赤を傾ける
意識が浮遊して、目を開く。まだ眠っていたくて、目を閉じたけれど、違和感を覚えて、あたしは確認するために目をこじ開けた。
ベッド。これは、いつも通りだと思う。身体がやけに重いのは、お酒を飲み過ぎたせいだ。きっと。
寝室が暗い。いつもは朝陽が勝手に射し込むように、カーテンを半分開いている。おかしい。誰が閉めたんだろう。
起き上がって、カーテンを開こうとしたけれど、身体が重い原因がわかり、ベッドの上に戻る。
正しくは、お腹に回された腕に引き戻された。
後ろに、誰かがいる。それで昨日の記憶を思い出した。
あたしはヴァンパイアに抱かれたのだ。
「カーテンを開けないでください……我々は、朝陽が苦手なのです」
昨夜と同じ、なめらかな声。その主が、カーテンを閉めたんだ。
恐る恐る振り向けば、彼がいた。あたしの背中から抱き締めるように、目を瞑って横たわっている。
彼は、なにも、着てない。
首から、胸まで、目をやって、目を閉じる。堪能している場合じゃない。
自分も、裸だということに気付く。途中から、全部脱がされたんだった。
寝起きで驚いている頭で、1つ、思い付く。
シャワー浴びて、仕事行かなくちゃ。
手の届く範囲に、着るものはない。躊躇して、ベッドから這い出て、浴室に駆け込もうとした。
その前に、左手が掴まれる。
彼が、あたしの左手に、1つ、キスをした。そのあと、するりと手を放される。
……え、なにそれ。
彼の1つのキスに、ガァッと熱くなった。危うく、裸のままフリーズしかけたけれど、浴室に逃げ込んだ。
シャワーを浴びても、火照りがなかなか洗い流せなかった。
首は痛みが残っているのに、鏡を見ても、噛まれた傷がない。
おかしいな。
髪を乾かし終えて、リビングに出ると、朝ご飯があったから、今度こそあたしはフリーズした。
「早く食べてください。遅刻してしまいますよ」
「……あ、ありがとう」
冷蔵庫に入れてあったウィンナーや、卵をきれいに盛りつけた皿がコーヒーテーブルに置かれていた。
作ってくれたであろう彼は、ズボンを穿いている。芸術品のような上半身を、惜しみなくさらしていた。目のやり場に困る。
もぐもぐ、と食べてみるけれど、ちょっと味わえない。
カーテンから僅かに漏れる光だけの薄暗い部屋で、見目麗しいヴァンパイアの隣で、朝食を口に押し込む。
朝陽が苦手なら、夜まであたしの部屋にいるつもりなのか。あれ、でも、出会った時は、太陽が出ていたはず……。
混乱したけれど、直接訊くことはどうも出来ず、遅刻もしそうになる前に、慌てて家を飛び出す。
ヴァンパイアはあたしを引き留めて、唇にキスをすると。
「いってらっしゃい」
微笑んで見送ってくれた。
こんなこと、誰にもされたことがないので、真っ赤になりながら早歩きで出勤した。
昨夜はヴァンパイアに抱かれた、と話せるわけもなく、仕事中は押し黙った。
そして、帰ってから質問したいものを1つずつ、まとめて考える。
先ずは、何故あたしの名前を知っていたのか。
何故、家を知っていたのか。
彼は、本当にヴァンパイアなのか。
助けたということは、あの黒いアレはあたしをどうしようとしたのか。
そう、問い詰めるつもりだったのに、家に帰ったら、彼がいなくなっていた。
カーテンが開けられていたし、部屋の換気もしてある。ベッドも整えられていたし、今朝のお皿も片付いていた。
ソファーに座り込んで、質問が出来なかったことに、消化不良のもやもやが貯まる腹を押さえる。
項垂れたあと、もやもやを洗い流そうと、また浴室に入った。
お湯に浸かって、深く息を吐く。暫くして、足をお湯から出しては、沈めてみる。
昨夜の情事が、自然と頭に浮かんだ。断片的に思い出す。
彼の優しい愛撫。どんな風に、触れたのか。
2人の熱さ。冷めることなく、燃え上がっていた。
ゆっくりと、押し上げられた快楽。幾度も迎えた絶頂。それから、彼の甘い囁き。
「また、イッたのですか?」
クスリ、と笑っていた。
「一緒にイキましょう」
熱い吐息とともに吹き掛けられたっけ。
「まだ、終わりではないですよ」
あたしの手を握り締めて、キスをしながら、彼は優しく……。
なんだか鮮明に思い出してしまった途端に、恥ずかしさに襲われた。
お湯に浸かりすぎたかもしれない。顔が真っ赤になった。浴槽から出て、少し冷たいシャワーを頭からかけて出る。
丁寧に肌の手入れをして、赤のレースのベビードールと黒いカーディガンを着て、リビングに出たら。
部屋が変わっていた。
すっかり夜に変わって、暗くなった部屋を、そこら中に置かれたキャンドルが淡く照らしている。
ポカン、としていたら、キッチンに立っていた彼が、ワインボトルをあたしに見せた。
「ワイン、好きですか?」
「……あー、わからない……あまり、飲まない、から」
「じゃあ、私からのお勧めです。飲んでみてください」
コーヒーテーブルにワインボトルを置くと、立ち尽くすあたしの手を取って、ソファーまで連れていく。彼と一緒にまた肩を並べて、ソファーに座った。
テーブルには、きれいに盛りつけられたステーキがすでに置かれている。
冷蔵庫の中にそんなお肉はなかったから、彼が持ち込んだもの。
ガーリックが乗ったステーキは、美味しい匂いがする。朝と同じ、1人分。
ポンと、ワインボトルのコルクが抜かれた。彼は鮮やかな赤のワインをグラスに注ぐと、あたしに持たせる。
あたしは血のワインじゃないことを、確かめるために匂いを嗅いだ。
「飲んでみてください」
彼は、微笑む。
勧められるままに、あたしは赤いそれを一口、口に含んだ。
苦味に、顔をしかめてしまう。いただいたものに対して、これは失礼だとは思うけれど、ポーカーフェイスを保てなかった。
「おや? お口に合いませんでしたか? 絵子さん」
クス、と彼はまた笑う。怒った様子はない。素直に謝ることにした。
「……ごめんなさい。ワインは……甘くしたホットワインくらいで」
「では、次は甘口のものを持ってきますね」
彼が口にした"次は"に、ときめてしまう。また来てくれる。
口元が緩みそうになったから、左手を押し付けて隠す。
「慣れれば、まろやかで美味しいと感じると思いますよ。また今度、挑戦してみてください。さぁ、こちらを召し上がってください」
彼に言われ、ステーキを食べることにした。
いただきます。
食べやすいように切り取られたステーキは、口にした瞬間に、とけて消えるようだった。高級の肉だ。美味。
ぐっと、噛み締めたあとに「美味しいです」と答える。
「それはよかった」
彼は満足そうに、ワインを飲んだ。
もう一口、ステーキを味わって食べた。そこで、用意した質問を向ける。
「あの、何故、あたしの名前を、知っているの?」
「ん?」
ソファーに凭れて、彼は首を傾げた。少し考えるようにワインを傾けると、答える。
「気分悪くなると思いますが……答えはあなたのことを監視していたからです」
ゴフッ、と噎せかけた。
「我々を目撃した人間は、監視する。目撃された者が、その責任をとらなくてはいけないのです。だから、私はあなたを見張っていました」
彼は、さらりと明かしては、ワインを飲んだ。また傾けられる赤ワインは、キャンドルの光を宿しながら揺れた。
あたしを見張っていたから、名前も家も知っていた。
「我々を目撃した人間は、ネットに書き込んだり、周りに言い触らす。あるいは探る。そんな行動をしないように見張るのです。人間は酷く鈍感です。我々の存在を知らないままでいい」
彼はグラスを置くと、その手であたしの頬を撫でて、顎を掴んだ。
「まれに、あなたのように、魔の者である我々を見つけてしまう者がいるのです。不運とも呼ばれ、勘が鋭いとも呼ばれ、魔の力があるとも呼ばれています」
ペリドットの瞳は、細められて、あたしを見つめた。
「あなたは、面白い。まるで何事もなかったかのように、淡々と生活を送っていましたね。殺されかけたのに、タフな人ですね」
彼の目にも、あたしはクールに映ったらしい。愉快そうに笑う。
殺されかけた、と言われて、あんぐりと口を開けて呆然とした。
「あなたにぶつかったのは、グールです。悪鬼とも呼ばれているものです。人間の邪気が集まった成れの果て。通り魔紛いなこともしますし、人も喰らいます。私はそんな魔の者を駆除することを、仕事にしています」
悪鬼、グール。あたしを喰らおうとしたモンスター。
彼は、それから助けてくれた。
魔の者。俗に言う、魔物、モンスターが、実在するらしい。
彼はヴァンパイア。人間を襲うモンスターを狩る者。
「ねぇ、絵子さん。どうして、何事もなかったかのように、日常に戻れたのですか? 教えてください」
す、と彼が身を乗り出す。
「我々を見なかったことにしたのですか?」
顎に当てられた彼の手が、あたしの首をなぞり、胸の間に置かれた。
「それとも、私のことだけを考えていましたか?」
彼の指の下にある心臓が、ドクンと跳ねてしまう。
感じ取ったのか、彼は笑みを深めた。
「おや……図星ですか? 私を想い、このソファーに寝そべって、お酒を飲んでいたのですね」
甘く囁くそれに、顔が熱くなった。
「あ、あなたこそっ……楽しんで、覗いてんじゃないの?」
焦って言い返す。
すると、彼の手があたしの素足を掴んだ。持ち上げられて、彼の膝の上に置かれたかと思えば、ゆっくりと人差し指でなぞるように撫でられた。
「ええ……毎晩こんな無防備な格好をしているあなたを、堪能していました。絵子さんは、美しいです」
「……っ」
揚げ足とられ、赤面する。
そうだった。彼には見られていたんだ。今も、誘っているような格好のまま。恥ずかしい。
いや、仕方ない。あたしは普段通り家にいて、彼はいきなり現れたのだから、あたしは悪くない。
「照れてしまいましたか? 赤い顔が、可愛いですね。普段、クールな表情だからでしょうね、より映えます。ああ、昨夜の表情も、可愛らしかったですよ」
追い打ちのように、彼はクスクスと笑った。
恥ずかしさは増す。
話題を変えるために、質問を思い出そうとした。あと、何が聞きたかったんだっけ。
「あなたはっ……そのっ……」
「今日は私の名を1度も呼んでいませんが、まさか忘れたわけではありませんよね?」
彼から、話題を変えた。
きょとん、としていたら、足を引っ張られて、バランスを崩されたあたしはソファーに倒れる。
あたしの上に、彼が覆い被さるように腕をついた。
「何度も喘ぎながら、呼んだくせに……忘れたのですか?」
キャンドルの光を浴びたペリドットの瞳が、あたしを捉えて、ゆっくり近付く。
「思い出させてあげましょうか? 絵子さん」
「お、お、覚えてます。ね、ネリオラ、さん」
「昨夜は、さん付けでしたよ」
ネリオラの肩を掴み、止めた。
にこ、とネリオラは笑いかけて、あたしをまだ見下ろす。ブロンドが垂れて、触れてしまいそうだ。
「ネリオラ……変わった、名前ですね……」
「そうですか? 何百年も経ち、馴染むように短くしたものを名乗っているつもりなので、変わっているという自覚はありません。そう言う絵子さんの名前は、可愛らしいですね」
「はぁ……それはどうも……」
あたしの上で、頬杖をつき始めてしまったネリオラに、どぎまぎした。
退いてくれないだろうか。 視線を逸らしたら、彼のブロンドが顔に触れた。ペリドットの瞳と、目を合わせる。ただ、あたしを見つめていた。
あたしの許可を待っている。キスの許可。
「……仕事で、怪我、したのよね?」
「ええ。少し……集中力が欠けてしまって、不覚にも怪我を負ってしまったのです」
ネリオラが囁く声が、触れるから唇が震えた。
「助けたお礼に、血をいただいて、記憶を消すつもりでしたが……」
言葉の続きは、ない。あたしを見つめて、ただ待っている。
少し、躊躇して、息を飲み込んだ。けれども、あたしは彼を求めてしまっているから、目を閉じて、自分から唇を重ねた。
昨夜と同じ、とろけるようなフレンチキスをされる。
ネリオラの首に、腕を回してしがみつく。それを合図に、少し、キスが激しくなった。絡み合う吐息が熱い。夢中で、彼のキスを堪能した。
「!」
グイッ、と軽々と身体を、いきなり起こされて驚く。ソファーに座った彼の膝の上に、あたしは座る形になった。
あたしの腕を撫でるように、カーディガンを脱がしたネリオラが、微笑みを浮かべてなにかを待つ。
あたしに、脱がせろって?
あなたに跨がったまま?
昨夜みたいに酔っていないから、恥ずかしさに躊躇した。
「おや? 続き、しないのですか?」
「……」
このヴァンパイア……少々サドだ。
にこにこ、優雅な笑みを浮かべてネリオラは待つ。紳士的なのに、やはり少々サド。
ワイン一杯、一気飲みをしたい気分だけれど、彼に緊張しているとは思われたくない。経験の少なさを知られたくもない。
意を決して、彼のベストのボタンを外す。
ネリオラと鼻を触れ合うほど顔を近付けたまま、Yシャツのボタンを、1つ1つ外していく。
露になる彼の完璧な上半身を見つめながら。
ネリオラが、あたしを見つめていることを感じる。
はぁ、と息を漏らしながら、ネリオラの腹部を滑るようにYシャツを開いていく。
ああ、本当に完璧な身体。固い腹筋はほどよくて、あたし好み。
ネリオラの息遣いが、少し乱れた。
両手を上へ動かしていくと、ネリオラが唇を重ねて、あたしの腰を引き寄せる。
風が吹いたように、キャンドルの火が消えた。
薄暗い部屋に、月明かりだけが射し込む。
また、月の光を浴びながら、彼に抱かれた。