12
次にセリーンから連絡があったのは、二日後の午後のことだった。その晩、前回とは違う店で食事をし、少し街を歩いて、何事もなく彼女を送り届けた。
別れ際セリーンは、物言いたげに俺をじっと見上げたが、結局何も言わずに部屋に帰った。
次の日も食事に誘われた。そして同じように、何もないままセリーンを送っていった。俺はまだ、彼女に指一本触れていない。
俺はそのすぐあとに、メメント退治の依頼をこなすため、一人で現場に向かった。三体同時に現れたが、大した労働にはならなかった。
セリーンと過ごした時間とのあまりのギャップに、いつになく虚しさを感じてしまったのは、偏に俺自身の未熟さによるものだと思いたい。でなければ……。
自宅アパートに戻ってシャワーを浴び、ベッドに寝転がる。閉じたブラインドの隙間からわずかに注ぎ込まれてくる外の光によって、薄墨色に照らされる天井を、見るともなしに見つめる俺の脳裏には、セリーンの姿だけが浮かび上がってくる。
共に働いていた頃の十七歳のセリーン。明るく溌剌としていて、だらしない俺をいつも叱咤激励していた少女。
九年の歳月を経て、美しい女性へと成長した彼女。長く伸びた髪や、すらりとしたしなやかな四肢が、胸の内をざわめかせる。
目を閉じても、開けていても、セリーンの影が離れてくれない。
何故だ。もうとっくにあきらめていたんじゃなかったのか。
星誕祭のあの日に、俺たちの道は分かれていったんじゃかなったのか。
捨てたはずの想いなのに、今更また燃え上がらせて何になる。
セリーンにも言いたい。俺と会ったって、どうにもならないのだと。
俺に何を求めている。何を期待しているんだ。
始まりもせずに終わってしまったじゃないか。
何もかも、今更すぎるだろう。
眠れないまま、ベッドの上で寝返りばかり打ち続ける。まるで思春期の少年だ。
そうして寝不足で迎えた朝。窓の外にじっと佇み、餌を催促する野良猫アングリーの気配に叩き起こされた。
アングリーは、俺が憂鬱な気分に沈んでいることなど知る由もなく、与えたスモークサーモンを平らげると、尻尾を振りふり、次の餌係の元へと去っていった。
アングリーの餌係という日課をこなすと、途端にやる気が失せた。ベッドに座り込み、膝に両腕を置いて項垂れる。
――会いたい。
気を緩めたせいで湧き上がったが、それが本心だ。これ以上目を背けることは出来ないだろう。
セリーンに会いたい。
抱えた気持ちを、認めざるを得なかった。九年前、あんな形で訪れた別れだ。跡形もなく消化させて、収まりをつかせることなど出来ているはずがなかったのだ。この次に会うことになった時。もう自分を抑えられないかもしれない。
だから、会いたいと願っても、会うのが怖い。
しばらくそのまま座っていた俺だったが、のろのろと重い腰を上げ、もたもたと着替えた。
しっかりしろ。心を乱されているとしても、果たすべき務めと責任が俺にはある、ということを忘れるな。
*
無駄かもしれないと思いつつ、閉じられたドアを叩く。三度、四度。声もかけてみる。
返事は、やはりなかった。今日も駄目らしい。ため息をつき、帰ろうとしたその時。
ドアの向こうに、人の気配を感じた。ロックが解除されるかすかな音が聴こえて、扉が薄く開いた。
「レジーニ?」
ついに開かれたドアから、部屋の中を覗く。ドアの内側に、レジーニの姿はすでになかった。
静まり返った部屋に足を踏み入れ。ドアを閉める。
奥へ進むと、ようやくレジーニの姿を見ることができた。レジーニはロングソファの上に、仰向けに寝そべっていて、ぼんやり天井を見つめていた。まるで夕べの俺のようだ。
俺の気配に気づいているはずだが、こちらに顔を向けはしなかった。
数日振りに目にしたレジーニは、特にやつれている様子はなかったが、顔色はよくなかった。ちゃんとした食事をし、睡眠はとれているのだろうか。
ぐるりと室内を見回してみる。
元・法律事務所だった、当時の家具・調度品に囲まれて暮らしているようだ。いくつか並んだオフィスデスク、棚、給湯ルームなどが、そのまま残されている。始めから寝泊り出来るように設計されていたのか、キッチンやバスルームも完備されていた。
ざっと見た限りでは、生活観が感じられない。まともに食べているのか、本当に心配になってきた。
俺はデスクに手荷物を置くと、倒れていたキャスターチェアを起こし、ソファの側に置いて座った。間近で見るレジーニの端麗な顔に、薄いクマが確認できた。
よれよれのロングTシャツを着て、洗いざらしのジーンズを履いたレジーニは、俺が側によっても目すら向けない。
俺は構わず、彼に話しかけた。
「やっと話をする気になってくれたのか」
案の定、返事はない。
「ストロベリーから事情は聞いた。俺は、君の恋人を知っている」
初めてレジーニが反応を見せた。寝転がったまま、射抜くような鋭い視線を、俺に投げつける。
「何度か言葉を交わしたこともある。あのギター弾きの子が、そうだったんだな。名前はたしか、ルシアと……」
名前を口にした瞬間、レジーニが跳ね起きた。冷たい碧の双眸に、灼熱のマグマを潜ませ、俺を睨みつける。
「あいつの名前を呼んでいい男は俺だけだ。二度と口にするな」
「分かった。悪かったよ」
ソファから身を起こしたレジーニは、再び寝そべることなく、黙って俺と向き合った。
「君を責めるつもりはない。ただ、心配していた。それだけは分かってくれ」
レジーニは何も答えなかった。だが、こうして部屋に入れてくれたことや、出て行けと言わないところを鑑みるに、それなりに気を許しているようではある。
「少しは落ち着いたか?」
レジーニを刺激しないよう、言葉を慎重に選ぶ。
「落ち着いたのなら、そろそろ戻ってこないか? 部屋に篭もりきりじゃ、身体は鈍るし健康にもよくない。それに、君はまだ試用期間中で、俺の監督下にある。“無断欠勤”に目を瞑っていられるのも、そろそろ限界だ。意味は分かるな?」
レジーニを相手に、あれこれと説教じみたことを言うつもりはない。そんなことをしなくても、彼は理解している。だからこそ、俺を部屋に入れたのだ。
「今夜また、アンダータウンでの仕事が入っている。君も来い、レジーニ。手伝ってくれ」
つ、とレジーニの視線が上がり、俺をひたと見据えた。俺が頷くと、レジーニもまた、かすかだが頷き返した。
それで充分だ。
「腹は減ってないか? ヴォルフからの差し入れを持ってきた。あとで食べるといい」
デスクに置いた手荷物を、後ろ指で指し示す。レジーニの視線が、俺の指を追う。
差し入れの中身は、食べやすいクラブサラダサンドとディップポテトだ。レモンウォーターのタンブラーもある。俺に任せたとはいえ、ヴォルフは常にレジーニを気遣っている。心配しているということを、決して面には出さないが、こうしてレジーニのために食事を用意する行動や、作った料理の味から、ヴォルフの隠された優しさを感じ取ることは出来る。
レジーニにも、きっと伝わるはずだ。
「また連絡する。それじゃあ」
腰を上げかけた俺だが、
「ちょっと待てよ」
低い声で呼び止められ、キャスターチェアに座り直した。
レジーニの碧の眼差しは、俺の内面を抉り出そうとするかのように、鋭く尖っている。
「どうした?」
「あんたにずっと訊きたいと思ってたことがある」
「なんだ」
「あんたはなんで、裏社会側にいるんだ?」
いつかは訊かれるんじゃないかと、予想していた質問だった。
「俺は結構長い間こういう世界にいるし、クズ野郎の下についてたから、どんな奴が裏社会側に流れてくるのか、だいたい見当がつけられる。裏堕ちした理由も、ほとんど似たり寄ったりのパターンだ」
と、レジーニ。裏墜ちというのは、堅気が裏社会に身を落とすことの俗語である。そう、俺のような奴に当てはまる表現だ。
「あんたは本当なら、裏社会側にいるような人間じゃない。裏稼業者になる必要のない人生を送ってきたはずだ。まともすぎるんだよ。それなのに、何故だ?」
理解できない、というように、レジーニは小さく首を振る。レジーニからすれば、俺が〈異法者〉なんかをやっていることが、不思議でたまらないのだろう。
「実を言うと、理由は俺自身もはっきりしないんだ」
レジーニ相手に、その場凌ぎの応対は通用しない。正直に答えることにした。
「俺のクロセスト〈スティングリング〉は、元々違う〈異法者〉の持ち物だった。その男とメメントが戦っている現場にたまたま行きあって、俺は彼に助けられた。でも、彼はメメントに殺された。俺の目の前で、むごたらしく」
エンツォ・ロッソの壮絶な死に様が、脳裏に蘇ってくる。彼を惨殺した化け物蠍は、あれから現在に至るまで、一度も目撃例が出ていなかった。倒されたという報告もない。まだどこかで生きている。
「その時俺は、世の中の闇の部分に、怪物が潜んでいることを知った。知ってしまった事実からは逃げられない。変な正義感なんかじゃなく、ただ、真実に対する恐れを受け入れるために、俺はメメントと戦う道を選んだ。そんなところだ」
人に害成す怪物は退治しなければならない。そんな正義感を抱いたわけでないことはたしかだ。では、非業の死を遂げた見知らぬ男の弔いか。それも違う。闇の存在を知ってしまったから、その闇に飲み込まれないために、立ち向かう力がほしかった。それは事実だ。
俺の言葉をじっと聞いていたレジーニ。その表情は、怪訝そうに歪んでいる。
「それだけかよ?」
「ああ。なにかおかしいか?」
まあ、理由としては奇妙なものだとは思うが、他にないのだから、これ以上答えようがない。
レジーニは納得できていないようだった。が、追求することもなかった。
その代わり、皮肉めいた笑みを口の端に浮かべたのだ。
「あんたのことが、少し分かった気がする」
「俺のことが?」
「あんたは自分を偽ってる。気づいてないふりをしてるだけだ。本性を隠してるのさ。“違う自分”を装って、周りの世界との折り合いをつけてる。そうやって自分を守ってるんだろ。“違う自分”は、鎧だ」
心を見透かすような碧の瞳。俺の知らない“俺”を探り当て、どこか勝ち誇っているようにも見える。
俺が“自分を偽っている”だと? 鎧を着るように?
「あんたはいい人間だと思う。だけど不器用すぎだ」
皮肉っぽい笑みを消し、レジーニはソファに深く背を預ける。
「俺も、あんたの“鎧”を見習うことにするよ」
呟くレジーニは、もう俺を見ていなかった。
夕刻。レジーニは俺の呼び出しに応じ、指定した集合場所に、時間通りに現れた。手に蒼い剣〈ブリゼバルトゥ〉を携えて。
俺は、昼間のやり取りの真意を問い正しかったが、レジーニに答える姿勢が見られず、結局何も聞けず仕舞いだった。




