14
空が白み始め、世界が少しずつ明るくなっていく。それにつれて気温が上昇していくと、夜明け前まで降っていた雨の影響で霧が発生した。いまや街は、灰色煙の海に飲まれている。
霧煙る街を、しばし窓から見下ろしていた俺は、部屋の方に向き直った。
視線の先のソファに、毛布にくるまるセリーンの姿がある。毛布の端から覗く白い肩がかすかに上下していて、彼女が安らかな寝息をたてていることを示していた。
俺は足音を立てないようにそっと近づき、ソファの側に膝をついた。こちら側を向いて横になっている、セリーンの寝顔がよく見える。
彼女の顔にかかる髪をそっと払う。指先が頬に触れると、セリーンは子猫のような声を漏らして身じろぎした。動いた拍子に毛布がめくれ、滑らかな胸元があらわになる。その肌には黒子もシミもなく美しいが、楕円形の痣のようなものが、いくつかうっすら浮かんでいた。
セリーンのぬくもりや柔らかさや匂いが思い起こされ、眠る彼女を抱き締めたい衝動にかられた。何とかその欲望をこらえ、毛布をかけ直すだけにとどめた。
起こさない程度のタッチで、セリーンの髪を梳く。さらさらと絹の水のように指の間を流れるその感触を、飽くことなく確かめる。ずっとこうして触れていたいが、名残惜しくもそれは叶わない。
俺はのろのろと腰を上げ、セリーンの側を離れた。
部屋を出る間際、一度だけ振り返り、セリーンの寝姿を目に焼きつける。いまや彼女のすべてを眼の裏に思い描けるが、本人をこの目に見ることが出来るのは今日が最後かもしれない。
最後でなければならない。
静かにドアを開け、俺はセリーンの部屋を出て行った。
朝ぼらけの中、マンションの駐車スペースに停めた電動車に乗り込む。熱く濃密な夜を越え、身体が少しだるい。
そもそも朝の弱い俺だ。こんな早朝に、仕事でもないのに起きていること自体滅多にないことだ。帰ったらひと眠りしなければ。
目覚めた時、俺の姿が部屋のどこにもなければ、セリーンは怒るだろう。それとも泣くだろうか。電話をかけてくるかもしれない。
電動車を発進させる前に、携帯端末を取り出した。画面を確認すると、着信履歴が表示されていた。ヴォルフからだ。いつ電話がかかってきたのか、着信時刻を確かめる。
ああ、この時間帯は、セリーンと……。
折り返し電話をするには早すぎる時間帯だ。ひとまず自宅アパートに戻り、ヴォルフが店を開ける頃合いにかけるとしよう。
着信はもう一件あった。珍しい相手だ、レジーニである。着信時刻は、ヴォルフの時から二時間ほど後になっている。
二人からの連絡となると、ひょっとしたらメメント絡みの連絡だったのかもしれない。
さすがに二人ともまだ寝ているはずだ。ともかく一旦帰って、時間を改めて掛け直すしかない。
*
自宅にたどり着いた頃には、太陽はすっかり顔を出し、まばゆい日の光が街を照らし出していた。
俺は自宅に戻るや否や、上の服だけを脱ぎ、ベッドにうつ伏せに倒れた。
横になった途端、睡魔が忍び寄ってくる。
ぼんやりとした意識の中で、夢のように思い起こされるのは夕べの出来事。
数時間前まで、隣にはセリーンがいた。たった一晩過ごしただけだというのに、一人寝がこんなに寂しく感じられるようになってしまうとは。
未練がましいにもほどがある。彼女とはもう会わないと決めたのは自分だ。
幻を打ち払い、目を閉じて睡魔に身を委ねた。
意識が急速に浮上し、目を開けた。いつもの気配を感じる。無視しても仕方がないので、観念して起き上がった。
冷蔵庫からロース生ハムを取り出してきて、窓のブラインドを開けると、やはりアングリーが待っていた。
さっさとよこせと言わんばかりに、にゃあ、と鳴く。ハムを差し出せば、礼代わりに甘えることもせず、がつがつと食べ始めた。こいつは本当に可愛げがないな。
「なあ、お前、嫁さんや子どもはいないのか?」
アングリーは食事に忙しいので、そんな質問に答える余裕はない。
「俺は野良猫相手に何を言ってるんだ」
我ながら馬鹿馬鹿しいことをしたものだ。
血迷った人間などまったく構いもせず、生ハムを食べ尽したアングリーは、今日もさっさと次の餌場へと去って行った。
愛想のない野良猫を見送りつつ、煙草に火を点けた時、背後で携帯端末の呼び出し音が鳴った。画面にはヴォルフの名が表示されている。
『おう、やっと繋がったか』
電話に出るなり、野太い声で一言放たれた。
「ヴォルフ、夕べはすまない。電話に出れなくて。仕事の話だったんだろう?」
『ああ。何度かかけたが、留守電にもならなかったな。お前にしちゃあ珍しいことじゃねェか。何かあったのか』
「いや、何かあったというわけじゃないんだが」
『女か?』
「そういうことじゃ」
『女か』
「い、いや」
答えに窮している俺をよそに、愉快そうな熊の笑い声が、通話口から聞こえた。
『バージル・キルチャーズが仕事を忘れるほどの女か。そりゃよほどいい女なんだろうよ』
「ヴォルフ、そろそろ勘弁してくれないか」
今度は豪快な笑い声が、耳を劈いた。
『いいじゃねェか。そこまで惚れた女がいるってぇのは、男としちゃ幸せなことだぜ。いやしかし、生真面目の塊で朴念仁の見本市みてェなお前が、電話にも気付かねェほど……』
最後には大爆笑である。
「なあ、もういいだろ。俺をからかうのはそんなに面白いのか」
『ああ、面白いね』
即答か。
『ふてくされんな、悪かったよ。しかし、お前も一人の男だったんだなあ』
どこぞのドラァグクイーンと同じこと言う熊店主だ。
「それはいいから、本題に入ってくれ」
『おう、そうだったな』
ヴォルフはやっと笑うのをやめ、口調を引き締めた。
『夕べはたしかに、メメント退治の仕事を頼もうとしたんだが、まあ、お前とは連絡がつかなかったわけでな、レジーニ一人に行ってもらった』
「一人で? 大丈夫だったのか?」
『心配するな、きっちりこなしてくれたぜ。問題はそのあとだ』
「そのあと?」
『夕べの現場は、イーストバレーとホーンフィールドの間の空き地だったんだが、その近くで、レジーニの奴、妙なものを見つけたらしい』
「変なもの?」
話が見えないので、鸚鵡返しするしかなかった。
『あいつが言うには、抜け殻みてェのがあるってんだ。メメントのな』
メメントの抜け殻? たしかに爬虫類や昆虫に似たメメントなら、脱皮を繰り返して成長するタイプも存在する。だが、個体数としては多くなく、目にするのは稀だ。
『気になるんで、お前にも知らせときたいんだとよ。あとで連絡してやれや』
「わかった。すぐに電話する」
ヴォルフに約束し、電話を切った。
抜け殻。メメントの抜け殻。
稀ではあるが、ありえないことでもない。
まだ自分の目で実物を見たことはなかった。この第九区にも、脱皮する種がついに現れたということだろうか。
だが、何かが引っかかる。頭の奥底で、何かが喚いている。まるで、街の喧騒の中、遠くの誰かが俺に呼びかけているものの、周囲の音にかき消されてよく聴こえないように。
ひとまずレジーニに連絡をとることにした。電話口のレジーニの口調は不機嫌ではあったが、一時間後に指定の場所で落ち合うという話を、どうにかまとめた。
抜け殻。メメントの抜け殻。
武器の手入れをしながら思考を巡らせたものの、一体何が気がかりなのかはっきりしなかった。
アパートを出る間際、携帯端末の着信音が鳴った。ヴォルフかレジーニだろうと思い、画面を確認する。
発信者はセリーンだった。
俺は衝動的に通話をオンにしそうになったが、どうにか己を制した。
彼女の声が聞きたくてたまらない。だが、もう関係を持ってはならないのだ。
俺は鳴り続ける着信音を耳から締め出した。
やがて音は、ぴたりと止んだ。
イーストバレーとホーンフィールドの間にある空き地というのは、ネルスン運河に沿った、区画整理途中の広大な土地のことだ。
何らかの施設が建設される予定があった場所だそうだ。が、組合役員の交代やら予算の削減やら、いろいろとややこしい面倒事が重なり計画は頓挫、だだっ広い土地だけがぽつんと残された、ということらしい。
放置された区画整理地は、伸び伸び成長しまくった雑草と、雨風に晒されて劣化した撤収漏れの機材や、重機が占拠している。殺人事件の現場になったこともあるし、良識ある一般人なら、近づくことはない。
ネルスン運河の下流から、生ぬるい風が吹きつける。雑草の海原に、ざざざ、と波が立つ。その波の只中に、俺とレジーニはいる。
レジーニはいつものミリタリージャケットに細身のデニムとワークブーツという格好だ。片手に〈ブリゼバルトゥ〉を持ち、空いた手はジャケットのポケットに突っ込んでいた。
俺もまた、いつものヴィンテージライダースを羽織り、〈スティングリング〉の収まった革のホルダーを背負っている。
「夕べはすまなかった。仕事を一人でさせてしまったな」
電話でも謝罪したが、きちんと言葉で言っておきたかった。
レジーニは俺を一瞥し、
「別に。もう俺一人でもやれる」
つっけんどんに答えた。
「だが、俺はまだ君の監督者だ」
「だったら来ればよかっただろ。着信にも気づかないくらい、何やってたんだよ」
「それは……」
「女だろ?」
「い、いや」
「女なんだろ」
「だから」
「隠したって無駄だ。あんた、慣れたらわりと分かりやすいんだよ。女なんだろ?」
「す、すまん」
レジーニはポケットから手を出し、黒い髪を掻いた。
「謝られてもどうしようもないだろ。どうせ俺は新人だ。これも経験値になる」
物分りのいいレジーニの言葉に、俺は恐縮するしかなかった。
「まあいいんじゃねえの。あんたが霞食って生きてるような変人じゃなくて、普通の男だったってことが、これでよく分かった」
俺の周りの連中は、今まで俺をどういう目で見てきたんだ。
「こっちだ。案内する」
レジーニは人差し指を曲げて俺を呼び、先頭に立って歩き出した。
口も態度も相変わらず良くないが、出会った当初に比べると、多少は軟化しているように思える。口数も増えてきた。少しは俺に気を許すようになってくれたようだ。
試用期間もあとわずかで終了する。俺は彼に“合格通知”を渡すつもりだ。協調性の欠如だとかは、そう気にしなくてもいいだろう。対人関係においては、たしかにまだ不安要素はあるが、レジーニならうまく立ち回っていけるはずだ。
試用期間が明ければ、レジーニは〈異法者〉として独立することになる。俺の助けは、もう必要ない。
「夕べ、メメントが出たのは、あの辺りだ」
歩きながらレジーニは、運河の上流――北西方面を指差した。
「あそこに折れたポールがあるだろ? あの辺だ。出たのはオールドバイト。そんなにデカくなかった」
「オールドバイトか。ホーンフィールド近辺では、比較的出没頻度の多い奴だ」
「そうらしいな。片付けるは簡単だった。けど、そのあと」
次にレジーニの指が向けられたのは前方、俺たちの進行方向だ。
「ここで妙な影を見たんだ」
そこには雑草は生えていなかった。一辺がおよそ十メートルの強化コンクリートのプレートが、レールのように長々と、横に敷かれているからだ。元は白かっただろうプレートは、風雨と土にまみれて、すっかりくすんでしまっていた。
プレートの一部は崩落していて、その下に広がる空間に光が射している。覗き込むと、どうやら建設途中のトンネルのようだった。
外光に照らされていない奥側は、当然ながら真っ暗闇で何も見えない。
「なんだ、ここは」
「旧三号トンネルって呼ばれてるらしい。ホーンフィールドから第八区に続く地下バイパス道、分かるだろ。あそこに繋げる予定だったらしいんだけど、見ての通り放置されてる。こっちから下に降りられるぜ」
と、また指で俺を招くレジーニ。ついていった先には、作業員用の昇降用梯子が設けられていた。
梯子を使い、トンネル内に足を踏み入れる。
内部は埃っぽく、不気味な暗がりと静けさに支配されていた。ところどころ天井のプレートが崩落していて、その部分から外光が射している。おかげで、まったくの闇空間というわけではないが、だからといって居心地のいい場所とは、お世辞にも言えない。
レジーニが見たという“妙な影”は、このトンネルの中から現れたらしい。不審に思ったレジーニは、ハンディライトひとつを頼りに、このトンネルを探索したのだという。
「いくらなんでも、こんなところを一人で行くのは無謀すぎだろう」
やや強い口調で批難すると、
「どうせそう言われると思って電話したってのに、あんたは女とイチャイチャしまくってる最中だったんだろうが」
睨まれ、批難し返された。反論の余地は皆無である。
レジーニが持参したハンディライトを点け、トンネルの奥へ向かう。俺たちの息遣いと、交わす短い言葉、砂利を踏みしめる音以外、聴こえるものはない。
「抜け殻のようなものを見つけたと、ヴォルフから聞いたが」
「ああ。このライトだけが頼りだったから、全体的には確認出来なかったけど、あれはたぶん抜け殻だ。しかもデカかった」
しばらく進むと、カーブに差し掛かった。カーブの奥に光が射している。あちらの天井も崩落しているらしい。
「あの先だ」
レジーニがハンディライトで、カーブの向こうを示す。
進むにつれ、光が強くなった。充分周囲が見えるほどになったので、レジーニはライトを消した。
カーブの終わりは突き当たりだった。トンネル工事は、ここでストップしたようだ。
突き当りの、掘削途中の地盤の壁に、それはあった。
すぐ側の天井プレートが崩壊していて、眩しいほど光が射し込み、それを照らし出している。まるで白昼の悪夢だ。
「見ろよ。どう考えても抜け殻だろ。しかも新しいぜ」
悪夢を前にしても、レジーニの口調は冷めていた。たいして珍しくもない蝉の抜け殻を見つけただけ、とでも言うように。
俺は、その巨大な抜け殻から、目を離せなかった。
壁に張りついているのは、俺の人生を変えてしまったモノ。
節足動物が裏返ったような形状。二本の腕足のみで支えられる巨躯。尾部から伸びる長い尾。尾の先端には凶悪な針。
腹部がぱっくりと割れており、黄色っぽい粘着質の糸のようなものが垂れている。物体は全体的に半透明で、内部が空洞であることが見て取れた。
口の中が急激に乾く。飲み込む唾も出てこない。
九年前より、一回りも二回りも成長している。何度か脱皮を繰り返してきたのだろう。
「ラーゲ……」
脳裏に〈スティングリング〉の、元の持ち主の死に様が蘇る。
“憤怒”という名を冠した恐るべき化け蠍。
奴が成長を遂げ、この街のどこかを徘徊している。




