第1話
雷が鳴った。叩きつける豪雨が、地に倒れる老人を打ち殴る。胸には深い穴が開いていて、雨と混ざった血が真っ赤な水溜りを成していた。偉大なる魔術師、ディラギウス・プリシード。減り続けているとはいえ無視出来ない権力と力を持つ魔術師の、その頂点に立つ伝説の《先導者》だ。そんな偉大な人物が地に伏し血を流しているのは、その足元に立つ一人の少年が原因だ。ミリアン・レッドライド。あらゆる魔術師の卵の中から選ばれた、先導者の弟子。だが選ばれたのは彼だけではなく、真に才能で選ばれたのも彼ではなかった。
「お前。何してんだよ」
冷たい怒りを孕んだ声に振り向けば、熱く輝く瞳の少年が立っていた。ユーマ・ディバリスグレイ。公爵家の嫡子で、生まれながらの天才。絵画から飛び出たように美しい顔立ち、上品で豪華な術衣、彼が受けた大きな愛を象徴する希少な術杖。ミリアンは彼が嫌いである。彼と目が合う度に、どうしようもない自己嫌悪に襲われるからだ。彼は建国から王を支えた公爵家の直系で、ミリアンは最近派閥争いに打ち勝った男爵家の傍系だ。彼の両親は度々贈り物を持ってここに顔を見せたが、ミリアンの両親は顔を見せるどころか贈り物の一つもない。様々な違いがある。それは仕方のない事で、とやかく言うべき事ではないのかもしれない。それでもミリアンは、彼に対する嫌悪感を捨てられなかった。
「Fol……」
ユーマがボソリと呟くそれは、魔術詠唱。口に出す事によって精霊と繋がる事ができ、その単語数によって繋がりの深さも調節出来る。つまりユーマは現状、第三階位までの魔術を扱う事が出来るのだ。
「……Fo」
対するミリアンは、第二階位まで。扱う魔術の多さを比べればユーマに軍配が上がるが、それはミリアンには関係の無い事だった。
「《焔道:第一章》」
ユーマが翳した右手の前に、小さな炎が生まれた。雨など関係なく揺らぐ炎は、次の一言で大きく姿を変える。
「《焔道:第二章》」
爆発的に燃え上がった炎が分裂し、いくつもの小さな火の玉に。そこでユーマはチラリとミリアンを見てから、人差し指と親指を立てたまま拳を握った。
堰を切ったようにミリアンに殺到する火の玉の群れ。それらはミリアンに着弾する直前で、思い出したように軌道を変えた。
「師匠は殺した。なのにお前が敵う筈が無いだろ」
全ての火の玉が、ミリアンの背後で停止する。その後ゆっくりと頭上に浮いた火の玉は、次の瞬間ユーマにむかって飛び出した。
だがユーマは、既に走り出していた。ミリアンの周囲を回るように走るユーマを、火の玉の群れが追う。しかしユーマは真っ直ぐミリアンを見据えたまま、火の玉を連れて肉薄した。
「土塊よ」
近付いてくるユーマを阻むように、ミリアンの眼前に土の壁が突き出した。
「チッ……」
ユーマが舌を打つ。苛立ち紛れのそれは、ユーマの背中に薄い水の膜を作り出した。次々と着弾する火の玉が、独特の音を立てて水蒸気を発生させる。魔術的な支援を受けた水蒸気は、瞬く間に二人と土壁を覆った。
前後左右、見渡す限りの白煙。利用された自身の魔術を、更に利用して相手の視界を奪う。ディラギウスはアッサリと倒れ伏したが、今思えば上手く虚を突けた結果なのかもしれない。そんな事を考えながら、ミリアンは再度呟く。
「土塊よ」
今度は胴体までを覆う、小さな土壁。ミリアンの右側に突き出た壁が、飛来した炎と共に崩れ去る。
「土塊よ」
もう一度。今度は左側を、膝下まで。着弾、崩壊。刹那、ミリアンの背中と右肩に炎弾が迫る。しかし着弾する前に、またも炎弾は停止した。
「不意打ちなら頭を狙えよ、ぼっちゃん」
炎弾が、徐々に速度を増して円を描く。あらゆる方向から次々に迫る炎弾を飲み込んで、少しずつ少しずつ膨らんでいく。
そしてミリアンの頭の高さに達すると、加速した勢いのままに爆発した。そうして生まれた爆風は絡みつく水蒸気を吹き飛ばし、地面と老人の死体を露わにした。
炎弾を放っていた筈のユーマは、居ない。少しだけ辺りを見渡したミリアンは、小さく溜息を吐いてから呟いた。
「《Anlage》」
それは魔術ではない。魔術言語ではあるが、本来は意味の無い只の音であった筈のもの。しかしこの一言が、状況を一変させた。
ミリアンの背後、少し離れた場所に突如として鋭い土の塔が突き出た。それは少しの血飛沫を上げ、隠れていた者の姿を暴く。
「お前に興味はない」
吐き捨てた言葉。現れたユーマの胸の前には、小さくも複雑な幾何学模様が浮いていた。それが、驚愕するユーマの前で意味を成そうとしている。
「焔道:第四章……だったか。確か爆発する火の玉だったろ」
意味の無かった幾何学模様が燐光を放ち始める。それは既に、術者である筈のユーマの制御下を離れていた。
「殺す気だったな?」
ミリアンの、責めるような眼。それはユーマから怒りを引き剥がし、隠れていた怯えを引き出した。そして次の瞬間。腹に響く轟音と共に幾何学模様が爆裂する。光は瞬く間に消え、音の残滓と土煙が漂っていた。それらを手で払いながら、ミリアンは爆心地に近付く。
「馬鹿なのか、お前は」
ユーマを見下ろして、ミリアンは言った。少し焦げてはいるが、胸は小さく上下している。そんなユーマに眉を顰めながら、ミリアンはしゃがみこんでユーマの頭に触れた。
「教えて貰うぞ。お前の優秀さの秘密を」
触れた手に幾何学模様が展開される。暫く押し黙っていたミリアンは、手を離してから弾かれたように笑った。
「異世界? 生まれ変わり? 漫画、アニメ?」
ミリアンは大きく振り上げた足を、ユーマの胸に振り下ろした。
「理不尽じゃないか。俺の努力も、人生も、悩みも! お前が偶然手にした奇跡に踏み躙られた訳か!」
何度も、何度も。足が振り下ろされて、ユーマが跳ねる。
「良い家族に恵まれ! 天才的な才能を持ち! 美しく優しい女と出会い! 至高の魔術師に師事する機会を得たお前が!」
足が振り上げられると同時、ユーマの下の地面から勢い良く土壁が突き出た。その勢いはユーマを跳ね飛ばし、離れた場所に放り出す。
「家からも出られん畜生だったとはな」
茶番だ。そうミリアンは零し、ユーマに背を向けた。
「Fol」
小さく魔術詠唱。フワリと浮かび上がったミリアンの身体は、風のように天へと登った。残されたのは虫の集る老人と、燐光を纏う少年だけ。思い出したように、雷が鳴った。