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 あの時のことを思い出そうとすると、まず身体中に寒気がはしる。日中に雪が降り、夜になって零度まで気温が下がった日だったからだ。九年前のことだ。

 

 俺は路地裏の袋小路で、壁に背を張りつけて座り込んでいた。二棟の格安商業ビルに囲まれた人通りのないその場所は、街のネオンもほとんど届かない、寂しい所だった。まるで死の国の谷底だ。

 動くものは何もなく、歯の根が合わないほどガタガタ震える俺だけがいた。

 つい先ほどまでは、他にもいたのだが。

 俺は全身ずぶ濡れだった。鼻や口から吐き出された息が、たちまち白く凍る。こんな寒い夜に濡れそぼっていれば、震えるのは当然だ。だが、濡れたのは雪にまみれた所為じゃない。頭のてっぺんから、赤いものの混じった液体をかぶったからだ。

 赤いものというのは、想像がつくだろうが、血だ。何か、厭な感触の粘液に大量の血が混ざっていて、俺の身に降り注いだのだ。

 唾液のような、胃液のような、とにかく不愉快な代物しろもので、血だけならまだしも、肉片やら骨の一部やら、生き物を形成するモノの欠片までもが混在していたから、傍目の俺は、それは凄まじく悲惨な様子だったことだろう。

 周辺にも、その赤い粘液と肉片が飛び散っていた。強烈な血の匂いが、あたりには充満していただろうが、感覚の麻痺した俺に分かるはずもない。

 壮絶な有様の俺を、天高くから静かに振りそそぐ月光が照らしていた。

 俺は両腕の中に、あるものを抱えていた。そいつの形状が、何かに似ているとずっと思っていたのだが、最近になって、ニンジャが持っている“クナイ”とかいう投擲武器に似ていると、俺の中で結論が下った。

 本物のクナイは、てのひらに収まる程度の小さな刃物だが、俺の腕の中に抱えられたそれは、もっとずっと大きなもので、明らかにテクノロジーの産物だった。機械の武器だ。俺は、機械で出来た大きなクナイを、守護天使か何かにすがりつくように、震えながら必死に抱きしめていた、というわけだ。

 

 哀れな俺がその場に座り込んでから、どのくらい時間が過ぎただろうか。

 

 ふいに、何かが俺の頭上に影を落とした。怯えきっていた俺は、びくっと肩を跳ねさせて縮こまった。

 恐る恐る見上げてみれば、巨大な物体が俺の前に立っている。闇の中、背後の建物の看板から放たれる逆光を受け、更に深く濃い影に包まれたその物体の輪郭は、猛々しい熊を彷彿とさせた。

 新手がやって来たと思い込んだ俺は、ひい、と情けない悲鳴を小さく上げ、腕の中のクナイを強く握り直した。そうしたところで、武器を使いこなせる力を持たない俺が、この窮地を乗りきれるはずはないのだが。

 熊の影が、そのまま俺をただ見下ろしているだけだったら、恐怖がピークに達して失禁していたかもしれない。だが、熊の影が話しかけてきたおかげで、粗相はしでかさずに済んだ。

 熊の影は、片膝立ちになって俺の顔を覗き込み、低く唸るような声で言った。ああ、人間の男だ。

「その武器の持ち主は、どこへ行った?」

 熊男の言葉が脳に浸透するまでには、少々時間がかかった。何しろ思考が停止していたからな。

 質問されたのだということと、質問の内容を理解した俺は、その答えとして、弱々しく小刻みに首を横に振った。

 俺が大切に抱いているクナイは、俺のものじゃない。さっきまで俺と一緒にいた男のものだ。そいつは、今はもうどこにもいない。俺を赤く染め上げた粘液と、周囲に散った肉片が、その男の名残りだ。

 熊男は首を振る俺を見て、

「そうか」

 と、呟き、わずかに俯いた。それはほんの一時のことで、熊男はすぐに顔を上げた。

 俺はまだ放心状態だった。視線は宙をさまよい、目の前の男だけでなく、周囲の風景も視野に入らなかった。

 だが、何も見えていなかったわけではない。

 俺は視ていた。先刻繰り広げられた惨劇を。その記憶を。

 焼きついた恐ろしい出来事は、いつまでたっても視界から消えず、俺を縛りつける。一瞬にして引き裂かれた身体、細切れになって飛び散った肉とはらわた、雨となって降り注ぐ血液と粘液。ごくごく平凡な日常を送っていた、二十代前半の若造の精神を崩壊させるには充分すぎた。

「おい」

 男は俺の顔に片手を近づけ、左右の目それぞれの前で指を鳴らした。

「大丈夫か? ほら、こっちを見ろ。“そっち”じゃねえ、こっちだ」

 男はごつくて大きな手で俺の顎を掴み、正面を向かせた。俺の目は、ようやく現実の、実在の男を認めた。

「俺の言うことが分かるか?」

 こくこくと頷く。

「よし。なら、ここで何があったのか話してくれ。まず場所を移動しよう。お前、すいぶんとひでェ有様だぞ。名前はなんだ?」

 俺は口を開いたつもりだが、実際には一ミリほどしか唇は動いていなかった。開いているのかいないのか分からない唇の隙間からは、およそ言葉とは言えない呻き声だけが漏れる。

 熊男に肩を借りて立ち上がる時の俺は、生まれたての小鹿そのものだった。おぼつかない足で、男に頼りながらよたよたと歩き、車に乗せられて、どこかの建物の中に連れて行かれた。

 そこで、俺と男との間にどんなやり取りが交わされたのかは、詳しく覚えていない。まったく頼りにならない喋り方だっただろうが、事情説明だけはしたはずだ。

 次に気がついた時、俺は自室のベッドの中にいた。目を開けて、最初に視界に入ったのは天井。続いて布団や毛布の感触、特徴のない平凡な内装、窓から射し込む朝の光。心身に馴染みきった、いつも通りの光景だった。

 高くもなく安くもない、そこそこ見栄を張れる程度の中級マンション二十三階の一室だ。

 俺自身もまた、いつも通りの俺に戻っていた。全身には赤い粘液も人間の欠片も付着しておらず、清潔なルームウェアをしっかりと着ていた。 

何もかもが、あまりにも“いつも通り”だった。変わった部分など、どこにもなかった。

 だから俺は、いつも通りに思った。

 会社に行かなければ、と。

 もしも部屋に、赤く染まって汚れたスーツや、ニンジャが持っていそうな妙な武器が置かれていれば、俺は昨晩の恐ろしい出来事を、たちまち思い出したことだろう。

 だが、夕べの悲劇を裏付ける物的証拠は何一つなく、証人である俺自身は、その記憶を手放していた。

 当たり前すぎる日常にいつの間にか戻っていた俺は、昨晩起きた非日常的な出来事を、夢だと思い込んだ。あれは現実ではない。ただの夢だったのだと、脳が俺を騙したのだ。

 俺はのろのろとベッドから這い出て、倦怠感に満ちた身体に鞭打ち、身支度を整え、部屋を出た。

 オフィスはグリーンベイにある。複合商業ビルの七階の平凡な商社だ。凡人の俺には似合いの勤め先だった。

 くたびれたスーツ姿で、大勢の通勤者に揉まれながら、高架線路エアレイルを走るスカイリニアに運ばれていく。オフィスでは人遣いが荒いだけの上司に怒鳴られ、仲間内ではもっとも格下の扱い。周りの女たちには相手にされない。

 俺は、ただそこにいるだけの人間だった。

 まだ若いのに将来への夢や希望もなく、ただひたすら、同じような毎日を繰り返していた。空気のような人生だ。いや、空気は真っ透明で存在は見えないが、あらゆる生命体を養っている大偉業を成し遂げている。俺は誰一人として養えていない。

 仕事に忙殺され、私生活を潤す暇もなく、俺はただ、無心に生きるだけだった。

 頭の中では、“あの日”の出来事は、本当に夢だったのだとして完全に処理された。


 処理されたはずだった。


 俺は分かっていなかったのだ。“あの日”、すでに俺は変わり始めて……変わらざるを得ないところにまで迷い込んでしまっていたことを。

 俺があの日に視た闇は、確実に俺の中に根を張り、育ち、気づかないうちに侵食していた。

 表面上は平凡な毎日を送り続けていたが、俺の自覚しないところで、侵食した闇は芽吹いたのだ。


 俺の“平凡な毎日”は徐々に徐々に蝕まれていった。夢の中の出来事にしていたつもりのあの日の記憶が、少しずつ蘇ってきたからだ。

 もうごまかせない。俺は確かに見た。この世界の裏に潜む〈闇〉を。 

 世界の裏側には、普通の生活を送る人々が決して知ることのない、知ってはならない“真実”が隠されている。

 俺は、その“真実”の一部に遭遇した。

 世闇には、おぞましい存在が蠢いている。そして、その蠢くモノと対峙する者が存在する。

 触れてしまった真実からは逃れられない。


 そうして、俺は。


        *


 そうして、俺はここにいる。


        *


 群れ建つビルに阻まれて見えない地平線から、輝く黄金の帯が現れる。黄金の帯は、漆黒で覆われていた空を射る。

 風はなく、周囲で音を立てるものはない。

 夜更かしの街が完全に眠りについたのは、ほんの三時間前。街の休息は短い。あと三十分もすれば、太陽が顔を出し、昨日と同じように、だが決して同じではない一日が始まる。

 時間に猶予はないが、余裕がないわけではない。街が動き始めるまでに済ませなければならないのだが、三十分もあるなら充分だ。

 俺は、白み始めた地平線を背に、ゆっくりと歩き出す。履き慣れた牛革のワークブーツの靴底が、歩くたびに、じゃり、じゃり、と呟きを漏らす。そのわずかばかりの音をBGMにして、俺は狭くて薄暗い路地の奥へと進んだ。

 路地の突き当たりは強化格子のフェンスだった。フェンスの向こうはスクラップ工場だ。街中から運び込まれた様々なガラクタの小山が、敷地内のいたる所に出来ている。フェンスの端には切り取ったような格子の扉があり、こちら側と工場とを行き来出来るようになっていた。

 だが、午前五時に起き出してわざわざ出向くような用事は、スクラップ工場にはない。

 俺の相手は、そのフェンスにしがみついている、七つの丸い物体だ。

 そいつらを例えるなら、中型犬程度の大きさのノミ、だろうか。楕円形の体に、糸鋸いとのこぎりのような足がきっちり六本ある。顎にはイソギンチャクに似た短い触手が無数に生え、その中心から、鋼のストローのようなふんが飛び出している。吻の先端は、切り返しのある刃物状になっていて、危険極まりない。

 動物に寄生するには大きすぎるその蚤は、俺たち・・・の間でホッパーと呼ばれている。“奴ら”の一種で、個体数が多いために出現率も高い。だいたい群れているが、機嫌を損ねた赤ん坊ほどにもてこずりはしない。つまりは雑魚中の雑魚だ。

 俺は背中に右手を回し、丈夫な革のホルダーに固定していた得物を掴んだ。手首だけを動かしてくるりと回転させ、得物の先端を前方に向ける。

 俺の手の中にある得物。それは、クナイというニンジャの武器に似た、機械の剣だ。トランプのダイヤのマークを引き伸ばしたような形の刀身を持ち、柄頭ヘッドは輪になっている。見た目に反して意外に軽い。軽すぎて、かえって扱いにくいといわれる“ターンエッジ”タイプの武器だ。

 俺のターンエッジ〈スティングリング〉のカラーリングは、メタリックなジェイド・グリーンで、振り回せば鮮やかなみどりの輝く筋を残す。美しい軌跡だが、成し遂げる仕事は凶暴だ。

 俺が武器を手にしたのを察したか、七体のホッパーの背中がぱっくりと割れ、そこから濁った灰色をした、大きな一つ目が現れた。

 灰色目玉はぎょろぎょろとせわしなく動き、やがて俺に注目した。

 途端、七対のホッパーが一斉に跳躍し、フェンスから離れた。丸い胴体を空中でひねり、糸鋸の生えた足を広げて、俺に襲いかかる。

 俺は〈スティングリング〉を振り上げ、顔面に落ちてきたホッパーを無造作に一刀両断した。真っ二つになったホッパーは、地面に落下するより先に、空中で消滅した。硫黄のような臭気が立ち昇る。

 それから立て続けに三体、飛び掛ってくるホッパーどもを斬り払った。俺の手捌きと足運びに応じて、〈スティングリング〉の翠の軌跡がえがかれる。そして同時に、鋭利な質量を伴った風が、鎌鼬カマイタチのように発生する。〈スティングリング〉に搭載された〈具象装置フェノミネイター〉と呼ばれるシステムによるものだ。これこそが、“奴ら”を屠るための武器――クロセストの核心なのだ。

 ホッパー七体程度に時間をかけたくない。残りの三体はまとめて始末する。

 俺は〈スティングリング〉の柄頭ヘッドの輪に中指と人差し指を掛けた。輪の外側に位置する小さなスイッチを親指で操作すると、〈スティングリング〉の内部機関が動き出す。

 ターンエッジを前後に振る。すると輪の内側を軸にして〈スティングリング〉が回転した。俺は投石紐(スリングのように得物を振り回し、充分に勢いをつけたところで、ホッパーに向けて投げつけた。

 放たれた〈スティングリング〉は、地面の上のホッパーめがけて、角度を落として飛んだ。普通の物体なら、こんな動きは決してしない。

 猛烈な勢いで回転する俺の得物は、弧を描きながら、三体のホッパーをいとも簡単に断裁した。

 胴が二つに分かれたホッパーたちは、臭い蒸気を放出させて、あっけなく消えていった。

 倒すべき相手がいなくなっても、〈スティングリング〉は未だに空中で回転し続けている。俺が右手を上に掲げると、〈スティングリング〉は物理的にありえない動きで急速に軌道を変え、俺の手元に飛んできた。利き手の中指に装着した、コントローラーの力だ。

 俺は武器のグリップを掴み、そのまま背中のホルダーに固定した。

 七体の怪物は死に、路地には俺だけが立っている。

 振り返れば、太陽はまだ、ビルの向こうから顔を出していない。建物と建物の間から、黄金色の光の筋が漏れている。

 俺は身体の向きを変え、表通りへと戻り始めた。

 

        *


 メメントと呼ばれる異形のモノたちが、闇の中を跋扈している。

 それがいったい、いつの頃から存在していたのか。なぜ在るのか。まだ明らかになっていない。

 ただ一つ明確なのは、メメントは人類を脅かすものである、ということだ。

 メメントはあらゆる生物の死骸が、何らかの原因によって異形へと変貌したものである。メメント化した生物は、生前の生態を失い、暴虐の限りを尽くすだけの、まったく異なる魔物となる。

 この脅威の魔物を倒すには、特殊な武器が必要だった。このため、メメントの駆除は主に軍部が執り行っている。

 しかし、もう一つ別のところに、メメントに対抗する勢力があった。

 それが裏社会の職種の一つ、〈異法者ペイガン〉である。

〈異法者〉は、裏稼業の中でもっとも特殊な部類に属する。人智を超えた怪物を相手にするのだから当然だ。おまけに誰にでもやれる仕事じゃない。

 俺のような、他に何も取り柄のない奴こそ、〈異法者〉に最適だ。他に何もないから、怪物退治に専念出来る。〈異法者〉に求められるのは、ただただ愚直に異形と向き合えるスキルだけだ。 

 世界の裏に蔓延はびこる闇、メメントの存在を知った俺は、その事実から目を背けることが出来なかった。

 理由は、人命を脅かす化け物の存在を放ってはおけない、などという取って付けたような正義感によるものではない。むしろ恐怖心からきた強迫観念だ。

 隠されていた闇を知ってしまった俺の存在を、闇もまた知っているのではないか、と。

 背けられない真実から逃げる方法は、ひとつしかない。

 自らその中に飛び込むのだ。炎に引き寄せられ、燃えてしまう蛾のように。

 俺は何の変哲もない安寧の生活を捨て、“こちらの世界”に足を踏み入れた。安物のスーツを脱ぎ捨て、ヴィンテージのライダースジャケットとジーンズを着、ビジネスバッグを放り投げて、〈スティングリング〉を手に取った。

 見知らぬ男の形見となったターンエッジを相棒に、俺は怪物を狩り続けている。


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