表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/18

10

 その建物は“住居”ではなかった。灰色で真四角の外装の建物は、五年近く前は、小さくとも立派な法律事務所として、機能していたという。二階建ての一階は駐車スペースで、二階が事務所だ。

 どんな理由があって、勤めていた弁護士や助手、事務員たちが、ここを引き払わなければならなかったのか、それは分からない。

 今分かることは、土地の所有権がめぐり巡って裏社会に流れ落ち、更にめぐり巡ってヴォルフが自由にしていいものになったこと。

 そして、この捨てられた事務所に、レジーニが住んでいることだ。

 建物の周りは、誰かが住んでいるとは思えないほど荒れていた。刈り取られないのを良いことに雑草は伸び放題。壁にはヒビが入り、そのヒビからも草が生えている。レジーニが、こまめに住処すみかの手入れをする姿は想像しにくいが、これはさすがに放置しすぎだ。

 雑草を刈って、除草剤を撒かなければ。薬剤はしっかり撒かないと、雑草は根絶させられない。もちろん、環境に優しい成分の薬剤でなければならない。ゴミも散らかっているし、駐車スペースにはクモの巣も張っている。掃除を始めたら、一日や二日では済まないな。 

 俺が片付けたくなってどうする。

 二階への階段を上がり、色褪せたドアの前に立つ。インターホンを押してみたが、壊れているのか、ちっとも鳴らない。

 二、三度ノックし、ドアに顔を近づける。

「レジーニ。いるか? 俺だ」

 一分ほど待ったが、返事はない。留守なのか。電話をかけてみるも、出ない。だが、建物の中からかすかに着信音が聴こえてきたので、いることにはいるようだ。

 俺と会う気はないらしい。

 居留守を使われることは想定内だった。心を閉ざしたレジーニが、あんな出来事のあとで、誰かに構ってほしいと思うわけがない。

 しかし俺としても、彼をこのまま放っておくつもりはなかった。とはいえ、焦って引きずり出そうとすると、ますます殻に閉じこもらせるだけではないだろうか。

「また来る」

 それだけ言い残し、俺は寒々しいレジーニの住処すみかを離れた。

 俺に出来るのは、見守ることくらいだ。時間はかかってもいい。自分から出てきてくれるようになるまで、俺は待つ。


 

 翌日、翌々日と、俺はレジーニの元を訪ねたが、彼は顔を見せてくれなかった。

 また次の日も、やはりふられた。ため息をつき、俺はその場を去る。

 それから俺は、いつもとは違うルートをたどり、グリーンベイに向かった。




 とあるカフェを前にした俺は、回れ右をして去りたい気持ちと、くすぶっているわずかな期待との狭間に立たされた。

 シンプルな外装のカフェだ。クラシックな木造風二階建ての建物で、大きなガラス窓越しに見える店内は、多くの女性客で賑わっている。カップルや家族連れの姿もあるが、客層の中心は明らかに若い女性だ。

 店舗の外には、テラス席も設けられている。赤いパラソルの下に、白くて丸いテーブルと椅子が置かれ、やはり女性客に占領されていた。

 店内に踏み込むことを躊躇ためらわせる要因は、女性だらけの洒落たカフェにむさ苦しい無精髭の男が一人、という状況になることへの畏怖の念。それもたしかにある。普段の俺なら、絶対にこんな店には来ない。

 だが今日は、化け物に立ち向かう以上の勇気を振り絞って、この未知の世界に踏み込まなければならないのだ。

 入り口でもたもたしていると、背後から「通っていいですか?」と声をかけられた。慌てて避けた俺の前を、二人の少女が横切っていった。

 少女たちがドアを開けると、ドアチャイムが、からんころんとカウベルに似た音を立てた。

「いらっしゃいませ」

 開け放たれたドアの向こうから聞こえてきた、女性スタッフたちの華やかな声。スタッフの一人が、来店した少女二人を、席に案内する。その後ろを、別のスタッフが通りがかった。

 亜麻色の髪を三つ編みにした彼女は、俺に気づくと、はっと目を見開き、足を止めた。

 俺はようやく店内に入る。

 向かい合って立つ俺を見上げたセリーンは、

「来てくれたんですね」

 どこかほっとしたような、柔らかな口調で言った。タイトな黒いシャツに、ダメージジーンズとスニーカー、細い腰に丈の短いソムリエエプロンを巻いたセリーンは、どこから見ても立派なカフェスタッフだ。

 

 

 先日の礼がしたいという、セリーンからの連絡があったのは、つい昨日のことだ。ぜひ来てほしいと指定されたのが、このカフェ〈エペリッデ〉だった。

 セリーンは今、この店のスタッフなのだ。



 セリーンは少しもじもじしながら、俺を一番奥の席に案内した。日当たりのいい窓際の席で、テーブルには可愛らしい字で「Reserved」と手書きされたカードが置かれていた。

 勧められるままに着席した俺に、セリーンはやや緊張気味の声で尋ねた。頬から耳にかけて、淡い桃色に染まっている。

「な、何を飲みますか」

「ああ、そうだな。じゃあ」

「あ、えっと、ここ、紅茶専門店なんで、コーヒー類はないです」

「そうなのか」

 紅茶には詳しくない。嫌いではないが、好き好んで飲むわけではないから、オーダーに困る。

 俺は迷った挙句、一番手っ取り早い方法で対処することにした。

「君のおすすめは?」

 するとセリーンは表情を輝かせ、まるで体育系部活の進入部員のように、ぴしっと“気をつけ”の姿勢で答えた。

「ミカンとマスカットとミントのフレーバーブレンドですっ」

「そ、そうか。じゃあ、それを」

「は、はい! ちょっと待っててください!」

 強張った声で言い残し、セリーンはそそくさと店の奥へと消えていった。

 緊張しているようだが、そんなに気を張ることもないだろうに。

 一人残された俺の方こそ緊張している。女性が好きそうなナチュラルテイストのティールームに、場違いにもほどがある男が一人、所在無げにしている姿は、傍目に見ても違和感しかないだろう。事実、周囲のテーブルから、ちらちらと寄越される女性陣の視線は、好奇の色をたたえている。

 一刻も早く出て行きたいが、セリーンに黙って姿を消すのは、さすがに気が引けた。それに、礼をするつもりで呼んでくれたのだから、好意を無下にするのは失礼に値する。

 よって俺は、彼女が戻って来てくれるのを、黙っておとなしく待つ他ないのだ。

 ほんの数分の待ち時間が、数十分、一時間ほどに長く感じられた。セリーンがティーポットを載せたトレーを片手に戻って来た時は、心底ほっとした。

 木製のトレーに載っているのは、真っ白な陶器のティーポットと、揃いのカップだ。セリーンは俺の目の前に茶器を並べると、ポットを手に取り、その中身をカップに注いだ。

 蜜柑色の紅茶がカップに満たされる。酸味のある果実系にミントの爽やかさが加わった、気分の安らぐ香りが、ふわっと鼻をくすぐった。

「ストレートでどうぞ」

 と、セリーン。俺は元々無糖派だから、砂糖を入れなくても飲めるのはありがたい。カップを持ち、香りを楽しんでから、一口二口喉に通した。

 普段から紅茶を飲みつけておらず、味の良し悪しもよく分からない俺だが、このフレーバーティーが、一般的な紅茶に比べても格別に美味い、ということは理解できた。口に含んだ途端、紅茶の香りが鼻腔に満ち、さっぱりとした味わいが、舌を楽しませてくれる。

「どう、ですか?」

 トレーを抱え、俺の傍らに立っているセリーンは、おずおずと尋ねた。

「いい香りだ。美味いよ」

 顔を上げて率直な感想を述べると、セリーンは表情を輝かせ、安心したように肩を撫で下ろした。

「実は、それ、あたしがブレンドしたんです。今日、日替わりブレンドティーの当番だから」

 そうか。自分がブレンドした紅茶を振る舞うために、今日ここに呼んだのか。

 俺はもう一口飲んだ。

 厨房に続いているらしい店の奥の方を見ると、女性スタッフらが、柱の陰に隠れてこちらを覗き見ていた。なにやら楽しげに笑い、口を動かしている。俺とセリーンとの関係性について、あらぬことを好き勝手話し合っているに違いない。

「なあ、セリーン」

「あ、はい」

「ずっとそこでそんな風に立っていられると、その、落ち着かないというか。座らないか?」

 向かいの席を勧めると、セリーンはためらいがちに着席した。

 明るい陽射しの中、正面から改めて見るセリーンは、眩しいほどに綺麗だった。昔に捨てたはずの想いが蘇りそうで、俺は慌てて視線をそらす。

「いつからここで働いてるんだ?」

 無難な話題を持ち出してみる。

「二年前です。友だちが、ティールームを開くからメインスタッフとして手伝ってほしいって、声をかけてくれて、それで」

「そうか」

「先輩は、今は、何をしてるんですか?」

 間違いなく訊かれるだろうと思っていた質問だ。

「その……害獣駆除を」

 あながち嘘ではない。

「害獣駆除ですか? 先輩が?」

 セリーンは柳眉を曲げ、素っ頓狂な声を上げた。

「小型犬に吠えられて近づけなかったのに?」

「ああ……、そう」

「公園歩いてるだけで、カラスに敵だと思われて突かれてたのに?」

「あったな、そんなことも」

「こんなちっちゃいイエネズミも追い払えなかったのに?」

「あれはまあ、不可抗力というか」

「鳩にも威嚇されてましたよね?」

「餌持ってなかったしな……」

「務まるんですか、それで?」

 心底理解できないという表情でこちらを見るセリーン。俺は思わず頭を抱えそうになったのを、どうにか耐えた。昔の俺は、動物にまで舐められていたか。

 言われてみれば、動物に好かれた覚えがない。俺自身は動物嫌いではないのだが。野良猫アングリーは、機嫌のいい時に触らせてくれる程度で、俺を好いているわけではない。

「どうしてそんな仕事を?」

「まあ、いろいろあってな」

 そうとしか答えられない。もっとましな嘘がつけなかったのかと、自分を叱責する。嘘がつけない性分は何かと厄介だ。物事を円滑に進めるための“嘘”くらいつけなくては、あとで自分が苦労することにもなるというのに。

「いろいろ、ですか」

 俺の言葉に引っかかりを感じたのか、セリーンはぽつりと呟いた。

 いろいろ。そう、“いろいろあった”のだ。九年前のあの夜以降は。

 セリーンがそこを気にするのも当然だ。あの夜のことについて、俺たちは何も話し合わず離れ離れになったのだから。正確には、俺の方が去っていったのだ。

 オフィスから黙って姿を消した俺が、そのあとどこへ行き、どう過ごしてきたのか、セリーンは知りたいのだろう。今と昔と、こんなに外見が変わってしまうほどの、どんな経験を積んできたのだろうか、と。

 本当のことなど、もちろん言えるはずがない。現在いまの俺は裏の世界に生き、尚且つ、害獣ではなく怪物を駆除している身の上なのだと、一体どうして言えるだろう。

 

 本当なら。

 本当なら今日、ここにも来るべきではなかったのだ。俺は、表社会では死んだ身だ。両手、いや全身は怪物メメントの体液で穢れ、奴らの屍をいくつも踏み越えてきた。

 そんな俺は、セリーンに近づくべきではないのだ。

 彼女を、暗い世界に触れさせてはならない。

 暗闇の道を行く俺を、彼女に見られたくない。

 だから、来るべきじゃなかった。


 ――なら、何故来た。


 それは。


 俺は残った紅茶を飲み干し、テーブルにカップを置いた。

「それじゃあ、俺は帰るよ」

 唐突に切り出すと、セリーンはオリエントブルーの目を見開く。

「え、も、もうですか?」

「ああ。いい紅茶も頂いたしね。充分なお礼だったよ」

 席を立とうと腰を浮かせる。が、慌てたセリーンが押しとどめた。

「お、お礼は紅茶じゃありません! ここに呼んだのは、あ、あたしのブレンドを飲んでほしかったからで、これだけでお礼を済ませるつもりなんてありませんから!」

「セリーン、声が」

 いきなり声のトーンを上げたセリーンを、俺は口元に指を当てて静まらせた。周囲を一瞥すれば、何人かの客がこちらに目を向けている。

 思わず大声を上げたことに恥ずかしくなったらしい。セリーンは頬を染めて俯いた。

「すみません……」

「いや、いいんだ。でも本当に、これ以上何かしてほしいとは思ってない。どうか気を遣わないでくれ」

 そう言うと、セリーンは顔を上げた。表情が不機嫌そうなのだが、何故だろう。

「先輩は、あたしに何かしてほしいとは思ってないんですか?」 

「え?」

「助けたお礼が紅茶だけでいいんですか?」

「いや、俺は別に、それで充分だと」

「あたしは充分じゃないんです、お茶一杯でお礼が出来たなんて思えません」

「だが、そうは言ったって」

「だから、ちゃんとしたお礼を、他にするつもりなんです」

「セリーン、俺は」

「夕食、ご馳走させてください」

 セリーンの眼差しは真剣そのもので、俺にこれ以上の反論をさせない迫力は、充分にあった。

「また連絡しますから。断らないでください。また、あたしと会ってください」

 真正面から飾らない素直な言葉をぶつけられても、それを振り払うだけの非情さが俺にあればよかったのに。 

 断りきれなかった俺は、その夜にもう一度彼女と会う約束をしてしまったのだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ