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 人生は山あり谷あり、などとよく言われるが、俺のこれまでの人生には、山もなければ谷もなかった。ひょっとしたら、ずっとひたすら谷底の人生を送り続けていただけなのかもしれない。

 

 東エリア南部端の地方都市、そのまた片隅の小さな町が俺の故郷だ。裕福でも貧しくもない、ごくごく普通の家庭に生まれ、一般的な教育をひと通り受け、ありふれた大学に進み、特に問題もなく卒業して、平凡な商社に就職した。

 その約二十数年間、ハイライトと言える出来事など、ほぼなかった。

 俺はとにかく目立たない、地味な存在だった。背ばかりが高くて、抜きん出た才能や特技は何もなかった。性格も控えめだったために、周囲の人々への印象は、極めて薄かった。

 二度ほど故郷の同窓会に出席したことがあるが、俺のことをしっかり覚えていたのは、ほんの三人だった。その三人というのは、高校時代に俺をからかいの対象にしていた連中だ。いじめられた、というほどでもない。今となってはどうでもいいことだ。

 初めて恋人が出来たのは大学生になってからだ。同級生の噂に聞くような、甘くて燃え上がるような恋愛ではなかった。なんとなく付き合って、なんとなく恋人を続けただけだ。そんな関係は、卒業とともに解消された。

 就職しても、俺の生活に劇的な変化が起こることはなかった。逆らうことなく、命じられた――押し付けられた仕事を黙って片付ける俺は、さぞ都合のいい使いっ走りだったろう。会社の連中は、面倒な役目はすべて俺に回せばいい、とでも考えていたに違いない。

 言ったってどうにもならないとあきらめていたから、不平や不満はもらさなかった。周りの連中に見下されていても、気づかないふりをしていた。でかい図体を縮めて、波風を立てないよう、ひっそりと生きていった。

 

 

 俺はいつから、喜怒哀楽を表現することをやめていたのだろう。

 嬉しい時も、悲しい時も、怒りを覚えた時も、俺は顔色ひとつ変えない人間になっていた。

 感情の表現は、俺にとって無駄なものでしかなかったのだろう。

 俺が喜んだり悲しんだり怒ったところで、ザラ紙のような味気ない人生に、何か変化をもたらせるとは思えなかった。

 

 ただ息をしているだけの日々だった。

 そんな俺の人生を変えたのが、九年前のあの夜だ。


        * 


 あの日。俺は一人で夜の街をふらふら歩いていた。

 少し情けない理由でほっつき歩いていて、なんとなく自宅のアパートに帰るのも面倒だった。気分は惨めで、気温も冷たい。心身ともに冷え冷えとしていた。さっさと帰ってシャワーを浴び、何もかも忘れてベッドに入りたい。ただそれだけを考えていた。

 とある路地の前を通りがかった時、不審な物音が聞こえてきた。

 いつもなら厄介事を避けるために、その場を速やかに立ち去っただろう。その日もそうすればよかったのだ。

 だが、どういうわけか俺の足は、吸い込まれるようにして路地の奥に向かったのだった。

 忍び足で物音のする方向へ進み、そして、見た。

 一人の男が、巨大な化け物と戦っている姿を。


 彼は右手に、みどりの輝きを放つ奇妙な武器を携え、羽根のように自在に振り回していた。

 その武器を持って対峙していたのは、見上げるほどの巨体を月下に晒した怪物。

 あれを何と形容すればいいだろう。

 バンタイプ電動車ほどの大きさの蠍が裏返った状態で、無数の足が天に向かって蠢いていた。巨躯はたくましい二本の腕足のみで支えられ、尾部からは長い尾が伸びている。尾の先端は、蠍らしく毒針が備わっていた。

 化け蠍には頭部がなかった。毒針がせわしなく動いていたので、あれが目や耳代わりの感覚器官も担っているのだと思われた。

 非常に稚拙な表現だが、俺は自分の目を疑った。この世の出来事とは思えなかった。

 地獄から這い上がってきたような化け物が目の前にいて、人間の男が武器ひとつでそいつと戦っている。

 まるでSF映画やゲームの世界だ。絶対的フィクションであるはずの光景が、今、目の前で繰り広げられている。こんなありえない出来事を、現実のものとしてすんなり受け入れる方がどうかしている。俺は正常だ。だが、どうか夢であってほしい。

 俺は瞬く間に恐慌状態パニックに陥ってしまった。心臓は破裂せんばかりに早鐘を打ち、呼吸は荒く、足がすくんで動けない。逃げ出せないまま、男と化け物の戦いを見守り続けるしかなかった。

 化け蠍の攻撃をかわした男が、俺の存在に気づいた。こちらに顔を向けたのは分かったが、街灯や月光があまり当たらず、顔立ちは判別できない。


 ――そこで何をしている!


 ――さっさと逃げろ、邪魔だ、死にたいのか!


 彼は怒鳴って俺に警告を発した。言うとおりにしたいのはやまやまだったが、ショックから立ち直れない俺の足は、まるで言うことを聞かない役立たずで、歩くことさえ出来なかった。

 蠍が俺を感知し、巨体を方向転換させた。頭部代わりの尾がひょこひょこ動き、飛んで火にいる新たな獲物の位置を探る。

 られる。

 生命を奪われる恐怖を思い知らされたことで、やっと両足が応えてくれた。俺は来た方に向かって全力で駆け出した。

 だが。

 頭上がふっと真っ暗になった。と思った次の瞬間、正面に隕石でも落ちてきたかのような激震が走り、俺の逃走は阻まれてしまった。

 激震の正体は化け蠍だ。奴は対戦相手より明らかに弱い俺から、まず仕留めようと考えたに違いない。怪物に“考える”ということが出来るのであればの例えだが。その巨体からは想像もつかない跳躍力で、蠍は俺の頭上を飛び越えたのだ。

 蠍は尾を振り回し、二本の腕をカメレオンのようにゆっくりと動かして、俺ににじり寄る。頭があれば、舌なめずりしていたのではないだろうか。

 蠍の毒針が、俺に狙いをつける。脳天を串刺しにしてやろうと、毒針の先端がうろうろとさ迷っていた。

 一陣の風が吹き通り過ぎたのは、その時だ。

 翠の光を纏った疾風が、俺の脇をかすめた。疾風は弧を描き、蠍の毒針を斬り落とす。斬られた毒針は宙に投げ出され、路地の隅に転がった。

 化け蠍は苦痛にのた打ち回る。奴が暴れるたびに、切断面から生ぬるい体液が雨となって降り注ぎ、俺や周辺を汚らしく濡らした。

 呆然となる俺は、いきなり襟首を掴まれ、乱暴な動作で後方――つまり路地の奥へと押しやられた。


 ――ぼけっとしてないで下がれ!


 蠍と戦う男が、俺に怒号を浴びせる。

 夜闇の中、ブーメランの如く宙に翠の軌跡を描いた風が、彼の手の中に収まった。化け蠍の尾を落とした風の正体は、あの奇妙な形の武器だったのだ。

 彼は化け蠍と向き合い、武器を高らかに構えた。毒針を失った化け蠍の尾と、強靭な腕が、彼を襲う。翠の武器の男は、軽い身のこなしで攻撃をかわしながら、蠍を斬りつける。

 俺は男に指示された通り、路地の奥へと戻った。懸命に走っているつもりだったが、歩いた方が速くらいのろかった。

 最初の戦いの場まで戻った俺は、そこでやっと後ろを振り返った。

 彼も、化け蠍も追ってきていない。

 あたりは静かだ。彼はどうなっただろう。化け物を殺すことが出来たのだろうか。俺の頭の中は、疑問符で埋め尽くされた。

 そもそもあの怪物は一体何なのだ。あんなモノがこの世に存在していたなんて。化け物は他にもいるのか。それに、そんなモノと単身戦うあの男は何者だ。

 分からないことだらけだ。物音に惹かれて路地に踏み込んだことを、激しく後悔した。

 化け蠍の体液をかぶったせいで濡れそぼった俺の身体は、寒さと恐怖で笑ってしまうくらいに震えていた。

 

 恐怖。

 

 そう、恐怖だ。俺は怖かった。恐ろしさのあまり、顔が引きつったまま強張っているのがよく分かる。

 俺は怯えている。未知の脅威に対して。命の危機に晒されていることに対して。

 その時俺は、恐怖していることに、ある思いを抱いていた。恐怖に付随する悲しみや怒りといった、負のたぐいの思いではなかった。ではどんな思いなのかと問われれば、うまく答えることは出来ない。

 ただ俺は、自分の中でこんな声が聞こえていることに気づいたのだ。


 ちゃんと、怖がれているじゃないか、と。


 耳が痛くなるような静けさを破って、前方から足音が聞こえてきた。俺は震える身をすくませ、近づいてくる人影に見入る。

 人影の手に、剣のようなものが握られていたことから、あの男だと分かった。

 彼は俺に近づき、大丈夫か、と声をかけてきた。

 俺が弱々しくも頷くと、彼も頷き返した。右手に握られた剣は、翠の光を絶やさず放っていた。


 ――難しいとは思うが、


 彼はゆっくりと、言葉を選んでいるようだった。


 ――今日見たことは、すべて忘れろ。あんたは何も見なかった。いいな?


 俺に出来るのは、頷くことだけだった。こんな恐ろしい事、言われなくたって忘れてやる。

 化け蠍の正体や、この男が何者なのかも、もうどうでもいい。俺には関係ないのだから。

 俺が承諾したことに、男は安心したらしい。俺に背を向け、立ち去ろうとした。

 が。

 男の姿は突然、俺の目の前から消えた。

 いや、消えたのではない。凄まじい力と勢いによって、持ち上げられたのだ。

 男の行方を追って上を見上げたその時。

 宙に浮いた彼の肉体は、木っ端微塵に砕け散った。

 男を形成していた肉や骨は、大量の血液とともに路地にぶちまけられ、俺を真っ赤に染め上げた。鮮血が俺の顔や衣服を濡らす。生臭い鉄の匂いが、嗅覚を麻痺させる。

 男が持っていた翠に輝く剣は、主を失い、がらんと重い音をたてて地面に落下した。

 俺は両目を見開いて、男を粉微塵にした奴を見つめた。

 右手の建物の壁に、化け蠍が張りついていた。斬り落としたはずの尾の毒針が再生している。

 化け蠍は、斬られたことへの報復手段に、その凶悪な毒針は使わなかった。針の部分は食虫植物のように二つに分かれ、捕食者のあぎととなって、男を残忍に噛み砕いたのだ。

 化け蠍の尾は、顎の中に残った男の破片を咀嚼し、壁に張りついたまま方向を変え、建物の向こうの闇の中へと消えていった。

 俺は、一連の出来事を、見ていることしか出来なかった。

 地面に落ちた翠の剣を拾い上げ、よろめきながら袋小路の壁にもたれかかり、そのまま座り込んだ。

 真冬の夜の冷気と濡れた服と、たったいま悲惨な集結を迎えた人智を超えた惨劇に打ちひしがれ、生まれたての赤ん坊のように震えた。

 名前も顔も知らない男の、あまりにも惨すぎる最期が、脳裏に焼きついて離れず、長い間動けずにいた。身体は更に冷えていくばかり。

 ヴォルフ・グラジオスがその場に来てくれなかったら、俺は凍死していたかもしれない。



 後に彼から聞いたことだが。

 あの日ヴォルフは、自分の店を出すための土地を探しに、本土を訪れていたのだそうだ。

 当時の彼は、まだ〈セミナーハウス〉の教官という立場にあった。だが、折を見ては、店を出すにふさわしい場所を探しに来ていたのだという。

 第九区のサウンドベルに、理想的な立地を発見したその日。ヴォルフはかつての教え子の一人と再会した。その元教え子という男は、第九区を拠点に活動する〈異法者ペイガン〉になっていた。

 再会した晩、元教え子は“仕事”のために、ヴォルフと一旦別れた。“仕事”が終わってから、酒を酌み交わす約束をして。

 しかし、元教え子はなかなか戻って来なかった。

 ヴォルフは彼を捜しに行ったが、見つけられず、代わりに路地の奥で震え上がっている俺を発見した。

 俺の腕の中には、ヴォルフの教え子が愛用していた武器があった。

  


 俺はヴォルフに身柄を保護された。

 彼は俺を介抱すると、俺を眠らせ、アパートに運び入れた。すべてをなかったことにして、日常に戻したのだ。

 だが俺は、結局“日常”に戻れなかった。



 俺がヴォルフに会うことが出来たのは、運がよかったからだと思う。俺が彼を捜し回っている、という噂がどこかから流れたのか、ヴォルフの方から俺に接触してきたのだ。

「何が望みだ」

 熊のような風体の男は、俺にそう尋ねた。

「あの武器が欲しい」

 俺はストレートに伝えた。

 あの武器――翠の光をたたえた、奇妙な形状のあの武器だ。素姓を知ることなく死んだ男が遺したもの。あの武器があれば、化け物と戦える。俺の内面にこびりついた“世界の闇”に対する、おりのような不信感を打ち払うには――、

 向かっていくしかない。

「あれが欲しけりゃ」

 ヴォルフは厳かに応じた。

「それ相応の手順を、覚悟とともに踏んでもらわにゃならねえ。お前さんに、それが出来るのか」

「出来なければ、一生怯えるだけだ」

 ヴォルフはしばらく、俺を値踏みするように見つめ、かすかに頷いた。

「まずは根性見せてみろ。話はそれからだ」

「もうひとつ、頼みがあるんだ」

「なんだ」

「彼の名前を教えてほしい」

 俺の言葉に、ヴォルフは眉を顰めた。しばらく黙っていたヴォルフだったが、やがて髭に覆われた口を開いた。

「エンツォ・ロッソだ」

 エンツォ・ロッソ。

 あの日、路地裏に散った男の名前を、俺はどうしても知りたかった。

 俺は彼の名を口の中で復唱し、魂に刻みつけた。

「覚えておくよ」

「そうしてやってくれ」

 深く頷くヴォルフの小さな瞳が、悼むようなうれいの灯火ともしびを帯びて見えたのは、きっと気のせいじゃない。


 

 一週間後、俺は勤め先を退社し、荷物をまとめてアパートを引き払った。

 誰にも行き先を言わず――言う相手はそもそもいない――生まれて初めて乗ったヘリコプターで、〈セミナーハウス〉の島に渡った。


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