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 一度だけ鷹を見たことがある。テレビや写真ではなく、本物の鷹を。

 緑茂る森の中ではなかった。街の中で見たのだ。

 彼――彼女だったかもしれないが、鉄とコンクリートと電気で築き上げられた人間の街の空を、一羽きりで悠然と翔んでいた。その行く先を目で追っていけば、ビルの高い所に止まり、翼を休めた。

 もうしばらく見ていると、鷹は再び翼を広げ、都会の空に舞い上がった。行く先は向かいの公園。

 公園にはたくさんの木が植えられていて、鷹はそのうちの一本めがけて、光の如く空を貫き駆けた。

 勇壮な鷹は木に近づく。するとその木の緑の中から、たくさんの小さな物体が飛び出した。椋鳥だ。

 椋鳥の群れは、鷹に恐れを成し、喚くような鳴き声をあげて逃げ惑う。鷹はそんな椋鳥たちを悠々と追い回し、ついには一匹を見事に狩り獲った。

 一瞬の出来事だった。

 鉤爪に獲物を捕らえた鷹は、さきほどのビルの同じ位置に戻った。遠すぎて、その後の様子は肉眼で確認出来なかったが、きっと椋鳥えものを誇らしげについばんだことだろう。

 空の生態系の頂点にふさわしい能力を最大限に活かし、獲物を捕らえ、それを悠々と食す。

 手の届かない場所にいる鷹を、俺は感動と羨望の眼差しで見上げた。

 なんて勇猛で、気高く、美しい存在なのだろう。

 遥かな高みから下界を見下ろす金色の眼。ヒトの営みなど何一つ意に介さず、自在に天をける大きな翼。

 本来いるべき場所から離れ、異質な人間の世界に迷い込んだというのに、鷹は己の存在意義をひとつも見失っていない。住む場所が変わろうと、鷹は鷹としての生を、ありのままに全うしていた。自分が何故そこにいるのか、疑問を抱くよりもまず、生きることに集中していたのだ。

 初めて何かを“羨ましい”と感じた瞬間だった。

 

 

 俺は、何故“ここ”にいるのだろうか。何故生き方を変えたのだろう。

 平凡ではあるが、平和な日々を送っていた。同僚や上司にないがしろにされてはいたが、生命が危機に晒されるほど追い詰められていたわけではない。

 俺は何故、この道を選んだのだろう。

 化け物と戦うという過酷な裏の稼業に就き、死と隣り合わせになることを強いられる生き方を、俺は何故選んだのか。

 知ってしまった闇の存在に飲み込まれないため? そのきっかけを与えた男の無念を晴らすため? これまで俺を馬鹿にしてきた連中を見返すため? 

 そんなことのために、俺は全てを捨てたのか。愛する女性ひとと生きる幸福さえも手離して。

 何故、間違ってしまったのか。

 幾度となく自分に問いかけたことだ。そして、答えを見出せないまま、傷だけが増えていった。

 


 だが本当は分かっていたんだ。答えを出せなかったのではなく、すでに辿り着いていただけで、気づかないふりをしていたんだ。

 これは俺が、真実望んだ結果なのだ。

 平和で平凡で、ぬるま湯のような安寧から抜け出したかった。存在を認められず隅に追いやられ、それに甘んじている自分自身の殻を打ち破りたかった。

 俺は、自由になりたかったんだ。だから〈スティングリング〉を手に入れた。

 これは俺の翼だ。これを振るう時、俺は自由になれる。身も心も解放され、持てる力を意のままに発揮し、普通の人間では歯が立たない化け物を相手に、真っ向から戦いを挑む。そして、狩る。

 これこそが、俺の存在意義だ。

 あいつは俺のことを見抜いていた。俺は、奥底に眠る烈情を“無感情”という鎧で覆い隠し、世間との折り合いをつけていたのだ。それはいつしか、俺自身をも騙す催眠になっていった。

 今なら堂々と認められる。これが俺の本性であり、真の姿なのだと。

 俺は俺でいられる場所に還っただけだ。本来いるべき場所に。


        *


 頬や額を優しく撫でるひやりとした感触に、俺の意識は浮上した。それは、目を閉じまどろむ俺の五感に、彼女の素肌と匂いを思い起こさせた。

「セリーン……」

 名を呟いたつもりだが、声が出たかどうかは分からない。全身がだるく、指を一本動かすことさえ困難なほど、力が抜けている。目を開けるもの億劫だ。

 俺は今、どういう状況にあるのだろう。どこかに寝かされ、さっきまで眠っていたことは確かだと思うが。

 左腕がひどく痺れていて、感覚がない。

「セリーン」

 もう一度名を呼んだ。彼女が側にいるのなら、一目でいいから姿を見たい。

 張りついた瞼を懸命に引き剥がし、ゆっくりと目を開ける。

 

 

 霧に包まれたような視界が、徐々に晴れていく。それにつれて、目の前にあるものがはっきり見えるようになっていった。

 俺を覗き込む、美しい女の顔がそこにあった。

 セリーン、ではない。

 まだあどけなさの残る、少女のような顔立ちだ。肌は白く、頬は桃色。艶めかしくふっくらした唇は、男の関心を惹きつけてやまないだろう。特徴的なのは髪と瞳だ。長い髪はピンク色のツインテールで、大きな瞳もピンクに近い薄紅色なのである。それらをすべて合わせて、少女はこの世のものとは思えないほどの美貌を放っていた。

 類稀なる美しい少女は、なぜかコスプレめいたメイド衣装を着ていた。襟ぐりが大きく開いたデザインで、かがめば豊満な胸の谷間が見えてしまう。スカートの丈も、太腿があらわになるほど短い。

「ドール?」

 名前――おそらく呼び名であって本名ではないだろう――を口にすると、メイド服の少女はにっこりと笑った。

 ドールがいる。ということは、ここは〈診療所〉か。

「ドール、俺は……どうして」

 どうしてここにいるのか。何があって今まで眠っていたのか。それを尋ねたかったのだが、言葉はやはりうまくでてこなかった。喉を震わせて、声を出すのもきついのである。

 ドールは微笑みを浮かべたまま、脇から一体の人形を引き寄せ、大事そうに抱えた。アンティーク風の可愛らしい人形で、ドールと同じ薄紅の目をしている。

『お目覚めだね、ムッシュ・バージル』

 人形が男の声を発した。中にスピーカーが内蔵されているのだ。語尾をねちっこく伸ばす癖のある喋り方で、一度聞いたら忘れられない。

『気分はどうかな? 麻酔のせいでもうしばらくだるいと思うが、なあに、心配はいらない。左腕は元通りになった・・・・・・・

 聞き捨てならない一言なのだが。俺の左腕が、なんだって?

『ああ、取れかけていたのだよ。我が診療所に運び込まれた時は、こう、ぷらんぷらんとね、揺れていた』

 セリフに合わせて、ドールが人形の左腕をぷらぷらと振る。

『だが安心したまえムッシュ。さきほども申し上げたように、手術は成功、腕は元通りだ。忠実なるこのドールが、指示通りにちゃんとしたのだからね』

 愛くるしい人形から、低くねちっこい男の声がするのは、なんとも奇妙なものだ。だが、この声の主が、稀代の名医であることに間違いはない。ただし、いわゆる“闇医者”なのだが。

 ドクター・ゼウス。全能の神と同じ呼び名を持つ裏社会の医者だ。彼は裏稼業者バックワーカーたちにとっての重要な命綱であり、裏社会こちらでの地位は高い。

 が、本人に会ったことのある者は一人としていない。彼は人形を通してでしか他人と接しないのだ。一説によると、世界最高峰の医療機関の主席として君臨していたというのだが、真偽は定かではなかった。

 決して表には出てこない彼の代わりを務めるのが、この美少女ドールだ。彼女はゼウスから受ける指示を、一切喋ることなく忠実に実行する。診察も手術も、人形に内蔵されたカメラとスピーカーを通し、ゼウスの命じるままに動く。かなり危ういやり方だが、ドールの手さばきは見事なもので、まるでロボットのように緻密で正確だった。この奇妙な連携による施術が失敗した、という話は聞いたことがない。

『ああ、それにしても』

 ドールの操る人形の手が、俺の胸から腹を撫でる。

『君の肉体は相変わらず芸術的だね。動けないところを申し訳ないが、医者の特権としてじっくりと拝見させてもらったよ。久しぶりにね』

 この稀代の名医は、重度の変態でもある。相手の性別に関係なく気に入れば、こんなふうに平気で特権濫用するのだ。助手のドールに際どいコスプレをさせている時点で、神経を疑わざるを得ない。俺にドールを抱かせて、それを見物したいと言い出したこともある。当然拒否したのだが、本当にとんでもない人物だ。

 こんな変質者だが、何度も世話になっているので、あまり強く出られないのが現状であった。

『君を連れてきたあの彼も、いつか堪能したいものだね。他者を寄せつけない極地の氷のような眼差し。あの目が、気を許した相手に対してのみ氷解するのだと思うと、ああ、たまらない』

 レジーニのことか。あいつが俺を診療所まで運んでくれたらしい。

『そして、君の美しき恋人も。君たちが愛し合う姿をぜひ見てみたい。なんなら氷の彼も混ぜてくれてかまわないのだよ。それからドールも……』

「いい加減にしろド変態野郎が! それ以上ふざけことぬかすと引きちぎるぞ!」 

 壁か何かを蹴る音とともに、レジーニの怒声が聞こえた。目だけを動かして声のした方を見やると、歯を剥き出して威嚇する彼の姿があった。

「手当てが終わったんならとっとと出ていけ!」

『ああいいとも、出て行こう』

 怒鳴られようが、ゼウスにもドールにも効果はない。むしろレジーニが怒っていることを楽しんでいるに違いないのだ。ドクター・ゼウスとは、そういう人物である。

『ではムッシュ・バージル、よく休むことだ。一時間後の薬の時間にまた会おう。さ、ドール。ご挨拶して』

 ドールは花が咲いたように笑うと、極めて短いフリルスカートの裾を持ち、膝を折って挨拶した。裾を持ち上げる位置が高かったのは、わざと中を見せるためだ。やれやれ、まったく。どうしてあんな布地面積の狭い下着を……。

 変態名医とその助手が去り、部屋は途端に静かになった。

「なんだよ、あの変態人形野郎は。噂には聞いてたけど、変態にもほどがあるだろ」

 さすがのレジーニも、ゼウスとその助手には度肝を抜かれたようだ。

 レジーニの目の周りは赤くなっていた。ラーゲの体液を受けて負傷した目を、治療した痕だろう。

「レジーニ、目は?」

 少し声が出るようになった。まだ掠れ声だが。

「なんともない。視力には影響がなかった。目の周りが赤いのは体液のせいだ。数日のうちに消えるってさ」

「俺は、どうなった? 何があったんだ……」

 俺たちは化け蠍ラーゲと戦っていたはずだ。レジーニが瓦礫に埋もれ、俺は単身で奴に向かっていった。

 それからどうなったのだろう。記憶が抜け落ちていて思い出せない。こうしてゼウスの診療所にいるということは、少なくとも死んではいないのだ。腕が取れかけていたそうだが。

「覚えてないのか?」

「ああ……」

「ラーゲはあんたが仕留めたよ。どんな戦いぶりだったか教えてやりたいけど」

 レジーニは肩をすくめる。

「やめとく。腕が取れかけるようなことをしてたって言っとけば充分だろ」

 それほどの無茶をした、ということか。我ながらめちゃくちゃだ。

「あんたを怒らせるのは得策じゃないって、よーく分かった。あんたイカレてるって」

 辛辣な言葉とは裏腹に、レジーニの表情は柔らかかった。

 ラーゲとの死闘のあと、レジーニはなんとか瓦礫の下から這い出し、死に体の俺を担いで、ゼウスの診療所まで運んだのだそうだ。レジーニはゼウスと面識はなかったものの、その名と腕前の噂は聞き知っていたそうで、俺を治療できるのは彼しかいないと判断したという。

 レジーニがいなければ、俺は生き延びられなかっただろう。

張りついた喉から声を絞り出し、礼を言うと、レジーニはそっぽを向いて頭を掻くのだった。

「あんたのクロセストがボロボロだ。武器職人アーメイカーに修理に出しといてやるよ」

「すまない」

「ここにいてもやることないし、俺はもう帰るぜ。ヴォルフにも連絡しておく」

「頼む」

 レジーニは軽く頷き、そっと部屋を出て行った。彼の背中がドアの向こうへと消えたあと、俺は目を閉じた。

 それから少し眠ったらしい。

 次に目を開けた時、また目の前に人の顔があった。ドールかと思ったが、違った。

 亜麻色の髪を垂らし、オリエントブルーの瞳で俺を見つめている。その表情は、怒っているのか悲しんでいるのか、どちらでもあるように思えた。

「ついてきてしまったのか」

 呟く俺に、セリーンは眉を歪めた。

「当たり前よ。あんなひどい怪我をしたのに、見なかったことにしろとでもいうの」

 ああ、怒っているな。セリーンを怒らせるのは得策じゃない。

「傷だらけで、血もいっぱい流して、腕までぐちゃぐちゃになって……馬鹿みたい」

 そんなにひどかったのか。

「あたしに黙って出て行くから、罰が当たったのよ」

 そうかもしれない。

「逃げろと行ったじゃないか」

「逃げたわよ、外までね。そこであなたが来るのを待ってたら、あの男たちが走ってきた。てっきりあなたともう一人の彼がやっつけたのかと思ったのに」

 セリーンは口をつぐんだ。チンピラたちが逃げ出した原因が、俺やレジーニではなく、見たこともないような化け物だったからだろう。

「あんな怪物が、この世にいるのね」

「そうだ」

「あれは一体何なの? まだ他にも?」

 枕に頭を埋めたまま俺が頷くと、セリーンはやや視線を外した。

「これで分かっただろう。俺が何をしているのか」

「ええ、よく分かったわ。害獣駆除ね、たしかに」

 頷くセリーンだが、口調は軽く、俺の言葉を重く受け止めていない様子だった。

「怪物だけじゃない。今回のように、いつまた誰かに襲われるか分からない。たとえ逆恨みであったとしても、危険は付きまとうんだ」

「そうね。きっとそうだと思う」

「俺は君を巻き込むことだけはしたくない。君だけは」

「もう巻き込まれたわ。次に何かあったって、そんなに驚かない」

「俺たちは一緒にはいられない。分かってくれ」

 セリーンが首を横に振ると、亜麻色の髪がふわりと揺れた。 

「分かりたくもないわ。一緒にいられないなんて、そんなの嘘」

 セリーンはぐっと身を乗り出し、俺の顔を覗き込む。

「怪物がいるからって何? またどこかの不良たちが、あたしを攫うかもしれない? なら、自分の身は自分で守れるように強くなるわよ」

 セリーンは細くしなやかな指で、俺の前髪を掻き上げた。

「あたしを突き放そうとしても無駄。あなたがあたしを愛してないと言わない以上はね」

 君を愛さなかった日はない。これまで一度も。そしてこれからも、そんな日が訪れることはないだろう。

「認めなさいよ、バージル・キルチャーズ。あたしがいないと何も出来ないくせに」

 セリーンは勝ち誇った微笑みを浮かべた。その笑顔に、俺の口元は自然と緩む。 

 なんだ。俺は笑えるじゃないか。

「そっちこそ。俺がいないと駄目なんだろう?」

「そうよ。出会った時から、あたしたちはそうなの」

 辛うじて動かせる右腕で、彼女を抱き寄せる。セリーンは俺の胸に身を預け、唇を重ねた。

 あちこちの手術後が痛んだが、そんなものはどうでもいいくらい、心が満ち足りていくのを、俺は感じていた。


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