悪徳上司絶対殺すマン
201◯年12月。
師走とはよく言ったもので、弊社に於いても皆、忙しそうに働いている。
特に中旬に入ってからは一層業務が増え、4時間、5時間の残業は当たり前になっていた。
大変だが、一日一日を全力で乗り越えるしかない。
俺は、家でご飯を作って待ってくれる妻と、3歳になった長男の顔を思い出しながら、必死に書類を作っていた。
「よし。今日はこれが終われば帰れるぞ」
時計を見れば時刻は9時前。
息子は起きているだろうか。久しぶりに膝に乗せながらビールでも飲みたい。
少しだけ残っていたコーヒーを飲み干し、頬を叩き、再びPCに向かった。その時、
「おーい、鴻巣〜」
間延びした声が俺を読んだ。
顔を上げると上司がちょいちょいと手招きしている。
気づかれない大きさの舌打ちをして、
「はい、何でしょう」
と明るく返事をして春山部長の席へと向かう。
春山部長は50代にしてはフサフサとした髪を指先で弄りながら話しかけてきた。
「今週中に10本新企画を出したいんだけど、案ある?」
「先週の10本はどうなったのでしょうか」
「あれはあれで、社長も気に入ってくれたよ。だから次なんだけど、やっぱり君しかいなくて」
「わかりました」
答えて自席へ戻る。
「ごめんよ、タダシぃ......」
息子の名前を口にすると目頭が熱くなった。
その瞬間、スーツがはち切れんばかりに筋肉が隆起する。
握ったコーヒーのスチール缶が、紙コップのように、ぺしゃっと歪んだ。
俺の名前は鴻巣司。
仕事上で重大な怒りや悲しみを感じた際、それを莫大なエネルギーへと変換することができるのだ。
“気”が吹き上がり、近くの机の書類が舞う。
椅子が倒れる。
一瞬他の社員が俺を見るが、誰もが心を失くした人形の様に、光の無い目をしている。
人形たちはすぐに自分の仕事に戻る。
俺は猛然とキーボードを叩く。
右脳は今までの人生経験全てをアイディアに昇華させ、左脳はそれを資料へと作り変える。
椅子が吹き飛び、中腰の体勢。
脚の筋肉は確実に大地を掴み、体幹が心と体を一つに繋ぐ。
キーボードは壊さないタッチ。しかしその衝撃は20階建のビル全体を揺らさんばかり。
およそ20分。
超高速で動く指に、腕の筋肉が悲鳴を上げ始めた頃、書類は完成した。
「さすが鴻巣くん、見やすくていいねー。ただ、僕の中ではもっとビギナー向けの商品イメージなん」
「わかりました」
言い終わるが早いが、見せていた書類を奪い取り、再度作り変える。
直属の上司の求めていることの三手先、社長が求めているものの一手先を読む。
近しい上司に気づきを与え、社長に大きな満足を与える。
求めているものそのままでも、離れすぎてもいけない絶妙なクオリティ。
「うん! やっぱりさっきより良くなったよね。自分でもそう思わない? また明日もお願いすると思うけど、一旦今日は終わりでいいよ」
お疲れ、と労うように肩に置かれた手にまた腹が立つ。
俺は怒りをおくびにも出さず、お疲れ様です、と一日の報告を提出して、退勤する。
そうして3ヶ月が経った。
「みんなのお陰で僕は本部長にまでなることができた。本当にありがとう」
花束を受け取った春山本部長が笑う。
無表情の社員たちが拍手をしている。
「特に鴻巣くん。君と働いたのは短い期間だったが、感謝しているよ。何より君の力があったからと言っても過言ではない。できれば君には今後も付いてきてほしかったが仕方ない。新しい職場でもがんばってくれたまえ」
偉そうにまた、手が肩に置かれる。
「春山本部長からは多くを学ばせていただきました。次の職場でもこの経験を活かして精進してまいります」
にっこりと笑い、春山本部長と握手する。
こうして俺は2年間勤めた会社を去ることになった。
見慣れたビルを後に、俺は電話を手に取る。
「やあ、ご苦労。これでMNO食品は無事に倒産、かな」
電話相手の上機嫌な声に辟易する。
「春山が一部門任されたからには、赤字は5倍になるでしょうね」
「ははは。君がそう言うなら間違い無いだろう。それで、次の会社だが......」
もう次の仕事の話が始まってしまう。
俺は2年勤めた会社のことをすっかり忘れる。
次に思い出すのは半年後、ニュースですっかり髪の薄くなった春山を見た時だ。
重大な食中毒問題を起こし、会社は1000億の負債を抱えることとなる。
悪徳上司絶対殺すマン。
その表向きの仕事は企業を立て直すための有能サラリーマン。
しかしその実態は、大勢の若手社員の体や心を壊し、恨みを買った無能上司を会社の重要ポジションに押し上げ、間接的に大きな損害を与えるというもの。
鴻巣の電話が鳴り止むことはない。