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雅ちゃんと別れ、廊下に出ると、ゆずはちゃんがこちらに歩いて来るのが見えた。
どうやら待たせてしまうようなことはなかったらしい。
廊下には俺と同じようにお風呂に向かうのか、着替えを持った女の子たちの2~4人ぐらいの集団がちらほらといる。
アイドル学校の生徒だけあってみんな可愛らしい。
ゆずはちゃんはこちらに気がついたのか、少し歩くペースを早めてきた。
「あっ、ひかりちゃん」
両手に着替えを持っているので流石に手を振っては来なかったが、どうしても手を振りたいらしく、わざわざ着替えを片手に持ち替え、立ち止まって手を振ってきた。
全くどうして女の子って知り合いを見つけると手を振りたがるんだろう?
こちらも合わせるように手を振りながら近づく。
振られたら振り返すのが常識だったりしても困るからな。
手が届く範囲まで近づくとゆずはちゃんに振り返していた手を握られた。
指の間に指を入れるいわゆる恋人つなぎの正面からバージョンをする。
きゅっと手を握りアイコンタクトでもかわすように見つめてくる。
数分しか離れていなかった感動も何もない再会なのに、ゆずはちゃんは笑顔を見せる。
本当にひかりちゃんが好きなんだな。
中身が俺であることを申し訳なく思いながらも意識はつながれた手に集中している。
重なった手の平は柔らかく、絡みあった指は白く細い。
前世の俺ならきっとさらに深く好きになっているに違いない。
しかし、ひかりちゃんの身体は何も反応しない。
心拍数が上がることも、何かが沸き立つような感情も起きない。
きっと魂だけが俺で、基本的に身体はひかりちゃんのままなのだろう。
だと、すればひかりの魂はどこへいってしまったのか?
もしひかりちゃんの魂が見つかってしまったら俺はどうなるのか?
数秒見つめ合い流れるように手を離す。
ついでに余計な思考も切り離す。
考えたって答えは出ないのだ。
今はとにかくお風呂だ。
しかし、このよくわからん手を握り合う儀式のようなものの正解は何なのだろうか? 男子だったら廊下ですれ違ったところで、こんなことはしない用がなければ挨拶して終了だ。
横に並んで大浴場まで歩く間俺はそんなことを考えていた。
長い廊下を歩き、端にある階段を下る。
と言っても運がいいことに俺とゆずはちゃんの部屋は二階。
たしかエレベーターもロビーのどこかにはあるらしいが、使用できるのは5階上に部屋のある生徒だけ。
二階の部屋だった俺はなかなかに運がいいと言える。
「部屋が2階で助かったね」
階段を降り終えて、ロビーに両足がついたタイミングで、ゆずはちゃんはこちらを見ながら語りかけてきた。
ちょうど階段が、短くて楽だと思ってたところだったのでちょっと驚きながら返す。
やっぱりこの子のエスパーに違いない。
「4階の人とか大変そうだよね」
やや、戦慄しながら、笑顔を交えてそう返した。
困ったら笑顔。女の子の常識。
多分女の子の笑顔ってチートだよな。
多少ならそれだけでなんとかできるし。
少しずるいな。
まぁ今はひかりちゃんなんですけどね。
ロビーにはお風呂上がりなのか、
スポーツドリンクみたいな薄く濁った液体の入ったペットボトル片手に、談笑する人たちがそこそこ見受けられた。
頭や身体からわずかに湯気を立ち上らせているから、風呂上りの皆さんだと推測。
なんとなくその人たちを眺めながら、浴場へと続く通路に入るために、ロビーを横断する。
アイドルの卵達にも休息は必要みたいで、楽しそうに雑談をしている。
真ん中あたりを過ぎたところで1人の少女に目を奪われた。
どういう用途で存在するのかわからない、ちょっと古めの酒樽に持たれかかって、ビンに入った薄茶色の液体を飲んでいる。
首にかけられた小さめのタオルと足元に置かれたカバンからはバスタオルがはみ出していて、この子もきっとお風呂上がりに違いない。
まわりに人がいないからぼっちなのかもしれないなとあたりをつける。
それにしても何なのだあの思っきりビール会社のロゴが入ったら酒樽は? このゴージャス空間感漂う空間にあってなさすぎる。
かすかに漂う香りはまさしく、
「あれは……コーヒー牛乳?」
「みたいだね。それがどうかしたの?」
風呂上りのコーヒー牛乳といえば定番中の定番。
よく田舎のばあちゃんの家にいった時なんかはあれが楽しみだったな。
いやむしろそれぐらいしか楽しみがなかった。
6時には閉まるコンビニやスーパーしかないところを楽しみにしろと言うのも難しい話。
それに、なんでかばあちゃんちはいつ行っても風呂の湯沸かし器は壊れているし。
毎度泊まる度に微妙に汚い湯船の銭湯に行くハメになるしってあれ? そんなに楽しそうじゃないぞ。
だけどなんか思い出したら久しぶりに風呂上りに飲んで見たくなった。
よし、
「お風呂上がり飲む事にしよう」
「お酒はまだ早いんじゃないかな?」
ビール会社のロゴの入った酒樽を指しながらやんわりとたしなめてくる。
これはボケなのか? マジなのか?
仮にどっちにしろあらぬ誤解を受けたままはよくないので、
「いやそっちじゃなくて、コーヒー牛乳の方だって」
「でも、ひかりちゃんコーヒー苦手じゃなかった?」
さっきのボケじゃなくてひかりちゃんはコーヒー牛乳なんて飲まないって思っての発言だったのか。
まぁ当たり前だが中身が別物なのだから食べ物の好みや服のセンスとか違っているに決まっている。
目に見えて、違うとわかるものだからこそ違和感を与えやすい。
特に長く一緒にいる幼なじみ的な存在は天敵と言えるんじゃないか?
それに誤魔化すのだって簡単じゃない。
矛盾なく嘘をつき続けるのは多分不可能。
だけどバレてゆずはちゃんに嫌われたなくもない。
なんだが微妙に揺れる乙女心のような心境になりながらとりあえず誤魔化す方法を考える。
「コーヒー牛乳とコーヒーは別物なのだから大丈夫」
「そうかな? ……まぁそう言われればそんな気するね」
実際はコーヒーとの違いなんて牛乳が入っていて甘いぐらいのもので別物と呼べるほどまるっきり違うものではないだろうが、そこは勢いで乗り切る。
意外とすんなり主張を受入れてくれたみたいで、そのまま歩き出した。
ふぅなんとかごまかせた。
寝る前にひかりちゃんの情報整理しておこうかな。
先を歩くゆずはちゃんの背中を見ながら真剣にそう思うのだった。
女子寮なんだからあたり前の話だが、浴場の入口はひとつしかない。赤い暖簾が普通の銭湯の2倍ほどの大きさで掲げられているのも女子寮だから何の不思議もない。
目の前まで来て俺は猛烈に悪いことをしようとしている気持ちになって、罪悪感に押しつぶされそうになっていた。
普通に考えれば学生寮のお風呂なんて共同に決まっているよな。
ここまでは1人だけだったり、身体の変化に戸惑っていたおかげであまり意識していなかったから問題なかったが、女子風呂に入るなんて人として、男としてどうなんだろうと、今更ながら良心が温泉の如く湧きだしてきたのだ。
俺ひとりでひかりちゃんの身体を洗うなら汚いのは困るとか大義名分がまだあったが、ほかの女の子の入浴シーンや脱衣の瞬間は共同ならどうしても目に入ってきてしまう。
それはどう考えても悪だ。
己の意思で女子風呂を除く犯罪者と何も変わらないんじゃなかろうかと。
男として生きてきた部分がどこまで行ってもこの先の空間に進むことを拒絶させる。
男が女子風呂に入るだなんて長年培ってきた倫理観が許そうとしない。
あぁこれは大ピンチってやつだな
入ったこともない場所を目を瞑ったまま歩くなんて不可能だ。
仮に実行すれば、とっても危ないやつに見える。
それにそんなことをすれば絶対全裸の女の子にぶつかって押し倒すことになる。
ラッキースケベの前科持ちになってしまってるし、雅ちゃんごめんなさい。
そもそもアニメの世界だ、そういうお約束が組み込まれていても不思議はない。
いまの俺はどう言い繕ったって雛星ひかりという主人公なんだから。
主人公にはトラブルとエロスが飛び込んで来るのが世の中のルールだ。
「ひかりちゃん。なんか大きいね」
倫理観と協議をしていると横からゆずはちゃんの声が聞こえてきた。
ゆずはちゃんよ主語をつけて、主語を。
「うん、大きい入り口だね」
動揺を悟られないように、小さく深呼吸しながらどう乗り切るかを考える。
「じゃあ入ろうか」
「ちょっと待って」
暖簾と入口の大きさに興味を示したのは一瞬だったようで、すぐに中に入ろうとするゆずはちゃんを慌てて止める。
ゆずはちゃんに不審がられず、ほかの人の着替えや入浴している姿を一切見ないで、風呂に入って疲れを癒す?
そんなの無理ゲーすぎる。
天才ならそんな奇跡を可能にする作戦のひとつでも生み出せるのかもしれないが俺には無理だ。
となれば入らないという選択肢が出てくるが、ここまではきて入らないなんて言い出せばやっぱりおかしいとなるのは確実。
完全に思考は袋小路になっている。
それなら完璧な選択肢がないのなら何を妥協すべきか熟考して、
「覚悟は決まったし、行こうかゆずはちゃん。楽しいお風呂タイムだよ」
「待ってよひかりちゃーーん」
悪でも構わない。今日のぶんの疲れはその日の内に落として起きたい。
男の尊厳と前世での倫理を投げ飛ばしたのだった。
やっぱり風呂には入りたいし、ゆずはちゃんに変なやつと思われるのも困るし、入らなければコーヒー牛乳も飲めないし。