氷の中の心
恋に溺れる日々が、2ヶ月ほどは続いた。
けれども、ある朝。冷たさが、火照りを奪い去った。
彼はいない。昨夜もあたしを抱いたヴァンパイアが、いないことはわかった。
何故だろう。音もなく現れる彼が、部屋に来たことを、なんとなくわかるようになった。仕事から帰ってドアを開ける前に、ネリオラがいるかどうか、感じる。
今、ベッドの中は、あたしだけ。
寝返りを打ち、彼のいないシーツを撫でる。冷たかった。
心を、凍らせるようだ。
恋に溺れていたそれが冷たさに襲われ、我に返った。
溺れてしまったんだ。
恋に猛突進。彼だけを見つめていた。ネリオラだけに夢中になる日々だった。
そんな恋愛はしないと決めたはずなのに、本当にあたしはバカだ。バカな女。
よく考えて。
ネリオラはヴァンパイアだ。何百年も生きている、別世界の生き物。それも美しく、声も眼差しも、言動までもが魅惑的な人。
ネリオラに抱かれたい女性なんて、星の数ほどいるだろう。この世には、多くの美女がいる。あたしなんて、彼が毎晩訪ねるほどの女じゃない。
ネリオラに、愛されているわけがない。
好きだとも、愛しているだとも、言われたことはない。
言わせてもらおうか? あたしから言ってみようか? ……いいや。
そもそも、愛されない。
あたしが、愛されるわけがない。
何百年も生きたヴァンパイアにとって、あたしなんかに価値がある?
ちっぽけすぎて、100年どころか、数年で完全に忘れ去られてしまうだろう。
報われないじゃないか。
今だけ楽しんでも、捨てられたあとはどうなる?
死ぬまで傷が痛み、苦しむだろう。今なら、まだましだ。
恋から、覚めなくちゃ。溺れ続けたら、沈んで這い上がれなくなる。
もう、ヴァンパイアとの戯れは、終わりにしよう。
ネリオラが一緒に休日を過ごしてくれたのは、あの1度だけ。
朝からネリオラがいない休日であるその日の夜。
ネリオラが来る夕食前に、ベッドの中に入った。ドアの鍵をしめ、カーテンも閉めきり、眠ろうとした。
けれども、ネリオラの気配を感じて、少し緊張で強張る。
呼び鈴がなった。枕を握り締め、目を瞑る。
シン、と部屋の中は静まり返った。心音は落ち着きを取り戻す。深く息を吐いて、眠ろうとした。
コンコン。
ノック音が、ベランダの窓からした。自分でも不気味に思うほど、心音は落ち着きを保っている。
けれども、あたしらしい。緊張しそうな場面で、よく落ち着いていることがある。冷たい時がある。今のようにだ。
ネリオラはいる。あたしが開けるのを待っているんだ。でも、彼なら簡単に入れるはず。
しかし、ネリオラは入らなかった。
静まり返った部屋で、あたしは眠りに落ちた。
翌朝は、当然、ネリオラがいない朝。ぐったりと怠く重い身体で立ち上がり、朝食を作る。
仕事へ行くことが、酷く億劫になった。もう、寝込んでしまいたい。
子どもみたいに愚図るなと自分に鞭を打ち、朝食を口に詰め込んで、8時間勤務へと向かう。
8時間だ。たった8時間。我慢して、乗り越えれば、部屋に倒れ込んで休息をとれる。
ネリオラとの甘い時間は、もうない。それを思うと、グサリと痛みが走る。
それは軽傷なのだと言い聞かせ、1日を乗り越えた。
いつもの3倍は疲れてしまい、部屋に帰ってシャワーを浴びたあとは、軽くフルーツを食べるだけでベッドに飛び込んだ。
眠り落ちた頃に、ネリオラの訪問を知らせる呼び鈴が鳴った。
目を開いたけれど、眠気は吹き飛ばず、ゆるりゆるりと意識は落ちる。
その翌日から、彼が呼び鈴を鳴らすことはなかった。
それでも数日、ネリオラの気配と視線を感じた。
あたしはポーカーフェイスを貫く。なにも、起きなかったことのように、前の日々に戻る努力をした。
あの公園を通り過ぎて、日傘を差す。夕陽はまだ、眩しい。
もう夏だ。暑いけれど、それでも、心にまで届かない。
日傘の下から、空を覗いてみる。雲が見当たらない水色の空は、赤に染まっていた。
そこで、ヒラリ。
目の前に、黒い揚羽蝶が横切ったから、思わず足を止めた。
ヴァンパイアには、姿を変える能力がある。けれども、どうしても黒を纏う姿になると聞いた。黒い揚羽蝶、黒い鴉だったり、黒い蝙蝠だったり。
ネリオラの気配がした。きっと、今のは彼だ。
「解せませんね」
数日ぶりのネリオラの声が、後ろからかけられた。
ギクリ。嫌々ながら、振り返る。
夕陽を奪い去った薄暗い歩道に、ネリオラは立っていた。
変わらないペリドットの瞳。変わらず、美しい存在。その声には、苛立ちを感じる。
「他に男が出来たのかと思えば、そんな影も、素振りもない。どんな男かと気になったというのに……。何故、私を避けるのですか?」
あたしは顔をしかめる。
ネリオラが、他の男に乗り換えたなんて思っていたから。
ああ、彼は、微塵もあたしの気持ちなんて、わかっていないんだ。
思い知ったあたしは、なにも言わず顔を背けて帰ろうとした。
けれど、目の前に、ネリオラが現れて立ち塞がる。
「子どものように無視をして……絵子さんは見た目ほど大人ではないですよね。中身は少女です」
カチンときた。
「何百年も生きたヴァンパイアにとったら、あたしなんてただの子ども。そんな子どもに構わなくてもいいでしょ」
言い返せば、ネリオラが少し顔をしかめる。ペリドットの瞳は、あたしを探るように見てきた。
「……私の気持ちを、疑っているのですか?」
ギクリ、と焦りが胸に走る。
「……伝わっていると思っていたのは、私だけなのですか?」
ネリオラに、静かに問われて、あたしは泣きたくなった。けれども、そんな顔を見られたくない。ポーカーフェイスは得意なはずだから、保てと自分に言い聞かせた。
「なにを言っているの。あたしなんて、ちっぽけな存在。他の女の元へ行けばいいじゃない」
目を背け、言い返す言葉は、自分でも情けないと思う。惨め。
こんな女なんかに、ネリオラもこれ以上構わないはずだと、あたしは今度こそ帰ろうとした。
でも、横切ろうとする前に、彼に手を掴まれた。顔を合わせれば、ペリドットの瞳はすぐそばに。
「あなたこそ、なにを言うのです? 他の女性など、要りません。絵子さんがいいのです。毎日のように会いに行った理由が、わからないのですか? 私は、あなたの全てが欲しいのです」
見つめながら告げたネリオラを見て、あたしは目を見開く。
それが、ネリオラの気持ち。
あたしの全てを……。
「……すぐに、気が変わるわ」
告げられた言葉に嬉しさを感じたはずなのに、すぐに冷たさに覆われてしまった。
変わらない。だって結局のところは、ヴァンパイアと人間。報われない。
「……」
顔を背ければ、ネリオラは少しの間、黙った。
「……あなたの心はまるで」
あたしの耳に、ネリオラはそっと囁く。
冷たい? 氷のよう?
いいのよ、どうせ。あたしは冷たい女だ。
ネリオラの言葉の続きを、予測した。
「氷の壁に覆われているようだ……」
あたしは、目を見開く。
「私の愛の言葉は、届かないのですね」
ネリオラの左手の指先が、そっとあたしの頬を撫でた。
ほんの一瞬、ネリオラがあたしの肩に凭れる。心を包む冷たさが、酷く痛い。
ネリオラは、消えた。初めからそこにはいなかったかのように、消えてしまう。
「……」
氷の壁に覆われた心。
そうね。熱に魘されるように猛突進の恋をしないために、冷たさを纏ってきた。
折り重なって大きくなった氷柱のように、壁が出来たんだ。
恋をしても、冷めるようにしたのは、あたし自身だ。
ネリオラがどんな言葉を贈っても、あたしは冷たさを持つ。
これ以上、ネリオラを、好きにならないように。
ネリオラを、愛さないように。
涙が込み上げた。絶対に彼には見られたくないから、日傘で隠す。日傘を見上げていても、涙は溢れ落ちてしまった。
翌日、酷い気分のまま出勤した。働きたくなんかなかったけれど、家で泣き寝入りをするよりはましだ。
あれ以来、彼の気配は感じないせいか。あたしに凭れた彼の悲しそうな声が、焼き付いてしまっているせいか。
ほんの少し、早く上がらせてもらって、帰ることにした。
日傘を差して、カツカツと公園まで歩く。傘を閉じてから、公園に入った。
木陰を作る木の葉を見つめて、深呼吸をする。いつものウォーキングコースを歩いて、遊具に目をやった。今日は遊んでいる子どもが、1人もいない。
ドンッ!
いきなりだった。突き飛ばされて、あたしは砂場を越えて、ローラー滑り台にぶつかる。
なにが起きたのかと、立ち上がって確認しようとして、気付いた。白いシャツは、切り裂かれ、腹部は真っ赤に染まっている。
痛みは、感じない。多分。わからない。頭を打って麻痺したのかもしれない。なにも、わからない。
ただ、傷口を押さえて、立ち上がらないようにしなくてはいけないと思った。
掌に、血が溢れるのを感じる。淀みなく、あたしの掌を濡らしていく。
あの黒い塊がいた。
シーソーに乗っていて、あたしを見据えている。
悪鬼、グール。あたしを喰らおうとしているんだ。
あたしは、殺されるんだ。