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ネオンと喧騒に彩られた表通りを、俺はいつもよりペースを落として歩く。うっかり普段の歩き方に戻ってしまった時は、一旦足を止め、彼女が追いつくのを待ち、歩幅を狭くして、またゆっくり歩き始める。
横を歩いているのは、セリーンだ。足の長い彼女も歩幅は大きめだろうが、俺の方が背の高い分、歩幅が伸びてしまう。だから俺が彼女に合わせなくてはならない。
俺たちはしばらく、互いに口を利かなかった。セリーンは、俺のジャケットを、身体に巻きつけるようにして羽織ったまま、時折俺をちらりと見上げた。俺もまた、時々彼女を見下ろし、様子を伺った。たまたま目が合うと反射的に逸らしてしまうのは、どうにかならないものかと、我ながらに思う。
女性に不慣れな男子学生でもあるまいに……。
何か話そうとは思うのだが、言葉がうまく出てこない。喉の真ん中で、押しとどめられているような感覚だ。
そもそも、俺は彼女に質問していい立場にあるだろうか。彼女の前から去ったのは俺だと言うのに。
元気だったか。まだあの会社に勤めているのか。今は何をしている。恋人はいるのか。結婚は。
そんな、プライバシーに触れる内容の質問をする権利は、今の俺にはないのだ。
むしろ、セリーンの方こそ、訊きたいことが山とあるに違いない。
まず、昔の俺とは雰囲気が違って見えるはずだ。痩せぎすだった俺は、〈セミナーハウス〉でのハードな訓練によって筋肉が付き、体型が以前の倍以上に膨れた。それから、本土に戻って〈異法者〉として活動を始めると、メメントとの過酷な戦いで、過剰な筋肉が絞られた。整えていた髪と髭は、手入れの頻度が減ったため、ボサボサ頭に無精髭という、むさくるしい状態になっている。
俺は自分の容姿には頓着しないのだが、昔の俺を知るセリーンには、困惑の種にしかならないだろう。
何より問題なのは、約九年間のブランクだ。退職の理由も、どこへ行くのかも告げずに、俺は表社会側から姿を消した。
そんな男が、まったく違う風貌で目の前に現れたら、誰だって戸惑う。
一方でセリーンは。
ショートだった亜麻色の髪は、背中にまで届く長さになり、歩くたびに夜風に揺れる。Tシャツとジーンズとスニーカーが定番だった服装は、カジュアルながらも大人びたデザインのものに変わり、低めのヒールのパンプスを履いている。
溌剌とした美少女は、九年の歳月を経て、匂い立つような美しさを育んだ大人の女性に成長していた。
少女だったセリーンが、今や二十代の女性として、俺の隣にいる。彼女への想いなど、とっくに捨てているというのに、何故か胸がざわついた。
セリーンは、物言いたげな目で俺を見上げる。質問したい気持ちでいっぱいなのではないだろうか。
俺が訊くべきは、何故あの連中に襲われたのか、ということだ。
道を歩いている時に目をつけられ、強引に連れて行かれたのだと考えられる。あの四人は何者だろう。目つきや身のこなし、細かな所作から判断するに、まず堅気ではない。しかしながら、裏稼業者と呼べるほど、裏社会に浸かっている感じはしなかった。“街のチンピラ”というのが関の山だろう。
暴漢の四人は、あの場に放置してきた。奴らをどうにかするよりも、セリーンの安全を確保する方が先決だったからだ。あんな状態では、しばらく悪事は働けないだろうし、放っておいても情報屋に訊けば、素姓や居所などすぐに割り出せる。アトランヴィルの情報屋は優秀だ。
警察に届け出ることをセリーンに進めてもみた。未遂とはいえ、婦女暴行の被害者なのだ。このような事案で被害届を出すということが、女性にとってどれほどの苦痛とストレスになるのか、男の俺でも想像できる。辛いかもしれないが、一応そういう手段をとることも出来ると、控えめに彼女に話してみたのだ。
セリーンは、被害届は出さない、と答えた。二度と関わらなければ、このままなかったことにする、と。
それが彼女の意思なら、俺の口出しは無用だ。
だが、もし奴らがまたセリーンに手を出したら、その時は容赦しない。
汚い手でセリーンに触れ、犯そうとした連中を、許すことは出来ない。
また胸が、ざわり、となった。
無言のまま歩き続け、やがてマンション街へとたどり着いた。
「ここまででいいです」
くすんだオレンジ色の、煉瓦調外壁の建物の前で、セリーンは足を止めた。
「送ってくれて、ありがとうございました」
見上げる彼女の目を正面から受け止められず、俺はよそを向いて、
「いや、礼はいらない」
もごもごと不明瞭な声で答えた。
「あ、あの、今更なんですけど。お久しぶりです」
「ああ……、久しぶり」
「まさかこんな形でまた会うことになるなんて、考えてもみなかった」
「そうだな」
味気のない簡素なやりとり。
もっと他に言うべきことがあるだろう、と俺は自分自身を叱責した。だが、言葉はうまく喉を通らず、唾と一緒に飲み下される。セリーンもまた、何を言えばいいのか迷っているようで、目が泳いでいた。
俺たちは口を閉ざし、沈黙の中、ただ向かい合った。視線を交わらせることなく。
「じゃあ、行くよ」
しばらくして、俺は一歩後退する。セリーンを送り届けるという務めは果たした。留まる理由はもうない。
セリーンの、今夜の嫌な出来事は、時間はかかるかもしれないが、いつか癒えるだろう。俺のことも、また忘れていくはずだ。彼女は日常に帰っていくのだ。
俺は裏の社会に戻る。それで終わりだ。何もかも、これまで通りになる。
何も問題はないはずなのに、俺の足運びは緩慢だった。この場を去り難い思いを拭いきれないせいだ。
ここで別れたら、セリーンとは二度と会わないだろう。
それを俺は、惜しい、と感じている。
――未練か。
――九年も経っていながら。あんなことがありながら。
――それでもまだ。
「待って!」
背中に投げられた声に、俺は足を止めた。振り返れば、追いかけてきたセリーンが、二歩ほど離れて立っている。
「あの、連絡先、教えてください」
「え?」
「まだ、お礼をしてません」
「いや、礼は……、いいよ。さっき聞いたから」
「それじゃあ、あたしの気が済まないです。ちゃんとしたお礼、させてください。それに、話したいこともたくさんあるし」
真っ直ぐに俺を見上げる、二つのオリエントブルー。
かつてと同じように、俺はその煌きの中へ、引き込まれそうになる。
話したいこと。
そんなもの、今更あるというのか。
――あるとも。山のようにな。
*
そのドアの先に何が待っているのか。充分過ぎるほど分かっている。
この世の魔窟、あるいは深淵。
そのドアをくぐることは罷りならない。だが、何かを得るためには対価を払うのが世の常。時には勇気が必要だ。
俺は深呼吸してから、自動ドアの前に立った。センサーが反応し、ドアが横にスライドして開く。
途端、中に篭もっていた様々な音が、爆風のように押し寄せた。
歌、伴奏、やかましい話し声。漂う酒気。鼻をくすぐる煙の臭い。それらを抱擁する淡いピンク色の照明に染められた店内は、怪しい雰囲気満載だ。
店内には、仮装大会でも行われているのかと思いたくなるほど、奇抜なデザインのドレスを着たコンパニオンたちがいて、ふさふさのつけ睫毛を瞬かせながら、大口を開けて笑っていた。
そのうちの一人、黄緑色に染めた髪をソフトクリームのように高々と巻き上げたコンパニオンが、俺の存在に気づき、金切り声を上げた。
「きゃあああああっ! バージルさんだわ! バージルさんがお越しよおおっ!」
その一言で、他のコンパニオンたちが一斉に俺の方を向いた。そして、黄色い声を上げながら、一斉に突進してきた。
「やだーーー! いらっしゃいバージルさん!」
「久しぶりじゃなーい! もっと遊びに来てよう!」
「今日もお髭がむさ苦しくていいわあ!」
「背中ひろーーい、あったかーーい」
「いつ見ても立派な上腕二等筋だわねえ」
「やっぱり男の胸板は、このくらい厚くなくっちゃねえ」
コンパニオンの“彼女”たちは、隙間なく俺を取り囲み、好きなことを言っては、好きなように俺を触りまくった。そのうち誰かが俺のシャツをめくり上げ、みんなでぺちぺちと腹筋を叩き始めたが、俺は拒まなかった。というか、拒めなかった。勢いと熱気に押されて、拒否する隙が見出せない。
“彼女”たちにこうして触られるのは、ここの常連客である以上、避けては通れない“儀式”である。本来なら初来店時に、この“通過儀礼”をクリアすれば、二度目の来店以降は、普通に接してくれるはずなのだが。
何故か俺は、いつ来てもボディタッチの嵐に見舞われた。
悪人でもない相手を邪険に出来ない性格であることは、早い段階で見破られている。だから、俺が拒みきれないのをいいことに、好き放題触るのだ。
触られている間、俺はじっと耐える。気が済めば解放してくれるのだから、しばらく辛抱すればいいだけのことである。
まあ、美しく着飾っているとはいえ、複数の男に身体中撫で回されるというのは、気分的にあまりよろしくない。中には、本物の女性のような美貌を持つ者も何人かいるが、全員、正真正銘の男である。
そう。“彼女”たちは男。イーストバレーが誇る老舗のゲイバー〈プレイヤーズ・ハイ〉の蝶たちなのだ。
香水とアルコールの匂いを纏った女装たちにもみくちゃにされていると、一分一秒が果てしなく長く感じる。
タッチ大会もそろそろ終わるか、という時。誰かが俺の尻を触った。触られた、というか、掴まれた。
「お、おい。尻はやめてくれって言ってるだろ」
「えー? じゃあ前は?」
「ま、前も駄目だ」
「けちー」
青髭のコンパニオンたちは、赤やピンクの口紅で彩った唇を、アヒルのように尖らせて抗議した。
俺にだって越えさせたくない一線はある。それだけは死守しなければならない。
そんな、実りのないやりとりを続けていると、
「はいはいはいアンタたち。そろそろ離れなさい。女装した野郎の群れに囲まれるなんて、どういう地獄よ。ほーら、持ち場に戻りなさいな」
俺と同じくらいの背丈の人物が、コンパニオンたちを押しのけ現れた。
目の覚めるような鮮やかなイエローのドレスを身に纏い、筋肉質の足を、同じくイエローのハイヒールブーツで包んだ装い。豊かで豪奢なホワイトブロンドの髪を揺らして周りを見渡し、ぱんぱんと両手を打ち鳴らす。
「お触りはもうおしまい。バージルの前も後ろもアタシのものなの。分かったらさっさと散りなさい。お仕事お仕事」
コンパニオンたちは「はーい」と調子のいい返事をして、俺に手を振りつつ、店内のあちこちに移動していった。
やっと自由になった俺は、解放してくれた人物を、改めて見る。向こうも俺ににこりと笑いかけ、肩にかかるホワイトブロンドをやんわりと払った。
「久しぶりね。来てくれて嬉しいわ」
「このところ顔を出せなくて悪かった。ところで、俺の前も後ろもあんたのものになった覚えはないが」
「やあねえ。ああでも言わないと、あのコたちが離れないでしょ。でも、いつでもアタシに委ねてくれてもいいのよ? とっても立派なアナタの」
「まあそういう話は置いといてだな」
最後まで言わせてはならないと、俺は彼女の言葉を慌てて遮った。
「少し訊きたいことがあって来たんだ」
ホワイトブロンドの彼女は、自信に満ちた笑みで頷いた。
「よくってよ。このママ・ストロベリーに、何でも訊いてごらんなさい」
〈プレイヤーズ・ハイ〉の店主にしてドラァグクイーンのママ・ストロベリーは、アトランヴィル裏社会きっての情報屋だ。彼女の手にかかって掴めない情報はないと言ってもいい。
ママ・ストロベリーとヴォルフは、互いに上得意先という間柄で、付き合いも長い。得意先というだけではなく、尊敬し合う仲間でもある。
俺はママの個人オフィスに通され、上等な革のソファを勧められた。座ると腰まで沈むほど、クッションが柔らかい。
ママ・ストロベリーは、一旦オフィスの奥の部屋に引っ込んだ。しばらくして、琥珀色の液体と水晶のような大きな氷の入ったグラスを両手に持ち、にこにこしながら戻ってきた。
「見て見て。綺麗な色でしょ? 先週仕入れた〈シャンボワージェ〉よ。アナタのために開けちゃった」
「それはまた、随分と気前がいいな。高かっただろう」
〈シャンボワージェ〉は、高級ブランデーの代名詞とも言える銘柄である。最も安いものでも、三十万クローツは下らないはずだ。
「でも、俺は酒の良し悪しは分からないぞ?」
多少は飲めるしそれなりに好きだが、だからといって、高級品とそうでない酒の味の違いなど区別がつかない。
俺の言葉に、ママ・ストロベリーは口元を綻ばせた。
「いいのよ。いいお酒をいい男と飲めるだけで、アタシは満足なんだから。一杯くらい付き合って」
ママはそう言って向かいのソファに座り、グラスを一つ差し出した。俺はグラスを受け取り、そのまま乾杯する。二つのグラスが触れ合うと、透き通った氷が、からん、と鳴った。
グラスを軽く回してから、〈シャンボワージェ〉を一口含んだ。深い味わいが口の中に広がり、芳醇な香りが鼻を通る。たしかに美味い。が、やはり無粋な俺には、リーズナブルなブランデーとの味の違いは分からなかった。庶民的価格の酒にも、美味いものはある。
グラスの中の琥珀の泉に浮かぶ氷を見て、俺はレジーニを連想した。
怒りと憎しみを拳に纏わせ、猛る烈情に任せて吹雪いた凍てつく心。
今頃どうしているだろう。ちゃんと自宅に帰り着いただろうか。通りすがりのチンピラグループに、八つ当たりなどしていなければいいが。
セリーンを送り届けたあと、何度か電話をかけてみたものの、一度も出てくれなかった。
「それで、最近はどうなの? 新人の監督者っていう初体験は? 訊きたいことがあるっていうことだし、まとめて話してくれる?」
ストロベリーはグラスをテーブルに置き、膝に腕を乗せて身を乗り出す。
俺もまたグラスを置いて、レジーニと奇妙な“師弟関係”を築いた日のことと、つい一時間ほど前に起きた出来事を話した。
ストロベリーは俺の話を、時折頷きながら、黙って聞いていた。話が終わると、グラスを取り上げてブランデーを飲み、
「なるほどね」
淡いため息とともに、そう呟いた。
「事情は分かったわ。バージル、アナタが知りたいのは、その四人組の素姓ね? 誰かのグループに属している可能性だってあるもの」
「ああ。話が早くて助かる」
頷く俺に、ストロベリーは含みのある微笑みを見せた。
「いいわ、調べておいてあげる。昔の彼女に手を出した奴らだもの。いつでも睨みを利かせられるように、尻尾を掴んでおきたいのは当然よね」
「ま、待て、違う。セリーンは別に……俺と彼女との間には、何もなかったんだ。これは、その、昔の後輩が乱暴されそうになったんだから、気にするのは当たり前だろう」
平静を装ったつもりだが、意に反してどもってしまった。ストロベリーはますます愉快そうに笑う。
「平常心の化身のようなアナタでも、女の子のために動揺を隠せなくなることがあるのね。ちょっと安心したわ」
「安心?」
「そ。アナタも一人の男だってこと。普段は見せないけれど、人間の男らしい部分をちゃんと持ってる。アナタのそういう不器用なトコ、好きよ」
「からかうなよ」
「からかうわよ、面白いもの」
言い切ったストロベリーは、口元に片手を添え、上品に笑った。
それから、ふっと表情を曇らせ、またグラスを置いた。
「それより、レジーニが心配だわね」
「ママは、レジーニを知っているのか?」
情報屋の彼女とはいえ、アトランヴィル中の裏稼業者全員の情報を、網羅しているということはないだろう。だがストロベリーの口振りは、レジーニの名前だけでなく、素姓も把握しているようだった。
「知ってるというか。ねえバージル、数年前ここでバイトしてた、ギター弾きの女の子のこと、覚えてる?」
尋ねられた俺は、ストロベリーに頷いてみせた。もちろん覚えている。
その女の子は、珍しい淡い色味の赤毛の持ち主で、ショーバンドのギターを担当していた。ショータイムでない時は、ウェイトレスとして働き、野うさぎのように店内を駆け巡っていた。
よく働き、よく喋り、何よりもよく笑う子だった。
あの子は向日葵。光を振りまく太陽の子だ。
ミュージシャンになる夢を叶えるために、田舎から出てきたのだったな。今頃はどうしているだろう。
物思いにふけりながら煙草を取り出し、火を点けようとした俺の手は、ストロベリーの一言によって止められた。
「あの子、レジーニと付き合ってたの」
思わずストロベリーを凝視する。グラスの中のブランデーに注がれるドラァグクイーンの瞳は、愁いを帯びていた。
あの子がレジーニの恋人。
レジーニは、大切な誰かを、ヴェン・ラッズマイヤーに殺されたのではなかったか。
殺されたのは、あの子なのか。
「婚約してたのよ、あの二人。レジーニはラッズのもとから足抜けして、あの子と生きる道を選ぼうとしてたの。だけど」
語るストロベリーの声色は低く、こすれ合う枯葉のように乾いている。
「その見せしめに、あの子は殺されたの。ラッズと、奴の部下たちに……ひどいことをされて」
それ以上は聞かなくても分かる。俺は身を乗り出し、辛そうに唇を歪めるストロベリーの手を握り、もう喋らなくてもいいと、目で合図した。
ギター弾きの彼女は、ラッズマイヤーとその配下数名から暴行を受け、殺されたのだ。
彼女と言葉を多く交わしたことのない俺でさえ、理不尽で残忍極まりない所業に、今、激しい憤りを感じている。それが恋人であったなら、その怒りと憎しみはいかばかりだろう。
先ほどの出来事、チンピラ相手にレジーニがあれほどまでに荒れ狂ったのは、恋人の悲劇と重ねてしまったからに違いなかった。
「ママ、もう一つ訊きたい」
「なあに?」
「レジーニがどこに住んでるのか教えてくれ」
ストロベリーは俺の目を覗き込んだ。
「行くの?」
「ああ」
「入れてくれないかもよ?」
「かまわない」
孤独にしてはいけない。たとえ向こうは拒んでも、俺が彼を見離してはならない。
こちらから手を差し伸べ続けなければ、彼は本当に、一人でどこかへ行ってしまうだろうから。