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 空が白み始め、世界が少しずつ明るくなっていく。それにつれて気温が上昇していくと、夜明け前まで降っていた雨の影響で霧が発生した。いまや街は、灰色煙の海に飲まれている。

 霧けぶる街を、しばし窓から見下ろしていた俺は、部屋の方に向き直った。

 視線の先のソファに、毛布にくるまるセリーンの姿がある。毛布の端から覗く白い肩がかすかに上下していて、彼女が安らかな寝息をたてていることを示していた。

 俺は足音を立てないようにそっと近づき、ソファの側に膝をついた。こちら側を向いて横になっている、セリーンの寝顔がよく見える。

 彼女の顔にかかる髪をそっと払う。指先が頬に触れると、セリーンは子猫のような声を漏らして身じろぎした。動いた拍子に毛布がめくれ、滑らかな胸元があらわになる。その肌には黒子ほくろもシミもなく美しいが、楕円形の痣のようなものが、いくつかうっすら浮かんでいた。

 セリーンのぬくもりや柔らかさや匂いが思い起こされ、眠る彼女を抱き締めたい衝動にかられた。何とかその欲望をこらえ、毛布をかけ直すだけにとどめた。

 起こさない程度のタッチで、セリーンの髪を梳く。さらさらと絹の水のように指の間を流れるその感触を、飽くことなく確かめる。ずっとこうして触れていたいが、名残惜しくもそれは叶わない。

 俺はのろのろと腰を上げ、セリーンの側を離れた。

 部屋を出る間際、一度だけ振り返り、セリーンの寝姿を目に焼きつける。いまや彼女のすべてをまなこの裏に思い描けるが、本人をこの目に見ることが出来るのは今日が最後かもしれない。

 最後でなければならない。

 静かにドアを開け、俺はセリーンの部屋を出て行った。


 

 朝ぼらけの中、マンションの駐車スペースに停めた電動車に乗り込む。熱く濃密な夜を越え、身体が少しだるい。

 そもそも朝の弱い俺だ。こんな早朝に、仕事でもないのに起きていること自体滅多にないことだ。帰ったらひと眠りしなければ。

 目覚めた時、俺の姿が部屋のどこにもなければ、セリーンは怒るだろう。それとも泣くだろうか。電話をかけてくるかもしれない。

 電動車を発進させる前に、携帯端末エレフォンを取り出した。画面を確認すると、着信履歴が表示されていた。ヴォルフからだ。いつ電話がかかってきたのか、着信時刻を確かめる。

 ああ、この時間帯は、セリーンと……。

 折り返し電話をするには早すぎる時間帯だ。ひとまず自宅アパートに戻り、ヴォルフが店を開ける頃合いにかけるとしよう。

 着信はもう一件あった。珍しい相手だ、レジーニである。着信時刻は、ヴォルフの時から二時間ほど後になっている。

 二人からの連絡となると、ひょっとしたらメメント絡みの連絡だったのかもしれない。

 さすがに二人ともまだ寝ているはずだ。ともかく一旦帰って、時間を改めて掛け直すしかない。


        *


 自宅にたどり着いた頃には、太陽はすっかり顔を出し、まばゆい日の光が街を照らし出していた。

 俺は自宅に戻るや否や、上の服だけを脱ぎ、ベッドにうつ伏せに倒れた。

 横になった途端、睡魔が忍び寄ってくる。

 ぼんやりとした意識の中で、夢のように思い起こされるのは夕べの出来事。

 数時間前まで、隣にはセリーンがいた。たった一晩過ごしただけだというのに、一人寝がこんなに寂しく感じられるようになってしまうとは。

 未練がましいにもほどがある。彼女とはもう会わないと決めたのは自分だ。

 幻を打ち払い、目を閉じて睡魔に身を委ねた。

 

 

 意識が急速に浮上し、目を開けた。いつもの気配を感じる。無視しても仕方がないので、観念して起き上がった。

 冷蔵庫からロース生ハムを取り出してきて、窓のブラインドを開けると、やはりアングリーが待っていた。

 さっさとよこせと言わんばかりに、にゃあ、と鳴く。ハムを差し出せば、礼代わりに甘えることもせず、がつがつと食べ始めた。こいつは本当に可愛げがないな。

「なあ、お前、嫁さんや子どもはいないのか?」

 アングリーは食事に忙しいので、そんな質問に答える余裕はない。

「俺は野良猫相手に何を言ってるんだ」

 我ながら馬鹿馬鹿しいことをしたものだ。

 血迷った人間おれなどまったく構いもせず、生ハムを食べ尽したアングリーは、今日もさっさと次の餌場へと去って行った。

 愛想のない野良猫を見送りつつ、煙草に火を点けた時、背後で携帯端末エレフォンの呼び出し音が鳴った。画面にはヴォルフの名が表示されている。

『おう、やっと繋がったか』

 電話に出るなり、野太い声で一言放たれた。

「ヴォルフ、夕べはすまない。電話に出れなくて。仕事の話だったんだろう?」

『ああ。何度かかけたが、留守電にもならなかったな。お前にしちゃあ珍しいことじゃねェか。何かあったのか』

「いや、何かあったというわけじゃないんだが」

『女か?』

「そういうことじゃ」

『女か』

「い、いや」

 答えに窮している俺をよそに、愉快そうな熊の笑い声が、通話口から聞こえた。

『バージル・キルチャーズが仕事を忘れるほどの女か。そりゃよほどいい女なんだろうよ』

「ヴォルフ、そろそろ勘弁してくれないか」

 今度は豪快な笑い声が、耳をつんざいた。

『いいじゃねェか。そこまで惚れた女がいるってぇのは、男としちゃ幸せなことだぜ。いやしかし、生真面目の塊で朴念仁の見本市みてェなお前が、電話にも気付かねェほど……』

 最後には大爆笑である。

「なあ、もういいだろ。俺をからかうのはそんなに面白いのか」 

『ああ、面白いね』

 即答か。

『ふてくされんな、悪かったよ。しかし、お前も一人の男だったんだなあ』

 どこぞのドラァグクイーンと同じこと言う熊店主だ。

「それはいいから、本題に入ってくれ」

『おう、そうだったな』

 ヴォルフはやっと笑うのをやめ、口調を引き締めた。

『夕べはたしかに、メメント退治の仕事を頼もうとしたんだが、まあ、お前とは連絡がつかなかったわけでな、レジーニ一人に行ってもらった』

「一人で? 大丈夫だったのか?」

『心配するな、きっちりこなしてくれたぜ。問題はそのあとだ』

「そのあと?」

『夕べの現場は、イーストバレーとホーンフィールドの間の空き地だったんだが、その近くで、レジーニの奴、妙なものを見つけたらしい』

「変なもの?」

 話が見えないので、鸚鵡返しするしかなかった。

『あいつが言うには、抜け殻みてェのがあるってんだ。メメントのな』

 メメントの抜け殻? たしかに爬虫類や昆虫に似たメメントなら、脱皮を繰り返して成長するタイプも存在する。だが、個体数としては多くなく、目にするのは稀だ。

『気になるんで、お前にも知らせときたいんだとよ。あとで連絡してやれや』

「わかった。すぐに電話する」

 ヴォルフに約束し、電話を切った。

 抜け殻。メメントの抜け殻。

 稀ではあるが、ありえないことでもない。

 まだ自分の目で実物を見たことはなかった。この第九区にも、脱皮する種がついに現れたということだろうか。

 だが、何かが引っかかる。頭の奥底で、何かが喚いている。まるで、街の喧騒の中、遠くの誰かが俺に呼びかけているものの、周囲の音にかき消されてよく聴こえないように。

 ひとまずレジーニに連絡をとることにした。電話口のレジーニの口調は不機嫌ではあったが、一時間後に指定の場所で落ち合うという話を、どうにかまとめた。

 抜け殻。メメントの抜け殻。

 武器の手入れをしながら思考を巡らせたものの、一体何が気がかりなのかはっきりしなかった。

 アパートを出る間際、携帯端末エレフォンの着信音が鳴った。ヴォルフかレジーニだろうと思い、画面を確認する。

 発信者はセリーンだった。

 俺は衝動的に通話をオンにしそうになったが、どうにか己を制した。

 彼女の声が聞きたくてたまらない。だが、もう関係を持ってはならないのだ。

 俺は鳴り続ける着信音を耳から締め出した。

 やがて音は、ぴたりと止んだ。



 

 イーストバレーとホーンフィールドの間にある空き地というのは、ネルスン運河に沿った、区画整理途中の広大な土地のことだ。

 何らかの施設が建設される予定があった場所だそうだ。が、組合役員の交代やら予算の削減やら、いろいろとややこしい面倒事が重なり計画は頓挫、だだっ広い土地だけがぽつんと残された、ということらしい。

 放置された区画整理地は、伸び伸び成長しまくった雑草と、雨風に晒されて劣化した撤収漏れの機材や、重機が占拠している。殺人事件の現場になったこともあるし、良識ある一般人なら、近づくことはない。

 ネルスン運河の下流から、生ぬるい風が吹きつける。雑草の海原に、ざざざ、と波が立つ。その波の只中に、俺とレジーニはいる。

 レジーニはいつものミリタリージャケットに細身のデニムとワークブーツという格好だ。片手に〈ブリゼバルトゥ〉を持ち、空いた手はジャケットのポケットに突っ込んでいた。

 俺もまた、いつものヴィンテージライダースを羽織り、〈スティングリング〉の収まった革のホルダーを背負っている。

「夕べはすまなかった。仕事を一人でさせてしまったな」

 電話でも謝罪したが、きちんと言葉で言っておきたかった。

 レジーニは俺を一瞥し、

「別に。もう俺一人でもやれる」

 つっけんどんに答えた。

「だが、俺はまだ君の監督者だ」

「だったら来ればよかっただろ。着信にも気づかないくらい、何やってたんだよ」

「それは……」

「女だろ?」

「い、いや」

「女なんだろ」

「だから」

「隠したって無駄だ。あんた、慣れたらわりと分かりやすいんだよ。女なんだろ?」

「す、すまん」

 レジーニはポケットから手を出し、黒い髪を掻いた。

「謝られてもどうしようもないだろ。どうせ俺は新人だ。これも経験値になる」

 物分りのいいレジーニの言葉に、俺は恐縮するしかなかった。

「まあいいんじゃねえの。あんたが霞食って生きてるような変人じゃなくて、普通の男だったってことが、これでよく分かった」

 俺の周りの連中は、今まで俺をどういう目で見てきたんだ。

「こっちだ。案内する」

 レジーニは人差し指を曲げて俺を呼び、先頭に立って歩き出した。

口も態度も相変わらず良くないが、出会った当初に比べると、多少は軟化しているように思える。口数も増えてきた。少しは俺に気を許すようになってくれたようだ。

 試用期間もあとわずかで終了する。俺は彼に“合格通知”を渡すつもりだ。協調性の欠如だとかは、そう気にしなくてもいいだろう。対人関係においては、たしかにまだ不安要素はあるが、レジーニならうまく立ち回っていけるはずだ。

 試用期間が明ければ、レジーニは〈異法者ペイガン〉として独立することになる。俺の助けは、もう必要ない。



「夕べ、メメントが出たのは、あの辺りだ」

 歩きながらレジーニは、運河の上流――北西方面を指差した。

「あそこに折れたポールがあるだろ? あの辺だ。出たのはオールドバイト。そんなにデカくなかった」

「オールドバイトか。ホーンフィールド近辺では、比較的出没頻度の多い奴だ」

「そうらしいな。片付けるは簡単だった。けど、そのあと」

 次にレジーニの指が向けられたのは前方、俺たちの進行方向だ。

「ここで妙な影を見たんだ」

 そこには雑草は生えていなかった。一辺がおよそ十メートルの強化コンクリートのプレートが、レールのように長々と、横に敷かれているからだ。元は白かっただろうプレートは、風雨と土にまみれて、すっかりくすんでしまっていた。

 プレートの一部は崩落していて、その下に広がる空間に光が射している。覗き込むと、どうやら建設途中のトンネルのようだった。

 外光に照らされていない奥側は、当然ながら真っ暗闇で何も見えない。

「なんだ、ここは」

「旧三号トンネルって呼ばれてるらしい。ホーンフィールドから第八区に続く地下バイパス道、分かるだろ。あそこに繋げる予定だったらしいんだけど、見ての通り放置されてる。こっちから下に降りられるぜ」

 と、また指で俺を招くレジーニ。ついていった先には、作業員用の昇降用梯子が設けられていた。

 梯子を使い、トンネル内に足を踏み入れる。

 内部は埃っぽく、不気味な暗がりと静けさに支配されていた。ところどころ天井のプレートが崩落していて、その部分から外光が射している。おかげで、まったくの闇空間というわけではないが、だからといって居心地のいい場所とは、お世辞にも言えない。 

 レジーニが見たという“妙な影”は、このトンネルの中から現れたらしい。不審に思ったレジーニは、ハンディライトひとつを頼りに、このトンネルを探索したのだという。

「いくらなんでも、こんなところを一人で行くのは無謀すぎだろう」

 やや強い口調で批難すると、

「どうせそう言われると思って電話したってのに、あんたは女とイチャイチャしまくってる最中だったんだろうが」

 睨まれ、批難し返された。反論の余地は皆無である。

 レジーニが持参したハンディライトを点け、トンネルの奥へ向かう。俺たちの息遣いと、交わす短い言葉、砂利を踏みしめる音以外、聴こえるものはない。

「抜け殻のようなものを見つけたと、ヴォルフから聞いたが」

「ああ。このライトだけが頼りだったから、全体的には確認出来なかったけど、あれはたぶん抜け殻だ。しかもデカかった」

 しばらく進むと、カーブに差し掛かった。カーブの奥に光が射している。あちらの天井も崩落しているらしい。

「あの先だ」

 レジーニがハンディライトで、カーブの向こうを示す。

 進むにつれ、光が強くなった。充分周囲が見えるほどになったので、レジーニはライトを消した。

 カーブの終わりは突き当たりだった。トンネル工事は、ここでストップしたようだ。

 突き当りの、掘削途中の地盤の壁に、それはあった。

 すぐ側の天井プレートが崩壊していて、眩しいほど光が射し込み、それを照らし出している。まるで白昼の悪夢だ。

「見ろよ。どう考えても抜け殻だろ。しかも新しいぜ」

 悪夢を前にしても、レジーニの口調は冷めていた。たいして珍しくもない蝉の抜け殻を見つけただけ、とでも言うように。

 俺は、その巨大な抜け殻から、目を離せなかった。  

 壁に張りついているのは、俺の人生を変えてしまったモノ。

 節足動物が裏返ったような形状。二本の腕足のみで支えられる巨躯。尾部から伸びる長い尾。尾の先端には凶悪な針。

 腹部がぱっくりと割れており、黄色っぽい粘着質の糸のようなものが垂れている。物体は全体的に半透明で、内部が空洞であることが見て取れた。

 口の中が急激に乾く。飲み込む唾も出てこない。

 九年前より、一回りも二回りも成長している。何度か脱皮を繰り返してきたのだろう。 


「ラーゲ……」


 脳裏に〈スティングリング〉の、元の持ち主の死に様が蘇る。 

“憤怒”という名を冠した恐るべき化け蠍。

 奴が成長を遂げ、この街のどこかを徘徊している。


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