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その建物は“住居”ではなかった。灰色で真四角の外装の建物は、五年近く前は、小さくとも立派な法律事務所として、機能していたという。二階建ての一階は駐車スペースで、二階が事務所だ。
どんな理由があって、勤めていた弁護士や助手、事務員たちが、ここを引き払わなければならなかったのか、それは分からない。
今分かることは、土地の所有権がめぐり巡って裏社会に流れ落ち、更にめぐり巡ってヴォルフが自由にしていいものになったこと。
そして、この捨てられた事務所に、レジーニが住んでいることだ。
建物の周りは、誰かが住んでいるとは思えないほど荒れていた。刈り取られないのを良いことに雑草は伸び放題。壁にはヒビが入り、そのヒビからも草が生えている。レジーニが、こまめに住処の手入れをする姿は想像しにくいが、これはさすがに放置しすぎだ。
雑草を刈って、除草剤を撒かなければ。薬剤はしっかり撒かないと、雑草は根絶させられない。もちろん、環境に優しい成分の薬剤でなければならない。ゴミも散らかっているし、駐車スペースにはクモの巣も張っている。掃除を始めたら、一日や二日では済まないな。
俺が片付けたくなってどうする。
二階への階段を上がり、色褪せたドアの前に立つ。インターホンを押してみたが、壊れているのか、ちっとも鳴らない。
二、三度ノックし、ドアに顔を近づける。
「レジーニ。いるか? 俺だ」
一分ほど待ったが、返事はない。留守なのか。電話をかけてみるも、出ない。だが、建物の中からかすかに着信音が聴こえてきたので、いることにはいるようだ。
俺と会う気はないらしい。
居留守を使われることは想定内だった。心を閉ざしたレジーニが、あんな出来事のあとで、誰かに構ってほしいと思うわけがない。
しかし俺としても、彼をこのまま放っておくつもりはなかった。とはいえ、焦って引きずり出そうとすると、ますます殻に閉じこもらせるだけではないだろうか。
「また来る」
それだけ言い残し、俺は寒々しいレジーニの住処を離れた。
俺に出来るのは、見守ることくらいだ。時間はかかってもいい。自分から出てきてくれるようになるまで、俺は待つ。
翌日、翌々日と、俺はレジーニの元を訪ねたが、彼は顔を見せてくれなかった。
また次の日も、やはりふられた。ため息をつき、俺はその場を去る。
それから俺は、いつもとは違うルートをたどり、グリーンベイに向かった。
とあるカフェを前にした俺は、回れ右をして去りたい気持ちと、くすぶっているわずかな期待との狭間に立たされた。
シンプルな外装のカフェだ。クラシックな木造風二階建ての建物で、大きなガラス窓越しに見える店内は、多くの女性客で賑わっている。カップルや家族連れの姿もあるが、客層の中心は明らかに若い女性だ。
店舗の外には、テラス席も設けられている。赤いパラソルの下に、白くて丸いテーブルと椅子が置かれ、やはり女性客に占領されていた。
店内に踏み込むことを躊躇わせる要因は、女性だらけの洒落たカフェにむさ苦しい無精髭の男が一人、という状況になることへの畏怖の念。それもたしかにある。普段の俺なら、絶対にこんな店には来ない。
だが今日は、化け物に立ち向かう以上の勇気を振り絞って、この未知の世界に踏み込まなければならないのだ。
入り口でもたもたしていると、背後から「通っていいですか?」と声をかけられた。慌てて避けた俺の前を、二人の少女が横切っていった。
少女たちがドアを開けると、ドアチャイムが、からんころんとカウベルに似た音を立てた。
「いらっしゃいませ」
開け放たれたドアの向こうから聞こえてきた、女性スタッフたちの華やかな声。スタッフの一人が、来店した少女二人を、席に案内する。その後ろを、別のスタッフが通りがかった。
亜麻色の髪を三つ編みにした彼女は、俺に気づくと、はっと目を見開き、足を止めた。
俺はようやく店内に入る。
向かい合って立つ俺を見上げたセリーンは、
「来てくれたんですね」
どこかほっとしたような、柔らかな口調で言った。タイトな黒いシャツに、ダメージジーンズとスニーカー、細い腰に丈の短いソムリエエプロンを巻いたセリーンは、どこから見ても立派なカフェスタッフだ。
先日の礼がしたいという、セリーンからの連絡があったのは、つい昨日のことだ。ぜひ来てほしいと指定されたのが、このカフェ〈エペリッデ〉だった。
セリーンは今、この店のスタッフなのだ。
セリーンは少しもじもじしながら、俺を一番奥の席に案内した。日当たりのいい窓際の席で、テーブルには可愛らしい字で「Reserved」と手書きされたカードが置かれていた。
勧められるままに着席した俺に、セリーンはやや緊張気味の声で尋ねた。頬から耳にかけて、淡い桃色に染まっている。
「な、何を飲みますか」
「ああ、そうだな。じゃあ」
「あ、えっと、ここ、紅茶専門店なんで、コーヒー類はないです」
「そうなのか」
紅茶には詳しくない。嫌いではないが、好き好んで飲むわけではないから、オーダーに困る。
俺は迷った挙句、一番手っ取り早い方法で対処することにした。
「君のおすすめは?」
するとセリーンは表情を輝かせ、まるで体育系部活の進入部員のように、ぴしっと“気をつけ”の姿勢で答えた。
「ミカンとマスカットとミントのフレーバーブレンドですっ」
「そ、そうか。じゃあ、それを」
「は、はい! ちょっと待っててください!」
強張った声で言い残し、セリーンはそそくさと店の奥へと消えていった。
緊張しているようだが、そんなに気を張ることもないだろうに。
一人残された俺の方こそ緊張している。女性が好きそうなナチュラルテイストのティールームに、場違いにもほどがある男が一人、所在無げにしている姿は、傍目に見ても違和感しかないだろう。事実、周囲のテーブルから、ちらちらと寄越される女性陣の視線は、好奇の色を湛えている。
一刻も早く出て行きたいが、セリーンに黙って姿を消すのは、さすがに気が引けた。それに、礼をするつもりで呼んでくれたのだから、好意を無下にするのは失礼に値する。
よって俺は、彼女が戻って来てくれるのを、黙っておとなしく待つ他ないのだ。
ほんの数分の待ち時間が、数十分、一時間ほどに長く感じられた。セリーンがティーポットを載せたトレーを片手に戻って来た時は、心底ほっとした。
木製のトレーに載っているのは、真っ白な陶器のティーポットと、揃いのカップだ。セリーンは俺の目の前に茶器を並べると、ポットを手に取り、その中身をカップに注いだ。
蜜柑色の紅茶がカップに満たされる。酸味のある果実系にミントの爽やかさが加わった、気分の安らぐ香りが、ふわっと鼻をくすぐった。
「ストレートでどうぞ」
と、セリーン。俺は元々無糖派だから、砂糖を入れなくても飲めるのはありがたい。カップを持ち、香りを楽しんでから、一口二口喉に通した。
普段から紅茶を飲みつけておらず、味の良し悪しもよく分からない俺だが、このフレーバーティーが、一般的な紅茶に比べても格別に美味い、ということは理解できた。口に含んだ途端、紅茶の香りが鼻腔に満ち、さっぱりとした味わいが、舌を楽しませてくれる。
「どう、ですか?」
トレーを抱え、俺の傍らに立っているセリーンは、おずおずと尋ねた。
「いい香りだ。美味いよ」
顔を上げて率直な感想を述べると、セリーンは表情を輝かせ、安心したように肩を撫で下ろした。
「実は、それ、あたしがブレンドしたんです。今日、日替わりブレンドティーの当番だから」
そうか。自分がブレンドした紅茶を振る舞うために、今日ここに呼んだのか。
俺はもう一口飲んだ。
厨房に続いているらしい店の奥の方を見ると、女性スタッフらが、柱の陰に隠れてこちらを覗き見ていた。なにやら楽しげに笑い、口を動かしている。俺とセリーンとの関係性について、あらぬことを好き勝手話し合っているに違いない。
「なあ、セリーン」
「あ、はい」
「ずっとそこでそんな風に立っていられると、その、落ち着かないというか。座らないか?」
向かいの席を勧めると、セリーンはためらいがちに着席した。
明るい陽射しの中、正面から改めて見るセリーンは、眩しいほどに綺麗だった。昔に捨てたはずの想いが蘇りそうで、俺は慌てて視線をそらす。
「いつからここで働いてるんだ?」
無難な話題を持ち出してみる。
「二年前です。友だちが、ティールームを開くからメインスタッフとして手伝ってほしいって、声をかけてくれて、それで」
「そうか」
「先輩は、今は、何をしてるんですか?」
間違いなく訊かれるだろうと思っていた質問だ。
「その……害獣駆除を」
あながち嘘ではない。
「害獣駆除ですか? 先輩が?」
セリーンは柳眉を曲げ、素っ頓狂な声を上げた。
「小型犬に吠えられて近づけなかったのに?」
「ああ……、そう」
「公園歩いてるだけで、カラスに敵だと思われて突かれてたのに?」
「あったな、そんなことも」
「こんなちっちゃいイエネズミも追い払えなかったのに?」
「あれはまあ、不可抗力というか」
「鳩にも威嚇されてましたよね?」
「餌持ってなかったしな……」
「務まるんですか、それで?」
心底理解できないという表情でこちらを見るセリーン。俺は思わず頭を抱えそうになったのを、どうにか耐えた。昔の俺は、動物にまで舐められていたか。
言われてみれば、動物に好かれた覚えがない。俺自身は動物嫌いではないのだが。野良猫アングリーは、機嫌のいい時に触らせてくれる程度で、俺を好いているわけではない。
「どうしてそんな仕事を?」
「まあ、いろいろあってな」
そうとしか答えられない。もっとましな嘘がつけなかったのかと、自分を叱責する。嘘がつけない性分は何かと厄介だ。物事を円滑に進めるための“嘘”くらいつけなくては、あとで自分が苦労することにもなるというのに。
「いろいろ、ですか」
俺の言葉に引っかかりを感じたのか、セリーンはぽつりと呟いた。
いろいろ。そう、“いろいろあった”のだ。九年前のあの夜以降は。
セリーンがそこを気にするのも当然だ。あの夜のことについて、俺たちは何も話し合わず離れ離れになったのだから。正確には、俺の方が去っていったのだ。
オフィスから黙って姿を消した俺が、そのあとどこへ行き、どう過ごしてきたのか、セリーンは知りたいのだろう。今と昔と、こんなに外見が変わってしまうほどの、どんな経験を積んできたのだろうか、と。
本当のことなど、もちろん言えるはずがない。現在の俺は裏の世界に生き、尚且つ、害獣ではなく怪物を駆除している身の上なのだと、一体どうして言えるだろう。
本当なら。
本当なら今日、ここにも来るべきではなかったのだ。俺は、表社会では死んだ身だ。両手、いや全身は怪物の体液で穢れ、奴らの屍をいくつも踏み越えてきた。
そんな俺は、セリーンに近づくべきではないのだ。
彼女を、暗い世界に触れさせてはならない。
暗闇の道を行く俺を、彼女に見られたくない。
だから、来るべきじゃなかった。
――なら、何故来た。
それは。
俺は残った紅茶を飲み干し、テーブルにカップを置いた。
「それじゃあ、俺は帰るよ」
唐突に切り出すと、セリーンはオリエントブルーの目を見開く。
「え、も、もうですか?」
「ああ。いい紅茶も頂いたしね。充分なお礼だったよ」
席を立とうと腰を浮かせる。が、慌てたセリーンが押しとどめた。
「お、お礼は紅茶じゃありません! ここに呼んだのは、あ、あたしのブレンドを飲んでほしかったからで、これだけでお礼を済ませるつもりなんてありませんから!」
「セリーン、声が」
いきなり声のトーンを上げたセリーンを、俺は口元に指を当てて静まらせた。周囲を一瞥すれば、何人かの客がこちらに目を向けている。
思わず大声を上げたことに恥ずかしくなったらしい。セリーンは頬を染めて俯いた。
「すみません……」
「いや、いいんだ。でも本当に、これ以上何かしてほしいとは思ってない。どうか気を遣わないでくれ」
そう言うと、セリーンは顔を上げた。表情が不機嫌そうなのだが、何故だろう。
「先輩は、あたしに何かしてほしいとは思ってないんですか?」
「え?」
「助けたお礼が紅茶だけでいいんですか?」
「いや、俺は別に、それで充分だと」
「あたしは充分じゃないんです、お茶一杯でお礼が出来たなんて思えません」
「だが、そうは言ったって」
「だから、ちゃんとしたお礼を、他にするつもりなんです」
「セリーン、俺は」
「夕食、ご馳走させてください」
セリーンの眼差しは真剣そのもので、俺にこれ以上の反論をさせない迫力は、充分にあった。
「また連絡しますから。断らないでください。また、あたしと会ってください」
真正面から飾らない素直な言葉をぶつけられても、それを振り払うだけの非情さが俺にあればよかったのに。
断りきれなかった俺は、その夜にもう一度彼女と会う約束をしてしまったのだった。




