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 笛の音のような細く甲高い音が、俺を夢の世界から引き戻す。夢の内容は、目が覚めた瞬間に忘れた。

 起き上がるのは億劫だ。俺はブランケットから片手だけを出して、ベッドのサイドボードまで伸ばした。

 掴んだ携帯端末エレフォンの画面を覗く。バックライトの眩しさに、一瞬目を細めた。

 画面に表示されている着信者名は、毎度おなじみの相手だ。ついでに時刻も確認すると、AM9:00と出ている。早朝の仕事を終えて帰宅し、ベッドに入ってから二時間しか経っていない。現代いまでは珍しい旧式のブラインドの隙間から、暖かそうな外光が射し込んでいた。

 着信音は鳴り続けている。仕方なく通話ボタンをタップした。

「熊からのモーニングコールは頼んでないんだが」

『そう言いながら電話に出るあたり、お前は本当に律儀な奴だよ』

 スピーカーから聴こえてくる野太い声は、かすかに笑っているようだった。

 俺はわざとらしくため息をつく。

「ヴォルフ。朝が苦手な俺が、今朝何をやっていたか知ってるだろう」

『ああ、ご苦労だったな。いや、ホッパー如きじゃ苦労はしねェか。報酬は振り込んであるぞ』

「俺はもう、午前七時より早い仕事はやらない」

『そう言うな。今回は他に人手がなかったんだ』

「何の用だよ」

 報酬の話も大事だが、今はともかく、眠りを妨げられた理由を知る必要がある。

『バージル、お前に頼みたいことがある。仕事っちゃあ仕事だが、まあ、ちょっと話を聞きに来てくれ。午後からでいいぞ。昼飯ならおごる』 

「海老のビスクはあるのか?」

『来るまでには作っておいてやるよ』

 通話相手――ヴォルフ・グラジオスは、そう言って電話を切った。

 部屋に静寂が訪れる。俺は携帯端末をサイドボードに放り、再び眠りに就くため、うつぶせになって枕に頭をうずめた。

 すぐには眠れなかった。一度目覚めて声まで発し、睡魔が遠ざかっていた上に、じとついた視線を感じたからだ。

 俺は枕に顔を沈めたまま、薄く目を開けて、ブラインドの下りた窓を睨んだ。

 窓そのものに斜光幕ブラインドスクリーンを張れるカスタムウィンドゥが主流になっている時代に、このアパートの管理人はリフォームをしないまま、未だにこの旧式を住人に使わせている。

 ブラインドの隙間から射し込む外光を、何かの影が遮っている。黒っぽい塊が、窓の外でじっとしているのが透けて見えた。

 俺は十階建て安アパートの八階に住んでいる。八階の部屋の窓の外にたたず)むことが出来る者など、そうはいない。窓の向こうに何がいるのか、察しはついていた。

 なるべく相手にしない方がいい。奴が去って行ってくれることを願って、俺はしばし静観した。

 だが、一向に去る気配はない。気が長いのか執念深いのか、奴は何が何でも俺をベッドから引きずり出したいらしい。

 結局今日も、根競こんくらべで負けたのは俺の方だった。仕方なく起き上がって、のろのろとキッチンに向かい、冷蔵庫から夕食の残り物であるローストチキンを三切れ取り出すと、窓に近づいた。

 ブラインドを上げた途端、眩しい光が室内になだれ込む。その光の中、外側の桟のふちに器用に腰掛け、が俺を見ている。

 しぶしぶ窓を開ければ、奴は暢気のんき濁声だみごえで、ぶにゃあ、と鳴いた。

「なあアングリー、うちにはもう来るなって言っただろう。食わせてくれる人間なら大勢いると、お前は分かってるはずだ。頼むから、いつも俺が寝ている時にねだりにくるのはやめろ」

 さもうんざりだ、というようにそう訴えてみたが、アングリーは意に介さず、「貴様の戯言ざれごとなどどうでもいい。興味があるのはそのローストチキンだけだ」という無言の圧力をかけてくる。

 ローストチキンを桟に置いてやると、アングリーはゆっくりと食べ始めた。

 灰色縞模様の猫は、この界隈を縄張りにしている野良だ。丸顔の中心に豚に似た鼻がくっつき、金色の目は下弦の月のような形をしている。横柄な態度に非常に似つかわしい不細工な猫だ。その、怒っているような目つきの悪さから「アングリー」という通り名が付いた。

 アングリーはほぼ毎日、同じルートをたどりながら、行く先々の人間に餌をもらっている。こんな愛想のない不細工だというのに、ご近所では人気があるのか、餌係の人間はたくさんいるらしい。その証拠に、野良のくせに毛並みがいい。

 俺もまた、アングリーの餌係の一人として認識されてしまっている。アングリーを最初に見かけた時、つい同情してサーモンフレークを与えてしまったのがいけなかった。

 食事中は機嫌がいいアングリーは、この時だけは人間が触れるのを許している。肥えて艶のいい毛並みを撫でると、柔らかな毛が指をくすぐって気持ちいい。

 首の裏を撫でようとしたちょうどその時、アングリーの食事が終わった。つまり、ご機嫌タイムの終了だ。アングリーは弾かれたように俺を睨み上げ、通り名にふさわしい怒りの形相で、拒絶をあらわにした。

「分かった、悪かった。もう触らない」

 両手を挙げて「降参」の意を示すと、アングリーは鼻を鳴らし、雨樋あまどいを伝ってどこかへ行ってしまった。次の餌係のもとを訪ねるのだろう。

 気まぐれな野良猫の尻尾が、アパートの外壁の向こうへ消えるまで見送った俺は、窓から見える街の景色へ視線を移した。

 この大都会まちは、大陸東エリアに属する三十四都市の代表首都、アトランヴィル・シティ。人口は約千五百万人。中央区を含む十五の区に分割されていて、俺が住んでいるのは第九区のロックウッドだ。

 住処すみかの安アパートは、繁華街からそう離れていない小通りの一角にある。窓から見えるのは、ひしめきあって並び建つ無機質なビルと、その足元に敷かれた道路を走る電動車、行き交う人々のせわしなく歩く姿。それから、空。

 この辺りの治安は悪くない。条例によってキャッチセールスは徹底的に取り締まられているし、自治体の保安班が、警察と連携をとって毎晩見回りしているためか、揉め事や未成年の夜遊びは年々減少傾向にあった。

 だが、ひとつ街の裏手・・に回れば、表の光の当たらない暗闇の世界が広がっている。そここそが、大都会の真の姿だ。

 アトランヴィルを含む東エリア裏社会は、〈帝王〉の異名を持つジェラルド・ブラッドリーの絶対的支配のもとに、その勢力を拡大し続けてきた。この街の、いや、他のどの大都市においても、真の王者は表側にはいないものだ。表の治安がいいということは、裏の治安もいい、ということに他ならない。ただし、どちら側にも多少の例外はある。


 今日はよく晴れている。マーブル模様に滲んだ雲のたゆたう空は、まるで巨大なターコイズだ。空気も乾いていた。しかし、この時期はにわか雨に注意しなければならない。科学文明がいくら目覚しく発展しようとも、天候を自由に操作出来るまでには至っていない。いつか人類の力は、大自然の領域にまで進出するのだろうか。

 俺は深呼吸してから身体の向きを変え、部屋の中を見渡した。明るくて開放的な街の景色から一転、狭くて薄暗い空間がひっそりとしたたたずまいを見せる。

 キッチンとバスルーム、リビング兼寝室という必要最小限度の部屋の中は、無骨という形容詞がよく似合う。病院に置いてありそうな装飾のない簡素なベッド、間接照明、備え付けのクローゼット、中古のコンポ、あまり見ることがないテレビ。シルバーの収納ラックには、細々したものが整然と置かれている。

 シンプルというよりそっけない内装だ。もっとも、そうしたのは俺自身なのだが。インテリアと呼べるものは無いに等しい。どこの部屋でも見かけそうな、動物の置物なども、俺の部屋にはない。余計なものは極力持たないことにしている。

 昔の生活とは大違いだ。今のライフスタイルへ移行するにあたり、不必要なものはすべて処分した。あの頃の趣味趣向はもう捨てたのだ。

 俺は再びベッドに横になった。天井を仰ぎ、額に片手を置く。

 ヴォルフの所へ行くには、まだ時間がある。それまでにもう一眠りしたい。

 目を閉じて、意識が眠りの底へ沈むように、深い呼吸を繰り返した。

 ……、駄目だ。すっかり目が冴えて、もう眠れそうにない。

 俺はあきらめてベッドから離れた。

 シャワーを浴びるとしよう。それから何か少し腹に入れて。

 掃除でもするか。


        *


 サウンドベルは第九区西南の町で、ロックウッドの対極に位置する。昔ながらの建物が、地域開発の波を寄せつけずに数多く残る場所で、映画やテレビドラマのロケ地になることも多い。 

 俺が目指しているのは、サウンドベルの大通りから一区画離れた場所で営業している飲食店〈パープルヘイズ〉である。

 開店は午前九時。午後三時までランチを提供し、五時からはダイニングバーとなってアルコールを出すようになる。

 こぢんまりとした店だが、料理の味には定評があり、訪れる客のほとんどは近所の顔なじみだった。

 評判を耳にして、店を訪ねる新規客は多い。が、注意しなければならない。古式ゆかしいドアチャイムの鳴るその扉をくぐった先で待ち構えているのは、狭いカウンターに陣取った熊のような大男なのだ。

 腕組みした熊ごときには怯まないという豪胆さを備えた者だけが、その店の常連客となる資格を得られる。

 ドアチャイムを鳴らして扉を開けると、問題の熊店主がいつも通りの定位置にいて、睨みつけながら俺を出迎えた。あんないかつい表情では、新規の客がなかなかつかないのも無理のない話だ。

 店内には五・六人の客がいた。時刻は午後一時、まだランチ客で込み合っていてもおかしくない時間帯だが、今日はいつもより人が少ない。

〈パープルヘイズ〉の熊店主――ヴォルフ・グラジオスは、俺を見るなり口の端を持ち上げて、ニヒルな笑みを浮かべた。

「おう、来たか」

 ヴォルフはチラリとデジタルクロックを見やる。

「また早く来たもんだな。もっと遅い時間にダラダラやってくるかと思ったが。お前さんの性分だと、まあおかしなことでもないか」

「あんたに起こされたから、二度寝も出来なかっただけさ。スカイリニアの始発より早い時間に仕事して、ゆっくり昼まで惰眠を貪ろうとしてたって言うのに」

「ホッパーは明け方にしか行動しねェんだから、倒すにゃじいさんより早起きしなきゃならねェだろ」

 その通りだ。

 メメントの生態は、生物を捕食する凶暴性という共通点を除けば、その種によって実に様々だ。夜行性・昼行性はもとより、地下を徘徊するもの、水中に潜むもの、高い所でしか行動しないもの、などという変り種も多い。今朝始末してきたホッパーは、明け方にしか出てこないという偏屈者だ。ホッパー自体はひ弱なメメントなので、そう急いで対処する必要はない。が、たまに搬入業者や早朝ジョガーなどに見つかることがあるため、結局早めに退治しに行かなくてはならなくなる。朝の苦手な俺には迷惑な話だが、メメントが一般人の目に止まった場合の混乱を考えれば、仕方のないことだった。 

 

 ヴォルフに定位置があるように、俺にもこの店での定位置がある。奥から二番目のテーブル席だ。店内をよく見渡せる位置だが、怪しい来客を監視するためにこの場所を選んだわけではない。理由は単純、初めて〈パープルヘイズ〉を訪れた際に座った席がここだからだ。

 俺が定位置に着席してしばらくすると、甘くて濃厚な匂いが漂ってきて、俺の鼻をくすぐった。視界の端から極太の腕がフェードインしてきて、ランチのセットをテーブルに並べていく。

「ほれ。今日の出来は格別だぞ」

 目の前に置かれたスープボウルには、琥珀色の海老のビスクが満たされていた。甘い匂いの正体である。砕いたクラッカーとドライパセリが、スープをささやかに彩っている。ビスクの他には、卵とソーセージのロールサンドが二つと、レモンウォーターのグラスだ。

 ビスクをスプーンにひとすくい、口に含む。とろりとした舌触りの濃厚なスープが喉を通って胃に落ちると、全身の緊張がほぐれるような安堵を感じる。ヴォルフのビスクを飲むと、いつもそうだ。

「うまい」

 正直に感想を述べると、熊店主は太い眉を吊り上げた。

「だったら、うまいものを食ってるって顔をしろ」

「そんな顔に見えないか?」

「トイレットペーパー食ってるようなつらに見える」

「そうか、それは……すまない。うまいのは本当だ」

 気を悪くさせたかと、俺はヴォルフに弁解した。ヴォルフの料理の腕前は、疑う余地のないものだ。これまで一度も、まずいと思ったことはない。だが、俺の表情変化が乏しかったために、ヴォルフには誤解をさせていたかもしれない。

 そんな俺に、ヴォルフはにやりと笑ってみせる。

「お前の表情筋が人一倍固えってこたァ分かってるよ。からかっただけだ」

 表情筋が固い。そうなのかもしれないな、今となっては。

 もう長いこと、笑ったり怒ったり泣いたり、はっきりした感情をおもてに出していない。楽しくないわけでも、腹を立てないわけでも、悲しくならないわけでもない。ただ、それらの感情を外に向けて発散させず、内面で消化させているだけなのだ。

 最後に声を上げて喜怒哀楽をあらわにしたのは、いつのことだったろうか。

「それで、俺に頼みたいことって何だ?」

 ロールサンドをひとつ取って齧り、俺はヴォルフを見上げた。

「ああ、そのことなんだが。てっきりお前は遅く来るんだろうと思ったからよ、あいつにゃ三時に顔出すように言ってあるんだ」

「あいつ? 誰だ」

「“新入り”だ。先週〈セミナーハウス〉から戻ってきた」

 ということは、この街にまた一人、裏稼業者バックワーカーが増えるということか。


〈セミナーハウス〉というのは、ワーカー養成所の呼称だ。実力をつけ裏の世界で名を上げたい者や、ただひたすら己を鍛え抜きたい者が集まる所だが、仕事をしくじったワーカーが、罰として送られることも多い。

 施設はソレムニア海沖の孤島にある。〈政府サンクシオン〉軍部にも匹敵する設備とカリキュラムに根を上げた者が、脱走を試みることはしょっちゅうだ。   

 だが、島の周囲は切り立った岸壁で、出入り手段はヘリコプターのみ。ボートで脱出しようにも、船を海に下ろす手立てはない。運よくボートを着水させることが出来たとしても、ソレムニアの荒波が航海を阻み、潮の流れで島に押し戻される。

 島を出たければ、おとなしく訓練課程を修了し、堂々と卒業するしかないのだ。

 もし、生きて本土まで逃げ延びることが出来た奴がいたとしよう。そいつは果たして、脱走の咎めを受けることになるだろうか。答えはNOだ。何故なら、過酷な自然環境の中、海の藻屑とならずに本土へたどり着けるだけの根性があるのであれば、そいつには〈セミナーハウス〉での特訓など不要だからだ。

 ジェラルド・ブラッドリーの方針は、「そんな根性と生きる執念を持つ人物なら、いつか面白いことをやらかしてくれそうだ」というものらしく、脱走成功者への報復は成されないのである。

 俺もまた、〈セミナーハウス〉の訓練課程を修了した一人だ。始めのうちは訓練についていけず、毎晩のように吐いたものだった。

 いつから訓練が辛くなくなっていたのかは分からない。あまりにも毎日が厳しく、そして逃げられないという現実を突きつけられた結果、「辛い」という感覚が麻痺してしまったのかもしれない。そのおかげか、訓練の中盤から修了までは、かなり淡々とカリキュラムをこなしていたと思う。


「どんな新人なんだ?」

 と尋ねてみる。ヴォルフは膨れた頬を人差し指で掻いた。

「まあ、将来有望だ。滅多に見かけねえ逸材だろうよ。お前以来のな」

「俺はそんな大それた奴じゃない」

「お前は、お前が思っている以上に有能だぞ。あんなヒョロヒョロのヘタレが、ここまで大化けしたんだからな」

「そのヒョロヒョロのヘタレを化けさせたのは、どこの誰だと思ってるんだよ」

「正直な話、お前がまともに全カリキュラムを修了するとは、想像もしてなかったぜ」

 俺の睨みなどものともせず、かつて“鬼教官”と呼ばれ、訓練生全員に恐れられていた男は、鼻で笑った。


〈セミナーハウス〉にその人あり、と謳われた人物がいる。

 熊のような体躯と、その巨体にふさわしい能力をもって、訓練生を震え上がらせた男。ジェラルド・ブラッドリーの側近であり、現在の東エリア裏社会の勢力構成を築き上げた人物の一人でもある。

 だが彼は、〈セミナーハウス〉の鬼教官の地位を捨ててしまった。

 今は〈パープルヘイズ〉という飲食店で、教鞭と拳の代わりに、料理の腕を振るっている。

 彼は完全に裏社会から足を洗ったわけではなかった。表向きに飲食店を経営しつつ、裏稼業者バックワーカーに仕事を斡旋する〈窓口〉を務めているのだ。

 ヴォルフ・グラジオスがなぜ〈セミナーハウス〉を去ったのか。その理由を知る者はいない。

 俺はヴォルフに、その選択の理由を尋ねたことはない。彼は賢い。彼なりの考えがあっての行動であることは間違いないし、俺が知ったところで何かがどうなるものでもないからだ。

 俺の知るヴォルフ・グラジオスとは、元〈セミナーハウス〉の鬼教官であり、俺の指導者であり、〈パープルヘイズ〉の頑固な店主だ。

 それで充分だと思っている。


「さて、それじゃあ、今から呼ぶとするか」

 ヴォルフは腰に片手を当て、もう片方の手に携帯端末エレフォンを握った。

「お前が食い終わる頃には、ここに来るだろうよ」

 そういい残したヴォルフは、端末を耳にあてがい、厨房の奥へと姿を消した。 

〈セミナーハウス〉帰りの新人、か。

 一つ目のロールサンドをたいらげ、二つ目を手に取る。

 ヴォルフが俺に何を頼みたいのか、だいたい想像はついた。あまり歓迎できない内容だ。

 ヴォルフの頼みを無下には出来ないが、俺には向かない役目だろう。しかし、断れそうにはない気がする。

 食事を続けることで、憂鬱になりそうな気分を、なんとかたせた。

 十五分後、ランチを食べ終えたが、新人らしき人物は現れなかった。

 食器を下げ、ヴォルフにコーヒーを淹れてもらう。ライダースジャケットの内側をさぐって煙草のケースを出し、一本くわえた。灰皿を探したが、どこにも見当たらなかった。そこで、店内禁煙だったことを思い出し、そそくさと煙草を隠した。

 危ない危ない。くわえ煙草姿をヴォルフにみつかっていたら、問答無用で拳骨を頂戴するはめになっていただろう。

 煙草をしまい、何食わぬ顔で――そんな顔つきが出来ていればの話だが――店内を眺めていると、からん、とドアチャイムが鳴った。

 俺の目は、自然とドアに向けられる。

 入り口ドアの前に、若い黒髪の男が一人、すっくと立っていた。

 二十四か五くらいの歳だろう。細いラインのミリタリージャケットにヴィンテージジーンズ、レースアップブーツという出で立ちだ。

 恐ろしく顔立ちが整っている。すっと伸びた鼻筋や細い顎、切れ長の目は、女だって欲しがりそうなパーツだ。

 俺が若者に注目したのは、その美貌に目を奪われたからではない。醸し出す雰囲気が、ただごとではなかったからだ。

 殺気や敵意、というような、好戦的なものとは少し違う。しかしながら、不用意に近づくと、鋭い刃物で斬りつけられそうな、危うい空気を漂わせている。

 それは、静寂を纏いながらも、触れる者の肌を焼きただれさせ、凍てつかせる氷塊のようだった。

 男は俺の存在に気づくと、碧色の双眸を細めた。

 あちらも、俺が一般人の客ではないことを見抜いたらしい。

〈セミナーハウス〉帰りの美形の新人は、挑みかかるような冷たい碧の眼差しで、じっと俺を見るのだった。


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