天狗の落としもの
八月十日の午後。蒸し暑い二階の廊下で、私はちょっと、いやかなり迷ってから目の前のドアを叩いた。
「おにい、ちょっといい?」
「おー」
二歳上の兄の、間の抜けた声にイラっとしながらドアを開ける。
世の中にはやりたくなくてもやらなきゃいけないことがある。それもけっこうたくさん。十一歳の私にとって「兄の部屋のドアをノックすること」は、やりたくないことの中でもかなり上位の方にあった。
理由なんてない。なんとなく嫌なのだ。
兄は扇風機の前でごろごろしながら漫画を読んでいた。
「おばあちゃんから聞いたんだけど、山にほこらみたいなのがあるって本当?」
「ああ……なんかあった気がする」
「今から連れて行ってほしいんだけど」
「そりゃまたどうして」
「これ見て」
体を起こした兄に、手のひらに握っていた石を見せる。濃い緑色で表面はつるつるしている。おたまじゃくしが体を丸めているような不思議な形をしていた。
「なんだこれ。勾玉っていうのかな? こういうの」
手にとって石をながめる兄。その前に座って、私は説明を始めた。
ついさっきのことだった。村にひとつしかない商店でアイスを買ったあと、山のすぐ横の道路を自転車で走っていると、目の前に何かが落ちているのが見えた。
道に落ちているものを拾うなんてちょっと抵抗があったけど、なんだか拾わなきゃいけない気がした。だから拾った。
家に着いたらおばあちゃんが畑にいたので、声をかけるついでに見せてみたら、普段は優しい顔のおばあちゃんが目を見開いて驚いていた。
「小春、おめえ、こりゃ天狗の落としものでねえか」
「天狗の落としもの?」
扇風機を首振りにして兄が聞き返してくる。
「そう。これは天狗のもので、拾った人は山のほこらに返しに行かないといけない。そのままにしておくとよくないことが起きるんだって。おにいと一緒に今すぐ行ってこいって言われた」
「ふーん。そんなのはじめて聞いたな」
そう言って石を私に返すと兄は立ち上がった。
「まあ、とりあえず行ってみるか」
階段を下りた兄はまず台所へ向かい、二本の水筒に麦茶を入れ始めた。
「山に行くならちゃんと準備しないとな」
「別にそんなのいいって」
肩掛けのついたピンク色の水筒を押しつけられた。その次に虫除けを塗ろうとしてきたので、それは自分でやった。そして玄関に置いてある麦わら帽子をなかば強引に被せられる。ようやく出発らしい。
「ちゃんと紐かけろ。それじゃあ風が吹いたら飛んでいくぞ」
これまた強引に麦わら帽子のあご紐を直された。
「石は持ったか? なくさないようにしろよ」
「持ったってば。早く行こう」
なにはともあれ準備完了だ。畑のおばあちゃんに声をかけて私たちは山へ向かった。
家から歩いて五分くらいのところに山道の入り口がある。道と言っても手入れはされておらず、木と木の間に道っぽいような隙間があいているだけだ。
「ちゃんとついてこいよ」
山の中に入った途端なんだか薄暗くなったような気がした。生い茂る葉っぱのせいで陽射しがさえぎられてるからだろうか。ちょっとだけ心細く感じる。兄の背中から目を離さないようにして進んだ。
「確か一回だけここで一緒に遊んだことあったよな」
「私はついていってただけだけどね」
山で遊ぶことなんてない。虫取りなんて興味ないし、一生懸命探し回って何が面白いんだろうって思ってた。それでも家に一人でいるよりはマシだったけど。確かあのときも兄は「ちゃんとついこいよ」と言っていた。
「ほこらってどの辺りにあるの?」
「んー、たぶん岩のところを右から登って、ちょっと行ったところだと思う」
私には「岩のところ」も分からなければ「ちょっと行ったところ」というのもかなりアバウトに聞こえる。
「……大丈夫なの」
「なんとかなるよ。もしほこらが見つからなかったら、どこかわかりやすいとこに置いておこう。そのぐらいは天狗も許してくれるさ」
果てしなく不安だった。
蝉の声が耳鳴りみたいにひびく山道をてくてくと歩いていると、兄が急に立ち止まった。
「お、コクワだ」
ちょうど手の届く高さにクワガタがいたらしい。
「そんなのいいから。いやちょっとやめてよ」
私の被ってる帽子に載せようとしてきたので慌てて逃げる。
兄はひとしきり笑うと、クワガタを木に帰してあげた。
「小春はどうして虫が嫌いなんだ」
「そんなの好きな人いないよ」
「それは違うぞ。虫っていうのは種類がいっぱいあってそのどれもめちゃくちゃ個性的なんだ。誰でもハマる虫っていうのは絶対にいて――」
「いないって」
目をきらきらさせながら語る兄の姿を見るたびに、子供っぽいなと思ってしまうのだった。
水筒の麦茶を飲みながら歩くこと三十分ぐらいだろうか。少し開けたところに出た。ここだけくりぬかれたみたいに木が生えてなくて、今まで通ってきた道よりもずいぶん明るく感じた。突き当たりは高い壁みたいになっている。ジャンプしたぐらいじゃ登れそうにない。
「たぶんこの辺だと思うんだけど」
「何もないじゃん」
手分けして軽く探してみることにした。草むらを覗きこんだりしてみても特に何もなかった。
「おーい」
向こうは何かを見つけたらしい。兄の手招きする方に行ってみると、そこには何かの土台のように四角く石が積まれていた。
兄はその後ろを指さしている。
「たぶんこれじゃないかな」
見てみると、木でできた小さな家みたいなものが倒れていた。見た目にもぼろぼろで屋根には穴が開いている。
「とりあえずここに乗せよう。小春、そっち持って」
せーのでほこらを持ち上げる。見た目よりもずっと軽かったそれを起こして、石の上に立てた。
「だいぶぼろぼろだなこれ」
表面についた土や葉っぱを落としたり、軽く叩いてみたりする兄。
「ちょっとおにい、本当にこれで合ってるの?」
「分からない。僕の知ってる限りそれっぽいのはこれしかないけど、もしかしたら他にもあるかも。……おばあちゃんは他に何か言ってなかった?」
「えっと、落としものを返すときは、ほこらの前に『天狗の落としもの』を置いて、手を合わせて『天狗様、お返しいたします』って言うんだって」
「よし。それやってみよう」
ほこらの前に石を置いた。二人一緒に手を合わせて、目をつぶる。
「「天狗様、お返しいたします」」
しばらくそうしていると、ふいに蝉が鳴き止んだ。次にカラスの鳴き声が聞こえてきた。それは一つ二つと増え、あっという間に耳をふさぎたくなるほどの騒音になった。
怖くなって目を開けようとすると、それをさえぎるみたいに強い風が吹く。麦わら帽子が脱げて、あご紐が伸びるのが分かった。誰かが私をかばうように抱きよせる。兄の匂いがした。私はぎゅっと目をつぶっていることしかできなかった。
バタバタと何かが飛びたつ音がした。それから波が引くように木々のざわめきが静かになると、再び蝉が鳴き始める。
ゆっくりと目を開けると、兄のTシャツにしがみつく私の手が見えた。
「大丈夫か」
「……うん」
思いっきり「怖くてお兄ちゃんにしがみつく妹の図」になっていたことに少し恥ずかしさを覚えながら、帽子を被りなおしてほこらの方を見る。さっき置いたはずの石は消えていた。周りを見まわしてみてもそれらしいものは見当たらなかった。
「これでよかったのかな」
「どうだろうな。石は消えてるけど飛ばされたのかもしれないし、逆にあの風でこのぼろいほこらがぴくりとしてないのも不思議だし。分かんないな」
兄に聞いてみても、首をひねるばかりだった。
「まあ、安心しろ。もしなにか間違ってて小春によくないことが起きても、お兄ちゃんがなんとかしてやるから」
そう言って兄はのんきに笑ってみせた。
家に帰ってくると、おばあちゃんが縁側で休んでいた。
「「ただいま」」
「おかえりなんし」
おばあちゃんの顔を見たら自分でもなんでか分からないけど涙が出てきた。
家を出てからたぶん1時間ちょっとぐらいしか経ってないけど、すごく長いあいだ山の中にいたように感じる。
私が落ち着くのを待ってから、兄がおばあちゃんに山であったことを話した。
天狗はきっとほこらを起こして欲しかったんじゃないかって、おばあちゃんは言う。
そんなちょっとしたお手伝いみたいなことのために人を使うなんて迷惑な話だと思った。天狗のくせにそんなことも一人でできないのかとも。
それを兄に言ったら「天狗のお手伝いなんてなかなかできることじゃないよ」と、やっぱり笑っていた。
翌朝。朝食を済ませた兄は、木材やのこぎりがはみ出したリュックを背負ってどこかへ出かけようとしていた。
「どこ行くの?」
「あのほこらちょっと直してこようと思って。屋根に穴が開いたままじゃ天狗も困るだろうし。放っておくとまた落としものしそうだから」
「私も行く」
「そうか。じゃあ……」
水筒を持って、虫除けを塗って、麦わら帽子を被る。
昨日と同じようにおばあちゃんに声をかけて、山へ向かった。
「おにい」
「ん?」
私の前を歩く背中を見ながら思う。
「昨日はありがとう」
兄の部屋のドアをノックするのはまだちょっと嫌だけど、こうやって後ろについていくのは、そんなに嫌いじゃないなと。