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 湿ったぬるい空気が、街に、人にまとわりついている。雨が降り始めたのは、午後八時を回った頃だった。久しぶりに降る雨は、柔らかいシャワーのように優しい。

 俺は、煉瓦調造りのマンションの、エントランスに続く屋根付き通路に車を寄せた。ここからなら、濡れずにマンション内に入れる。

 ドアロックを解除し、助手席の彼女を見た。

 セリーンは膝にバッグを抱え、降りることなく俯いている。

 セリーンと会うのは、今日で七度目だ。ただ夕食を共にして、当たり障りのない話をし、何の進展もないまま送り届ける。今日までその繰り返しだった。

 正確には、それ以上の段階に進まないように、俺自身が制限していたのだ。

 セリーンの態度を見れば、俺に何を求めているのか、さすがに分かる。彼女の方も、こちらの気持ちに気づいているだろう。

 だが、七度も逢瀬を重ねているのに俺が手を出さないので、セリーンとしては、どうすればいいのか分からなくなっているようだった。

 俺の態度は、彼女に恥をかかせているようなものだ。求められているものを察していながら、それに応えない。二人の関係は曖昧で、友人でもなければ、ましてや恋人とも呼べない状態だ。どっちつかずの関係は、セリーンを混乱させているに違いない。

 やがて顔を上げたセリーンは、俺の方に顔を向ける。オリエントブルーの瞳には、決意の光が宿っている。

「先輩、部屋に来ませんか? 少し、話がしたいです」

 その一言を口にするのに、どれだけ勇気が必要だっただろう。俺は、男としての不甲斐なさを呪った。

「セリーン、でも、話なら他でも出来るだろう?」

 彼女が“何の話”をしたいのかは察しがついている。これ以上避け続けるのは、あまりに不自然だ。

「分かってるんでしょ?」

セリーンは俺を咎めるように、眉根を寄せる。

「せめて、雨が止むまでいてください」

 降り出したのはついさっき。今夜の雨は未明まで続くとの予報だ。

 俺はセリーンを先に降ろしてから、来客用駐車スペースに車を停めた。


 


 セリーンの部屋は、室内レイアウトやインテリアにこだわりのない俺から見ても、洒落てすっきりしていた。家具はナチュラルブラウンとモノトーンで統一し、ファブリックをグリーン系色でまとめている。シンプルで機能的な部屋だが、所どころ控えめに花柄を取り入れたり、小さくて可愛らしい動物のマスコットが飾ってあるなど、若い女性の暮らす空間らしさが垣間見えた。落ち着きがあって、居心地のいい部屋だ。

 朝日を受けた草原のような、爽やかな色味のカーテンがかかる窓の外を見ると、雨の降り方が強くなっていた。雨粒が窓をしたたか打ち、やかましい音を奏でている。

 この雨はいつ止むだろうか。そう思う反面、止まなければいいのに、と願う。

 セリーンは冷えた紅茶を満たしたピッチャーと、グラスを二つ持って、キッチンから戻ってきた。白いテーブルに向かい合って座り、セリーンが注いでくれたアイスティーを飲む。青りんごの清々しい風味が、口と鼻腔にふわりと広がった。

 どちらも黙ったまま、しばらくは時間だけが過ぎていった。雨は止む気配を見せず、降りしきる音だけが部屋に響く。

 口火を切ったのはセリーンだった。彼女はグラスを両手で包み、静かな口調で言う。

「先輩。あたしのこと、避けてるんですか?」

「避けてない。何故そんなことを」

 とっさに否定したものの、見透かされていたことに、少なからず動揺した。

 俺の言葉に、セリーンは反発した。

「嘘よ、そんなの。あなたはあたしを避けてる。あたしが踏み込んでいこうとすると、いつも逃げるじゃない」 

「逃げてない。気のせいだ」

「違うわ、あなたはあたしから逃げてるのよ。なぜなの?」

 俺を見つめるオリエントブルーは、困惑と期待のない交ぜになった、複雑な光を湛えていた。

 彼女の言うとおりだ。俺は、セリーンとの関係が進むことを恐れ、意識的に深みに入らないように避けてきた。本当は、彼女が欲しくておかしくなりそうな状態だというのに。

「そっちはそんなつもりはないのに、あからさまに近づこうとするあたしが鬱陶しかったの? 嫌なら誘いを断ればよかったじゃない」

「鬱陶しいだなんて思ってない。誘われて嬉しかったに決まってるだろう」

「だったら、どうして何もしてくれないのよ」

 セリーンは泣きそうな表情で、吐き出すようにそう言った。

「覚えてるでしょ? あたし、あなたのことが好きだったって。もう会うこともないって思ってたのに、あなたはあたしの前に現れた。あたしたちの間には、結局何もなかったけど、それなら、これからでも遅くないって思ったの。またあなたに会えて嬉しかった。助けてくれたのがあなたで、本当に嬉しかった」

「セリーン……」

「今のあなたに恋人がいても、それでもいいと思ったの。だけど」

 唐突に言葉を切ったセリーンは、何かを飲み込むようにしゃくりあげ、ゆっくりと続けた。

「あたしの勘違いなら、そう言って。あたしに興味がないなら、はっきりそう言ってください。でないと、諦めがつかないじゃない」

 項垂れるセリーンの亜麻色の髪が表情を隠す。泣いているのか、それすらも分からない。

 セリーンがこんなに思いつめていたとは考えもしなかった。自分に言い訳することで精一杯で、セリーンが俺に対してどんな気持ちを抱いているのか、そこまで頭が回らなかった。

 ただ、一時の関係を結んでもいい相手だと見られている、としか思っていなかった。だから、セリーンがまだ俺に気持ちを残している可能性があるかどうかも、考えなかった。

 セリーンの性格を考えれば、例え昔の知り合いだったとしても、気まぐれに男と関係を持つような女性ひとではないことくらい分かることなのに。それなのに俺は、そこに気づかなかった。

「どうして急にいなくなったの?」

 セリーンは少し顔を上げた。だが、俺を見ない。

「どうして黙ってどこかへ行ったのよ。どうして何も連絡してくれなかったの? いつか戻ってきてるれるんじゃないかって、ずっと待ってたのに」

「俺だって待ってたんだ、君が来るのを」

 思わず声を上げた。セリーンが俺を「待っていた」と言ったのは、この九年間のことについてだ。だが、俺が彼女を待っていたのは、九年前のあの夜だ。

 言葉に出すと、抑え込んでいたものが、次から次へと溢れてくる。もはや抑圧は利かない。

「君が俺なんかを好きなはずがないと、そう思いながら、それでも可能性を信じて待っていたんだ。もしあの日、君が来てくれていたら、俺は」

 裏墜ちすることもなかった。

 メメントや、それを狩る存在を知ることも、戦う力を身につけるために、血反吐を吐くような厳しい訓練を受けることもなかった。

 凡庸な平社員のまま、相変わらず理不尽にこき使われ続けただろう。

 それでも、側に愛する女性セリーンがいてくれたのなら。

 平凡でも、慎ましやかな幸せに満ちた家庭を築けていたかもしれない。子どもも授かっただろう。

 殺伐とした裏社会とは何の縁もない、ごく普通の、平和な暮らしを送っていけたはずだ。

 一人の、ただの男として。

 けれど。

「あたしだって待ってたわよ!」

 セリーンは声を張り、勢いよく立ち上がった。

「約束の時間より早く『ANTONアントン』に行って、あなたが来るのを待ってたわ」

「でも、君はいなかったじゃないか」

 俺もまた立ち上がる。

「いくら待っても君は来なかった。電話をかけたらベルサムが出て、君と一緒にいると言った。どうすればよかったんだ?」

「あたしが自分からついて行ったんじゃないわ。待っていたらあいつが、ベルサムがやって来て、あなたをパーティーの給仕係にするために呼び出したから、部屋に来れば会えるって言うから」

「それを信じてついて行ったのか? あいつは君を狙ってたんだぞ? 部屋に行ったりしたらどうなるか考えなかったのか?」

 俺は思わず片眉を吊り上げたのだが、セリーンは怯まず食ってかかる。

「だって、あの時のあなたは、ベルサムに逆らえなかったじゃない。給仕係に使うから引っ張り出したなんて言われたら、あなたはきっと断れないから行ってしまうだろうと考えるしかないでしょ?」

 それは、認めるしかない。俺は返す言葉を失った。

「だからあたしは、あなたを連れ出すつもりで、ベルサムの部屋に行ったの。だけど、あなたの姿はなかった。騙されたと分かった時、あたしの携帯端末エレフォンが鳴って、ベルサムが勝手に出た。すぐに掛け直したけど、あなたは電話に出てくれなかった」

 セリーンはテーブルを回り込み、俺の目の前に立って見上げる。

「オフィスで誤解を解こうとしても、あなたはあたしと目も合わせようとしなかったわ。ちゃんと説明したかったのに、その機会を与えてくれなかったじゃない。そうやってるうちに、あなたは何も言わずにどこかへ去ってしまったわ」

 苦い表情を浮かべたセリーンは、拳を振り上げて俺の胸に叩きつけた。彼女は懇親の力を振り絞っているつもりなのだろうが、少しも痛くない。鬱積した思いをすべてぶつけるように、俺を殴り続けるセリーン。その姿こそ俺には痛かった。

「どうしていなくなったのよ、どうしてあたしを置いていったの。分かってたくせに……分かってたくせに!」

 殴り疲れたのか、セリーンの拳の勢いは、徐々に失われていった。やがて俺の胸に拳を置いたまま項垂れる。

 その肩が小刻みに揺れ始めて、かすかな嗚咽が聞こえた瞬間、俺は反射的に彼女を抱き締めた。

 俺の胸に顔を埋め、泣き震えるセリーン。俺はただ静かに、彼女の絹のような髪を撫でた。


 

 セリーンのぬくもりを腕の中に包みこんで、どのくらい経っただろう。いつしか泣き止んだセリーンは、しゃくりあげながらも顔を上げた。

 瞳は充血し、目の周りが腫れぼったい。目尻に残る涙を、親指の腹で、そっと拭ってやる。

「あたし今、ひどい顔してるでしょ」 

 自虐的にセリーンは微笑むが、俺はきっぱりと首を横に振った。

「やり直せる?」

 と、セリーン。

「あの時だって、付き合ってたわけじゃないけど、でも、あたしはやっぱりあなたがいい」

 飾らず、素直でまっすぐな彼女の言葉は、俺の胸中に鐘のように響き渡る。そのたった一言を噛み締めた俺は、しかし、頷くことが出来なかった。

「無理だ、セリーン」

「どうして?」

 拒否されたセリーンは、あからさまな傷心を見せた。

「誤魔化しでもなく、はぐらかすつもりでもない。正直に言えば、今の俺は堅気カタギの人間じゃないんだ。俺の側にいれば、いつか君に累が及ぶかもしれない。だから、君とは一緒にいられない」

 セリーンは、泣き腫らした両目を、ぱちぱちとしばたたかせた。

「やくざな仕事をしてるってこと? 害獣駆除って、そういうものなの?」

「あれは比喩だ。俺は正確にはやくざでもマフィアでもないが、上をたどっていけば、裏の社会のボスに行き当たる。そういう立場なんだ。本当は何をしているのかなんて、とてもじゃないが君には話せない」

「人を、殺したの?」

「それはない。誓ってそれはない。だが危険な仕事だ。人間同士のいざこざに巻き込まれる可能性だって、まったくないとは言えない。この前のようなチンピラどもとは訳が違う連中が五万といる。そんな世界に浸かっている俺の側に、君を置くことが出来るか」

 俺の脳裏に、レジーニと、彼の恋人の末路がぎる。将来を誓うほど愛し合った二人なのに、男が堅気カタギでなかったために、どんな結末を迎えてしまったか。

 セリーンを同じ目に遭わせたくない。レジーニの悲しみと憎しみが理解出来る。俺もきっと、レジーニと同じ行動に出るだろう。

 俺は訴えるが、セリーンは駄々っ子のように首を振った。

「そんなの知らない。今のあなたが何をしているのかなんて、そんなの関係ないわ」

 泣き顔を消し、強い眼差しで俺を見上げる。

「あたしが聞きたいのは、そんなことじゃない。いてほしいのか、いてほしくないのか。それだけが聞きたいの」

 そんな二択なら、俺の答えは決まりきっている。

 言葉で伝える代わりに、俺はセリーンの頬を両手で挟み、上を向かせた。

 目を閉じる彼女の唇に、俺の唇を重ねる。

 セリーンの腕が俺の背中に回された。俺は彼女の細い腰を引き寄せて抱き締めた。


 雨はまだ、止む気配を見せない。


ムーンの方に、「睦雨」というタイトルで、この後の続きを投稿しています。よろしければ…。

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