Epilogue
スープボウルには、琥珀色の海老のビスクが満たされていた。砕いたクラッカーとドライパセリが彩りに添えられ、甘い匂いは食欲をそそる。
スプーンでひと掬いし、口に含む。濃厚でまろやかなスープが、喉を通って胃に収まる。
「美味いな」
満足して頷くと、傍らのヴォルフ・グラジオスは、熊のような巨体を揺らして笑った。
「なんだ、バージル。ちゃんと美味いものを食ってるって面が出来てるじゃねえか」
「本当に美味いからさ。当然だろう」
午後の〈パープルヘイズ〉を訪れた俺は、いつものように熊店主自慢の海老のビスクを堪能していた。これまで何度もごちそうになった、ヴォルフが作るものの中では一番のお気に入りだ。
彼のビスクを飲めるのも、今日でしばしのお別れになる。
「変わったな、お前」
ヴォルフは俺の向かい席に座り、しみじみとした口調で頷いた。
「そんなにいい女なのか? お前を変えるほどの」
「ああ。とびきりのいい女だよ」
ビスクを飲み終えた俺は、にやりと笑ってみせた。そんな俺を見て、ヴォルフは珍しく目を丸くした。以前の俺なら、そんな軽口は言わなかっただろうから、驚いたのだろう。
「それじゃ、これからはそのいい女が、俺に代わってお前にビスクを作ってやるわけだ。そら、レシピを持っていけ」
ヴォルフはテーブルの上に、プリントアウトしたレシピシートを置いた。そこには、このビスクの作り方が載っている。
「ありがとう。あんたのビスクが飲めるなら、どこへ行っても安心だ」
「なあに言ってやがる」
ふふん、と鼻を鳴らすヴォルフだが、まんざらでもなさそうだ。
「今日、発つんだろ?」
「ああ。ママとローには、もう挨拶してきた。あと、ゼウスにも」
変態名医の名を出した俺は、左腕に視線を落とした。ゼウスとドールのおかげで、腕はほぼ良くなっている。肘を曲げ伸ばしする時に、鈍い痛みや痺れが多少あるものの、日常生活や仕事には差し支えない程度だ。ほんの一ヶ月でここまで回復させるとは、変態だがさすがである。
「二人とも寂しがるな。特にストロベリーの奴は、お前に触れないとなると泣くだろうよ」
「もう泣かれたよ。それで散々触られた」
それはもう、盛大に触られた。いつでも帰ってきてねと、泣きながらまんべんなく。
俺は今日、アトランヴィル・シティを去る。
帝王ブラッドリーの治める裏社会ゾーンには、その統治領域規模に対して〈異法者〉の人数が少ない。だから、新たな人材を得られた時、各地域の戦力に偏りがないように、活動範囲の移動が命じられることがある。
先月、レジーニの試用期間が終了し、彼は〈異法者〉として独立を果たした。レジーニは充分〈異法者〉として務められるという俺の判断をもとに、今回の“人事異動”が決定した。
俺はこの街から北西の、レムル・シティに移ることになったのだ。
「レムル・シティと言やあ、最近、二人組の若手賞金稼ぎが名を馳せ始めているらしいぞ」
「へえ」
「サブマシンガンぶっ放す凶悪なチビと、のっぽの狙撃手のコンビらしい。メメントしか相手にしねえ〈異法者〉にゃ関係ねえとは思うが、まあ、気をつけるこった」
「覚えておくよ」
「しかしレムル・シティか。少し遠いな」
「でも、この先一生会えないってわけじゃない。いつか会いに戻ってくるさ」
「そうだな」
ヴォルフはまた頷き、太い人差し指で、髭に覆われた顎を掻いた。
ヴォルフ・グラジオスは、俺の生き方が変わるきっかけの一人だった。九年前、あの事件の後、寒さと恐怖に震える俺を、彼が見つけてくれなかったら。
俺は翼を得ることも出来ずに死んでいたかもしれない。
「ヴォルフ、あんたには本当に世話になった。ありがとう」
テーブルの上から右手を差し出すと、ヴォルフはくすぐったそうな表情で握り返してくれた。頑強で温かく、たのもしい手だ。
「よせや、そういう改まったのは、俺ァ性に合わねえ」
言ってヴォルフは、握手していた右手で、俺の左肩をどんと叩いた。完治したばかりだというのに、わざとだな。
「入籍はレムル・シティでするんだろう?」
「ああ。現住所も変わるからな」
俺の移住には、セリーンも一緒だ。九年間も待たせた挙句、これからはいつどこで危険に巻き込んでしまうか知れない俺に、セリーンはついていくと言ってくれた。生き甲斐であるカフェの仕事を辞めてまで。
だから俺は、一生かけて、全身全霊で彼女を守ると誓った。もう二度と手離したりしない。
「子どもが生まれたら見せに来いよ」
「わかった」
俺の子どもはきっと、ヴォルフにとっては孫のような存在になるだろう。その極太の腕に子どもを抱く姿を想像し、思わず吹き出だしそうになった。
「ヴォルフ、最後にひとつ聞いてほしい」
「何だ」
「レジーニを頼むよ。あいつにいい相棒を見つけてやってくれ」
俺の元から巣立って以降、レジーニとは会っていない。ヴォルフやストロベリー、ローの話では、もうベテラン顔負けの活動をしているのだそうだ。彼はこれから、アトランヴィルの〈異法者〉の看板を背負って立つ存在になるだろう。
だが、やはり一人にしておくのは心配だった。
「まかせておけ。俺がお前の代わりに目を光らせておく」
ヴォルフは深く頷き、請合ってくれた。
「しかしなあ、あんな性格の奴に、一体どういう相棒をつけてやりゃあいいものか。気に入らなけりゃ、蹴り倒して追い払うだろうしな」
腕を組んで眉を曲げるヴォルフ。彼の悩みの答えを、俺は知っている。
「簡単だ、ヴォルフ。あいつと根っこが同じ人間をつけてやればいい」
「根っこが、だと?」
「表面の性格は真逆でも構わない。根の部分に共通するものを持つ人間。そういう相手なら、レジーニは信じられる」
彼を側で見てきて、俺が自分で感じとった答えだ。理屈はないのだが、それが正解だと言いきる自信はある。
「わかった。お前がそういうなら、そうしよう」
「頼んだ」
「ああ。達者でな、バージルよ」
ヴォルフに別れを告げれば、もうやり残したことはない。
アパートで待っているセリーンを迎えに行って、この街を出よう。
電動車を停めた路上パーキングに戻り、料金を払って乗り込もうとした時。
ふと視線を感じた俺は、道路の反対側の歩道を見やった。
俺の直線上に、すらりと背の高い男が立っていた。スーツを着て、眼鏡をかけた若い男だ。
誰だろう。真っ直ぐに俺を見ているが、あんな知り合いはいただろうか。
訝しく思っていた俺だったが、やがて光が閃くように思い至った。
無造作に伸ばしていた黒髪をきちんと整え、ミリタリージャケットとデニムパンツからスーツに着替え、眼鏡までかけて、まるで雰囲気が違う。同じ人間とは思えない変身ぶりだ。
レジーニ。
それがお前の“鎧”なのか。
これまでとは違う人間になって、未だに苛む憎しみや悲しみから、自分自身を守るための“鎧”なんだろう。
スーツを着たレジーニは、しばし俺を見ていたが、そのうちふいと横を向き、颯爽と歩き出した。その姿は雑踏の中に消え、すぐに見えなくなった。
いつかまた会おう。
その時、お前の隣に、共に歩む仲間がいることを願う。
*
空はどこまでも続き、世界を覆う。
何を縛りつけることもなく、風の向くまま、雲は流れていく。
鷹よ。お前は今どこにいる。
どこの空を舞い、何を視ている。
その金色の眼に、今の俺はどう映るだろう。
俺はもう、お前を羨ましいとは思わない。
ただ、とても近しく感じている。
鷹よ。お前は今どこにいる。
俺は今、ここにいる。




