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午後六時過ぎ。
グリーンベイのランドマークとも言える市立図書館の正門の前に、俺は立っている。
図書館はすでに閉館しており、聡明で清廉な佇まいの建物とその周辺は、ひっそりと静まりかえっていた。
以前は、たまにこの図書館を利用していた。電子書籍が主流の現代、日常生活の中で紙の本に触れる機会などそうそうない。荷物にはなるだろうが、紙の本を読むというのは、なかなか風情を感じられるものなのだった。
裏稼業者となった今、すっかり足が遠のいてしまっている図書館。また利用してみようか。
そんなことを思いながら、橙色の空の下、暮れ日を受けて薄闇に包まれる建物を眺めていると、
「おまたせしました」
亜麻色の髪を揺らしながら、一人の女性がこちらへ駆けてきた。
目の覚めるような青いカットソーの上から、オフホワイトのジャケットを羽織り、揃いの色のタイトなパンツで脚線美を包み込んでいる彼女。黒エナメルのヒールサンダルを軽快に鳴らして、俺のもとへ真っ直ぐにやって来るセリーンは、まるでランウェイを歩くトップモデルのようで、すれ違う人々を振り返らせている。
昼間のカフェスタッフ姿とは打って変わり、立派な大人の女性の装いだった。
「すみません、待たせてしまって」
肩にかけたバッグを背負い直しながら俺を見上げるセリーンは、少し息を切らしていた。近くまで走ってきたのだろう。
「いや、そんなに待ってない」
「そ、そうですか」
顔の横に垂れてきたひと房の髪を耳にかけるセリーン。
数秒、会話が途切れた後、
「じゃあ、行きましょうか」
そう言って、俺を促した。
「店は近いのか?」
「いえ、少し離れてるから、スカイリニアで」
「それなら俺が車を出すよ」
すぐ近くのパーキングに、俺の電動車を停めてある。スカイリニアで移動するより、小回りが利いて便利だろうと判断したので、そう提案した。
セリーンはぶんぶんと首を振る。艶やかな亜麻色が、ふわりと揺れた。
「来てもらう側に運転していただくわけにはいきません!」
「いいよ、そんなこと気にしなくて。ああ……、俺の車に乗るのが嫌だということなら無理……」
「嫌じゃないです! お願いします!」
なぜか勢いよく俺の言葉を遮って、始めの主張とは若干ズレの生じた返しをするセリーンだった。
二人きりの車内で、会話が弾んだかと問われれば、どちらとも言えない、と答える以外にない。俺たちの間には、まだギクシャクした空気が流れていて、打ち解けた状態とはいえなかった。
もっぱらセリーンの方が、探り探りに当たり障りのない話題を振ってきて、それに俺が言葉少なく返す。和気藹々とはほど遠い。
九年前のセリーンは、もっと溌剌と元気のいい声で、俺に話しかけていた。話す内容はたいしたことではなかったが、俺はセリーンと他愛ない会話が出来ることを、心から楽しんでいた。
今は、どうだろう。
助手席のセリーンは、俺の方に顔を向けながら話しかけてくる。あまり踏み込んだことは訊いてこないが、“害獣駆除”という仕事については、色々と質問してきた。俺が“害獣駆除業者”だということを疑っているようだ。
察しが良くて困るのだが、そこは適当に、それらしい回答をして、なんとかごまかした。
セリーンは、俺の説明にひとまず納得したようで、以降は仕事について深く掘り下げようとはしなかった。
セリーンの道案内で電動車を走らせ、到着したのは、古めかしい佇まいの建物だった。
中世の屋敷をモチーフにしたその建物は、上品で厳かな雰囲気を纏い、訪れる人々を鷹揚に迎え入れている。
五つ星評価のレストラン〈クワモワージ〉だ。
ここは老舗高級店でありながらドレスコードがなく、他の同列レストランよりも敷居が低いという点でも人気を集め、毎日客で溢れかえっており、予約が取れないことで有名だった。
俺なんかへの礼のために、倍率の高い〈クラモワージ〉を選ぶことなどなかったのに。
そう思いつつも、俺のためにこの店を選んでくれたことは、素直に嬉しかった。
俺たちは壁側の席に案内された。程よい光量に照らされた、静かで落ち着ける席だ。
柔らかな旋律の室内音楽が流れる中、俺とセリーンの、密やかな晩餐会が始まった。
前菜に始まり、サラダ、スープ、パンと続き、魚料理が運ばれてきた。俺にはやはり、料理の善し悪しは分からないが、“普段行く飲食店より数段上の味”であるという漠然とした括りで、〈クラモワージ〉に好印象を抱いた。
「こういうお店、あんまり来たことないから、ちょっと緊張しますね」
少しそわそわしながら、セリーンは言う。
「そうだな」
「先輩は、こういうお店でよく食事します?」
「俺が? まさか。いつも大衆食堂だよ。緊張してるのは俺も同じさ」
「そういう顔には見えませんけど」
「そうか?」
いくら比較的敷居を跨ぎやすい店だといっても、俺のような人間が利用するのは、さすがに場違いだろうということくらい分かっている。セリーンが誘ってくれなければ、一生来ることはなかっただろう。
セリーンは俺の顔を覗き込み、いたずらっぽく柳眉を顰める。
「顔つきが変わらないから、本当に緊張してるのか分かりにくいです。そういうところ、昔と変わらないんですね」
「そ、そうか」
その言葉は、妙な照れ臭さを俺に与えた。照れ隠しにワインを飲む。グラスを置いた時、ふと視線を感じて顔を上げれば、セリーンの俺を見る目つきが、不思議なものを見るかのようなものに変わっていた。
「どうかしたのか?」
月並みだが、俺の顔に何か付いているのだろうか。
するとセリーンは、今にも泣き出しそうな表情になり、ぷっと吹き出したのだった。
「よかった。本当に変わってない」
「セリーン?」
「あの頃と全然印象が違うから、ひょっとしたら別人なんじゃないかって、昼間まで少し疑ってたんです。もし違う人だったらどうしようって、不安でした」
セリーンは深呼吸で一息ついてから、続けた。
「でも、今ので分かりました。外見はちょっと変わったけど、先輩は先輩のままでした。会えて嬉しいです」
あともう少しで本当に泣いてしまう。そんな危うさを滲ませた笑顔を向けるセリーンを、俺はただ黙って見つめた。
それまで抑え込んでいた胸のざわつきが、一気に主張し始める。かつて抱えていた感情が目を覚まそうとしていることを、俺は自覚してしまった。
いけない、と思えば思うほど、その反動で余計に想ってしまう。
忘れることで目を背けていたのに。もう二度と会うことはないだろうと思うことで、諦めがついたのだと思っていたのに。
食事の間俺たちは、特に実りのあるわけでもない、軽い世間話をした。
九年前の出来事や、俺がなぜ失踪紛いにオフィスを去ったのか。あえてそこには触れなかった。
セリーンは今の仕事――〈エペリッデ〉のスタッフとして働くことが、とても楽しいのだと語った。カフェで働くことが長年の夢だったらしい。見た目の印象と正反対の夢を、他人に知られるのが恥ずかしかったそうで、だから俺にさえ明かさなかったのだという。
カフェでの日々を嬉しそうに話すセリーンは、十七歳の頃と変わらない輝きを放っていた。昔は眩しくて見られなかった彼女の輝きは、現在の俺にも眩しかった。
コースの最後の最後、プチフールまで綺麗に平らげ、俺たちは席を立った。
お礼とはいえ、こんな高級レストランの飲食代を、二人分も女性に払わせるのは気が引ける。自分の電子マネーで払おうと携帯端末を取り出したのだが、
「駄目です! ここはあたしが払わないと意味がないじゃないですか!」
怒られた。
ありがたくご馳走になり、〈クラモワージ〉をあとにした。
腹ごなしに、ネルスン運河沿いの遊歩公園をしばし歩いてから、セリーンをマンション前まで送った。酒を飲んでいるから、自動運転だ。
煉瓦調の建物の前で車を停めた俺は、
「今日はありがとう。ご馳走になった」
短く礼を言い、ドアのロックを開けた。
セリーンはのろのろとシートベルトを外したが、すぐには降りなかった。探るような目で俺を見る。その目が語る意味を、俺は察したが、気づかないふりをした。
今彼女に触れたら、おそらく自分を止めることが出来なくなる。
俺が何もしようとしないので、セリーンの表情にはうっすらと失望の色が浮かんだ。俺は、それにも目を瞑った。
「また、会ってくれますか?」
無理だ、もう会うつもりはない。
たったそれだけ口にすれば済むことだ。そう伝えれば、俺とセリーンの人生は、再び別れていく。そして今度こそ、二度と会うことはなくなるだろう。
セリーンのためにも、言わなければならない言葉だ。俺たちはもう、まったく違う世界に住んでいる。彼女を俺と関わらせるわけにはいかない。
だが、口をついて出たのは、そんな考え方とは裏腹な言葉だった。
「都合さえつけば」
曖昧で、ずるい答え方だ。会いたいのはこちらも同じことなのに、会うための理由を彼女に押し付けている。そうすることで、自分は距離を置こうと努めているのだと、自分自身を誤魔化しているだけだ。
「それじゃあ、また連絡します」
俺の言葉に、セリーンは声を弾ませ、車を降りた。
おやすみなさい、と手を振り、マンションへ帰っていくセリーンを、俺は複雑な思いで見送った。
彼女の姿が建物の中に消えたあと、ハンドルに頭を持たせかけた俺は、自己嫌悪の深いため息をついた。




