月光に抱かれて
それから毎日毎日、彼を思い浮かべた。
あの公園に入る前に身形を整え、出会した場所を過ぎたら、バカらしいと自分の髪を掻き乱す。
さながら、夢の中に現れた恋人を愛しているような感じ。
一目惚れなんて、自惚れと一緒だと思う。この人と愛し合える、という思い込みから出る恋だ。恋に恋するものと同じ。
恋の寿命なんて、短い。そのうち、忘れる。それまで耐えればいい。幻なんだから。
時折、黒揚羽蝶を見掛けた。ヒラリと宙を横切るそれを見る度、彼を思い出してしまい、すぐに目を背ける。
家にいても、不意にペリドットの瞳を思い出して、ついベランダを向いた。彼がいるわけないのに。
恋煩いの日々が、数日続いたある夜のこと。
ソファーに座って、また映画を観ながら、お酒を飲んだ。ピンクのベビードールと黒のカーディガン。無意味に素足を撫でては、グラスに入れたお酒を飲み干す。
もう寝てしまおうと、立ち上がると、よろけた。でも倒れないように踏み留まり、つけていた電気を消す。
暗くなった部屋に、射し込む月の光に気付く。
「あら、素敵」
思わず、思ったことを口にする。
コーヒーテーブルに腰を下ろせば、丁度満月が見えた。口元を緩めて、頬杖をつく。ホロ酔いのまま眺めたかったけれど、映画の音が邪魔に思えて、タブレットを操作して止める。
それから、音楽のドビュッシーの「月の光」をリピート設定にして流した。
ホロ酔いで、月の光を浴びながら、優しいピアノの音色の「月の光」を聴く。
もう気持ちがいい。
目を閉じて、その気持ちよさに浸る。
瞼を開くと、ベランダの柵に黒揚羽蝶がいるように見えた。錯覚かと思って、目を凝らす。
瞬き1つ、したあと。
そこに――――彼がいた。
月の光でブロンドが艶めいていて、なにより彼の妖しさを際立たせている。前とは違うようだけれど、深緑のベストとYシャツ姿。黒いズボンと革の靴を履いた足は組まれていて、彼は柵に座っていた。
ペリドットの瞳も、月の光の妖しさを纏っている。
けれども、それより妖しいのは、彼についた血。恐らく、彼の血。肩から胸にかけて、引き裂かれた形跡があって、黒い。白い頬には赤黒い血がついていた。
カチャリ。
ドアの鍵が外れる音がしたかと思えば、カラカラとドアが開かれた。あたしも彼も触れていないのに、勝手に開かれた。
ポカンとしていれば、背中を押されるように風が吹いて、あたしは立ち上がる。
目の前の彼は微笑み、手招きした。お酒のせいか、彼に見とれているせいか、あたしは素足のままベランダに出て、彼に近付く。
「先日助けたお礼に、あなたの血を飲ませてください」
彼が口を開けば、2つの鋭利な牙が見えた。けれども、恐怖はちっとも沸いてこない。
彼の声はなめらかで、耳にしたあたしを、とろとろにとかしてしまいそう。酔っているせいか。
「……全部?」
「いいえ、命を奪うほどではありません」
あたしが問うと、彼はクスリと笑った。死ぬほど血を飲まれないなら問題ない。あたしの頭はそう判断した。
どうぞ、と言わんばかりに身を差し出す。
彼は笑みを深めると、あたしの右手を掴んで引き寄せた。彼の息が、首の左側に吹き掛けられたかと思えば、生温いものが肌を這う。彼の舌?
次の瞬間、チクリと熱が突き刺さった。反射的に身体が震えたけれど、彼が抱き締めて放さない。
噛まれたんだ。彼はヴァンパイアだ。
今更、頭が理解する。
あたしの首から牙は抜かれたらしく、痛みが増す。傷口から血を、彼が吸い上げているからだろう。
ゴクリ、と彼が飲み込み音が聞こえた。
また吸われると、身体の力まで奪われたみたいに、力が少し抜けて、彼に凭れる。
血が奪われているのに不思議と、身体は熱くなった。疼くような熱が、広がる。
ゴクリ、とまた彼が喉を鳴らした。
痛みより、身体の熱に意識が集中して、あたしはのぼせたように彼にただしがみつく。
「……ハァ」
彼の熱い息が、あたしの首を撫でた。吸血行為は、終わったらしい。それでも、あたしは動けなかった。
「助かりました。あなたの血のおかげで」
熱い息をあたしの耳に吹きかけながら、彼は優しく囁く。それが、あたしの中の熱を煽るようだった。
「どうしました?」
クスリと笑って、彼は問う。
「身体が火照っていますね、絵子さん」
あたしの名前を、彼が口にした。それよりも、彼の手が、あたしの太股に触れたことに意識が向く。
その手が、太股を撫でながら、丈の短いベビードールをゆっくりとたくしあげた。
くちゅ。
耳に唇が押し付けられたかと思えば、舌が這った。ゾクリ、ときて、彼の服を握る手に力を込める。
ちゅる。
彼に舐められると、いやらしい音が間近で聞こえた。
彼の手が、そっと腰を引き寄せて、密着させられる。完全に、彼に身を任せた。
彼の唇があたしの輪郭をなぞるように移動する。そして、あたしの唇まできた。
ペリドットの瞳と、見つめ合う。キャッツアイのように、瞳孔が鋭くなっていた。暗い中でも、魅惑的なままだ。
唇が重なった瞬間、目を閉じる。
離れては、また吸い付くように重なった。とろけるようなフレンチキスに、溺れる。
触れ合うことを楽しむように、繰り返されるキス。
もう、夢を見ているように感じた。こんなにも完璧なキス、されたことがない。
これだけで、あたしはもう。
「私に……どうされたいのか、言ってください?」
唇が触れ合いそうなギリギリの距離で、彼がそっと言った。
わかっているくせに、なんて意地悪なんだ。
「抱いてほしい……と、この唇を動かして」
あたしの唇に、自分の唇を這わせて、彼は囁いた。
「言ってください、絵子さん」
「は、ぁっ……」
思わず、息が、溢れる。
この身体の火照りを、彼にどうにかしてほしくて。
抱いてほしい。抱いて。
そう口にした覚えはない。
気が付けば、ソファーに押し倒されて、キスの続きを味わっていた。
最初は恥ずかしさがあったけれど、すぐに快楽に溺れた。
あたしに触れる彼の手はとても優しい。けれども、強く、深く、快楽を押し上げてきた。
怪我をしていたと思ったのに、彼の身体はとても綺麗だった。血など、初めからなかったみたいに、消えている。真珠のように美しく、固く、そして熱い肌。
代わりのように、彼が背にした満月がほんのりと赤を纏っていた。
快楽に溺れている最中に、彼はこう囁いた気がする。
「私の名は――ネリオラ」
それから、彼の名をうわ言のように呼びながら、抱かれた。
覚えているのは、とろけるほどの快楽と、彼とあたしの熱さと、彼の美しさ。