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美形の新人は、俺から視線を外さないまま、カウンター席に座った。ヴォルフがカウンター越しに彼に近づき、話しかける。新人はヴォルフと言葉を交わしながらも、ちらちらと俺に視線を投げていた。
やがてヴォルフは、彼の前にコーヒーカップを置き、再び俺のもとへとやってきて、向かいの席に座った。
「分かっただろうが、あいつがさっき話した新人だ」
ヴォルフは肩越しに、カウンターを指差した。俺は頷く。
「協調性は期待出来ねェが、〈セミナーハウス〉ではトップクラスの成績を収めた。何をやらせても、たいてい要領よくこなせる」
「そいつは、たしかに“将来有望”だな」
俺は感心のつもりで肩をすくめた。次にヴォルフが何を言い出すのか、予測はついている。
「でだ、バージル。しばらくあいつを見てやってくれねェか」
思った通りだった。俺は唇を結び、わざと間を空け、すぐに返事をしなかった。
つまりはこういうことだ。
〈セミナーハウス〉帰りの新人が、本当に現場で使える人間なのか。長年裏社会で生きている者の下につけて試験する。
要するに“試用期間”を設けるのだ。
一定期間、新人の実力を見極め、監督者が合格と判断すれば、そいつは晴れて独り立ち出来る。この“試用期間”は時々行われる、慣習のようなものだ。
裏稼業者の全員が、こんな風に試用期間を経て独立していったわけではない。だいたいが流されるままに裏稼業に手を出し、そのままその稼業に染まっていった者たちだ。
だが、あまりに特殊な仕事を生業にしようとする場合は、その道のプロに師事し、基本的なノウハウを身に着けるのが通例である。
ヴォルフは、あの新人を俺に監督しろ、と言っている。それはつまり――。
「〈異法者〉志望なのか?」
分かりきったことだが、俺は確認のためにそう口に出した。
「ああ、そうだ。あいつは〈異法者〉になりたがってる」
「どういう仕事か、分かって言ってるんだろうな? メメントのことは話したのか?」
「あいつは、裏のことなら大抵把握してるし、〈異法者〉の存在も、もっと前から知っている。どういうことになるか分かってるさ。それで敢えて、化け物と渡り合う道を選んだ。まあ、偏屈な野郎だ。お前さんと同じだろ」
完全に否定は出来ないが、偏屈者と一緒くたにされるのも抵抗がある。
俺はテーブルの上で両手を組み合わせ、少し身を乗り出した。
「ヴォルフ。監督者は俺でなくてもいいんじゃないか? たしかにアトランヴィルの〈異法者〉は数少ないが、俺より息の長いベテランなら、他にもいるだろう。グレンはどうだ? 彼の方が適任だと思うぞ。ダーシーは?」
どうにかヴォルフを思いとどまらせようと、実力があって名も知られた同業者を幾人か挙げていった。が、ヴォルフはその誰にも首を縦に振らなかった。
ヴォルフが頑なに俺の意見を聞き入れないのは、結論を変えるつもりがさらさらないからだ。ヴォルフは俺以外の候補者を、頭に思い描いていないのだ。
こうなると、俺がどうこう言ったところで、ヴォルフの考えが覆されることはないだろう。
「なにもボランティアでやれって言ってんじゃねえ。コーチング代ははずんでやるぞ」
太い眉の片側だけを吊り上げるヴォルフ。俺はそんな彼を見て、少し大げさにため息をついた。
「俺は他人にものを教えられるようなタイプの人間じゃない。むしろ、どう指導してやればいいのか、こっちが聞きたいくらいだ。誰かに師事して〈異法者〉になったわけじゃないんだから」
ヴォルフは面白がるような表情で、俺の言い訳を聞いている。いや、聞き流している。
俺は最後の足掻きのつもりで、拒否の意思を無言で表した。しかし、ヴォルフはまったく動じない。
これ以上は無駄な抵抗か。
やれやれ、まったく。今度は心の底からのため息を吐いた。
「あんたから返ってくる言葉はもう分かってるが、俺の自尊心のために一度は言わせてくれ。『断る』」
「駄目だ、やれ」
「………………分かった」
承諾の言葉を口に出した俺は、テーブルに突っ伏して頭を掻き毟った。
この俺が、後進の指導にあたるだと?
表の世界にいた頃にだって、まるで出来ていなかったのに。
急激にヤニが恋しくなった俺の片手は、無意識にジャケットの内側に差し入れられた。
「拳骨喰らいたくなきゃ、その手を出しなバージル」
すかさず放たれたヴォルフの一言で、俺は我に返る。店内は禁煙だった。
煙の補給も出来ず、憂鬱で顔をしかめる俺に、ヴォルフは口調をちょっとだけ和らげ、なだめるように言った。
「なあバージル。俺は、お前さんが他人の頼みを断りきれねェお人好しだからって理由で、今回の話を持ち出したわけじゃねえぞ」
「少しは打算もあったんだろう?」
「まあな。だが、適任者はお前さんしかいねェと判断したからこそだ。グレンもダーシーも有能なワーカーだが、あいつを任せるにゃあ不安がある」
ヴォルフは首を少し傾け、カウンターの様子を探った。
「あいつは危なっかしい奴なんだ。ちゃんと見ててやらねェと、一人でどんどん行っちまう。命を落とす方向にな。俺はあいつを、つまらねェ理由で早死にさせるわけにはいかねェんだよ」
俺は奇妙な心持ちで、ヴォルフを見つめた。
ヴォルフは不器用だが、人情に厚く面倒見がいいので、裏でも表でも、多くの信頼を寄せている。彼は公平な人物であり、特定の誰かに必要以上に肩入れすることはほとんどない。
そんなヴォルフ・グラジオスだが、カウンターで一人所在無げに座る若い新人は、かなり気にかけている様子である。ただの顔見知り程度の思い入れではなさそうだ。
「何かあったのか?」
声を潜めて訊いてみる。答えてくれる可能性は低いと見ていたが、ヴォルフはゆっくりと口を開いた。
「あいつは以前、ラッズマイヤーの部下だった。奴に大切な人を奪われたんだ」
その男の名を聞いて、俺は目を細めた。
ヴェン・ラッズマイヤー。アトランヴィルの裏社会において、奴の存在を知らない者はいない。帝王ジェラルド・ブラッドリーから、支配地域の一部を任される〈管理者〉という地位にあった、権力者の一人だ。
俺はラッズマイヤーに直接会ったことはないが、轟く悪名はしばしば耳にしていた。
彼は〈管理者〉としては決して無能ではないが、そのやり方は非常に残忍で凶悪だったという。自分の“所有物”に対して、異常なまでの執着心を持ち、これを奪う者には容赦のない制裁を与えたそうだ。
帝王の指示さえ、時には無視するほど、自己中心的で野心に満ちた男だ。そのために危険分子と見なされ、ブラッドリーの粛清を受けるはずだった。だが、粛清が執行される前に、ラッズマイヤーはアトランヴィルから姿を消した。それが二年前のことだと聞いている。
大切な人を奪われた、か。
それがどういうことなのか、想像に難くない。おそらく新人は、家族か恋人を、ラッズマイヤーに殺されたのだろう。
「俺はおおまかな事情しか知らねェ。あいつは、なかなか他人に自分のことを話さねェ奴だからな。ラッズとの間に何があったのか、そういう部分は俺にも分からねェ」
と、ヴォルフ。
「もともと愛想のない奴だったが、ラッズに地獄の底に叩き落されてから、ますます自分の殻に篭もるようになッちまった。ラッズがアトランヴィルから消えた後、あいつは俺の店にふらっとやってきてな、〈セミナーハウス〉に行きてェと言ったんだ。俺は理由を訊かず、その望みを叶えてやった。戻ってくるなり、〈異法者〉になりてェと言い出した。俺は、その理由も訊かねェことにした」
理由は訊かなくても分かるから、だろう。
俺は、カウンターでおとなしく待っている新人を一瞥した。整いすぎているくらい整った横顔には、年齢に不釣合いな翳りと疲れが透けて見えた。穏やかとも言える表情ではあるが、内面には計り知れない憎悪を溜め込んでいるに違いない。俺の勝手な想像だが。
大切な人を奪われて、平然としていられる人間はそうそういない。たとえ、憎しみは何も生み出さない、と分かってはいても。
憎悪、というのは強烈な感情だ。そうした強い感情を支えにでもしなければ、生きていくこともままならない。そんなことだってあるだろう。
俺には、新人の気持ちを理解することは出来ないが、察してやることくらいは出来る。
憎い相手は行方が知れず、怒りの矛先は失われた。腹の底でマグマのように煮え滾る憎悪を、いったいどこに向ければいい。〈セミナーハウス〉で己を苛め抜き、訓練に没頭することで、一時忘れることは出来たかもしれない。だが、訓練が終わってからはどうだ。一人になれば、また押し寄せてくる怒りと悲しみに埋没する。
ぶつけどころが必要だ。
そのぶつけどころに、怪物退治を選んだ。
あくまでも俺の想像だ。だが、ありえないとも限らない。
とは思うものの、あの新人が何を思って〈異法者〉の道を選んだのか、そこのところは結局、俺には何の関係もないことだ。
余計な詮索は無用である。
「まあ実際、あいつのような目に遭ってきた奴なら、他にいくらでもいるがな」
ヴォルフは、重そうな身体を傾けて、カウンターを振り返る。そして、それ以上は語らなかった。
思うところはまだあるのだろう。だが、ヴォルフの真意のすべてを、俺が知る必要はない。
「話してみるよ」
俺が言うと、ヴォルフは軽く頷き、席を立った。彼は新人に話しかけてから、もう一度俺を振り返り、再度頷く。
新人がこちらに向かってくる。俺をじっと見ながら歩き、ヴォルフに代わって向かいの席に腰掛けた。
真正面に迎えた新人の顔立ちは、二枚目と称賛される映画俳優も霞むほど整っていた。だが、印象は最初と変わらない。誰も近づかせない、氷の剣をその身に纏ったかのような空気を発している。
「やあ」
右手を差し出した。声がかすれていることには、気づかれていないだろうか。
「バージル・キルチャーズだ」
握手を求める俺の手を、新人は胡散臭そうな目つきで静かに睨む。
「馴れ合いは嫌いだとしても、挨拶だけはしておいてくれ」
そう言うと、新人は肩をすくめ、俺の手を軽く触れる程度に握り返した。
「レジーニ」
名乗った新人――レジーニは、品定めするように、黙って俺を見つめている。
見られる側の俺は、少々居心地の悪さを感じながらも、レジーニに話しかけた。気が進まなかったとはいえ、一度引き受けた仕事だ。やるべきことはやらなければならない。まず、互いの関係を円滑なものにするために、対話が必要である。
まったくもって、この俺には不向きな仕事だ。
「先週〈セミナーハウス〉から帰ったそうだな。トップクラスの成績だったと聞いたが、どんなだった?」
レジーニはぶっきらぼうに鼻で笑う。
「別に。どうってことはなかった。課題を与えられて、こなす。それの繰り返し。難しいことじゃないだろ」
ふむ。たしかに協調性には乏しいようだ。まあ、大した問題ではない。俺も他人のことは言えた義理じゃないからな。
レジーニはさも苦労がなかったかのように答えたが、〈セミナーハウス〉の訓練カリキュラムは、どんなに甘く見積もっても“どうってことはない”などと言えるレベルのものではない。訓練の辛さを微塵も態度に出さないのは、他人に対して心を開くつもり毛頭ない、という現われなのだろう。
俺はレジーニをよく観察してみた。〈セミナーハウス〉帰りというわりに、肉体はあまりに細すぎた。付くべき箇所にはしっかり筋肉が付いているものの、俺よりもずっと線が細い。俺でさえ他の裏稼業者からしてみれば、“細い”部類に入るらしいというのに。
「そうか。それじゃあレジーニ。君は、その、何が得意だ? 何が出来る?」
アルバイトの面接官にでもなった気分だ。
レジーニは、またしても鼻で笑った。
「弱者に手を出す以外なら何でも」
なるほど。
俺は次の質問をひねり出すために、一旦口を閉ざした。俺が喋らないと、二人の間に気まずい沈黙が流れるだけになる。何か聞け。そうだな、〈異法者〉の志望動機でも聞いてみるか。ますます面接っぽくなってきた。
俺が質問しようとするより先に、レジーニの口が開いた。
「あんたは?」
「ん?」
「あんたは何が得意なんだ? 何が出来る?」
レジーニは俺の目を覗き見る。
俺に出来ることは、一つだけだ。
「化け物を殺せる」