
周りを見渡すと、帰宅する人や部活に向かう人で、いつものように
教室はごった返している。
僕はと言えば、特になにか用事があるわけじゃない。部活がある訳でも
ないし、バイト探しも少し先だ。僕にしては珍しく、やらなきゃいけない
ことも、やりたいことも特にない放課後だ。
だからという訳じゃないけれど。きっと朝に綾とした会話のせいでも
ないけれど、なぜだか僕の足は…あの場所に向かおうとしていた。
がたがた、と何度か前後左右に揺すり、ポイントを確認しながら僕は
校舎の4階の一番端にある、美術室の扉に手をかけた。
はっきり言ってここの教室の建て付けは最悪だ。コツを掴まないと、
開けるのに何分も掛かる事もある。
もっとも建て付けだけの問題ではなく、この校舎そのものが老朽化
しているせいでもあるのだろうけど。
ちなみに鍵はかかってない。開きにくさだけで、このことを知らない
人は、鍵がかかっていると勘違いするからだ。
だいいち、わざわざここを訪れる人間なんて誰もいない。授業で
使われることもほとんどなくなったこの教室に、ましてや放課後に
訪れる人間なんて、僕を除けばせいぜい美術の前川先生ぐらいなのだから。
・・・ガラ・・・ラっ・・・
少々手間取ったものの、なんとか扉は動いてくれた。そして教室に足を
踏み入れると、カビ臭さといろいろな画材の匂いが入り混じった匂いに、
僕は……なんとも言えない気持ちに囚われた。
外からかすかに運動部の掛け声が聞こえてくるだけで、教室の中は
ひっそりと静まり返っている。なにか目的があって来た訳じゃないので、
僕は当て所もなくうろうろと歩き回る。というか、本当にいったい何を
しにきたのか、自分でもよく分からない。なんで今さらこんなところに
自分は来てしまったのか。ただの気まぐれなのか、それとも未練なのか。
がらんとした教室の床には、イーゼルと椅子がいくつか残っている
だけで、後は紙くずのようなものが散乱していた。試しになぞると、
うっすら…どころではないホコリが指についた
真っ黒になった指先を制服のズボンでごしごし拭いていると、ふと棚の
石膏のデッサン像に目が留まった。そうだ、前はこれでよくデッサンの
練習をしていたものだ。
「懐かしいな……」
不意に口をついて出た言葉に、思わず僕は苦笑してしまった。だって
それは言うほど昔の話じゃない。せいぜい半年ぐらい前の話だ。
あの頃はそれこそ、ここに入り浸っては前川先生に教えてもらいながら
絵を描いていた。美術部なんかないこの学校で、僕みたいなのは
珍しかったんだろう。だからなのか、先生にはずいぶんと目をかけて
もらってたし、お世話にもなった。
…でも、その先生も急病とかで、ここしばらく学校を休んで入院している。
少し前、夏休みに入ったあたりにこの教室で倒れていたのを、偶然警備の人が
発見して事なきを得たのだとか。
今も命に別状は無いものの、まだ意識が戻らないのだと、担任の
内山先生は言っていた。
一度お見舞いにも行こうと病院を訪ねたけれど、面会謝絶で会うことは
できなかったことを思い出す。
『渡城、お前、進路はどうするんだ? 芸大に行く気なら良い予備校を
先生が紹介してやるし、推薦状も書いてやるぞ。お前なら絶対に受かると
思うんだがなぁ』
『…ありがとうございます、先生。でも、芸大に行ける余裕なんか
うちにはありませんし、ここを卒業したら、どこかちゃんとした所に
就職して…家族を助けたいんです』
『そうか…おまえ自身がそう考えているなら仕方ないが…、しかし
惜しいな…』
……そんな風なやり取りを、先生と何ヶ月か前に、ここで交わした
事も思い出す。
あれからも何となく、手慰みに描いていた絵も、今は綾に言った通りに全然
描いていない。ここに来るのもずいぶんと久しぶりだ。
あの時先生に話した気持ちは今も変わっていない。絵の道で、
腕一本で食べていく、なんて言えば聞こえは良いけれど、そんな
イチかバチかの人生なんて、とても自分には出来ない。
僕がちゃんと仕事に就ければ、家に入れられるお金に余裕もできる。
そうすれば母さん一人に苦労をかけることも無くなる。もっと広い家に
引っ越しだってできる。もしも絵依子が進学したいと言い出しても、
それを応援することだってできる
…全部が上手くいく。考えるまでも無い話だ。
だから僕は絵を描くのをやめた。
本当に絵が好きなら、趣味で続けてもいいじゃないか。そんな風に
いう人もいるけれど、僕にはそうは考えられなかった。未練は
残したくない。もしこうだったら、ああだったらと後悔はしたくない。
だから僕は…絵を描くのをやめることにしたのだ。
空いた時間は全部、バイトに突っ込むことにした。それでも学生の
身ではたいした稼ぎにはならない。いっそのこと退学することも考えた
けれど、それは母さんに大反対されてしまったので、諦めるしかなかった。
…一人きりになると、いつもこんな風にじりじりと焦燥感のような
ものが心にくすぶる。
…そして同時に、もし家が今みたいじゃなくて、そして父さんが
もし生きていたら…と思う。
そうしたら僕は別の道を目指す事が許されたかもしれない。
誰の許しでもない、僕自身の許しを。
・・・コトっ・・・・・・・・・
不意に響いた小さな音に、僕はふいに現実に引き戻された。
「……なんだ……?」
とっさに周りを見渡すと、窓際の棚に置いてあったらしい、デッサン用の
チョークが落ちたみたいだった。
「……?」
と、ぶるっ、と身体がふいに震えた。
ふと気づくと、教室のカーテンが微かにそよいでいる。でもおかしい。
窓は全部締め切られているはずなのに。
…ぞわり、と小さな悪寒が背中に走った。