表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

【競演】足音のするらしい廊下

作者: なぎのき

 私の家族は、年に一度「家族旅行」に行く。

 私と一つ違いの兄は、なぜかいつも乗り気じゃない。

 子供の頃、といっても私はまだ高校1年なので大した昔じゃないけど、まぁ子供の頃はお兄ちゃんも私も無邪気に面白がって付いて行ってたんだけど。

 でも今年は違った。

 お兄ちゃんは高二になり、ニキビも収まって、自転車通学なのでスリムな割に筋肉質という、カッコイイ部類に入る。とクラスメイトから聞いた。私にはそうは思えないけど。

 そのお兄ちゃんが突然こんなことを言い出した。

「なぁ茉莉」

「なぁにー」

 私はポテチをバリボリ食べつつ生返事した。

「今年で最後にしようと思うんだ」

「ふぁにを?」

 まだ口の中のポテチが発音を邪魔する。でも通じたと思う。

「家族旅行だよ」

「ふぁっ?」

 そうして最後の家族旅行のプラン作成が始まった。



 私をお兄ちゃんは、なぜか私の部屋にいた。理由は単純。余計な物がないからだ。

 お兄ちゃんはいろいろ溜め込んだ上捨てられない人なのだ。

 でも、お風呂あがりのレディの部屋ですることではないとも思った。

「電車やバスは面倒だから車で移動する。そして自宅から日帰り出来る範囲内を想定する。ここまではいいな?」

 お兄ちゃんはテキパキと地図を広げ、タブレット端末でその圏内の温泉宿の一覧を検索した。

「いいんじゃない?」

 私は、長い髪を後ろに束ねつつ、お兄ちゃんの話を聞き流した。

「お前聞いてんのか?」

「聞いてますよー」

 と私はテレビのリモコンを手にした。

「茉莉……」

 視界には入っていないが、こめかみの辺りを押さえるお兄ちゃんの姿が想像出来た。

「お前、やる気あんのか?」

「ありますよー」

「その言葉、真実味がない」

「ありますよー」

「もういい!」

 あ、キレた。

 視線を移すと、狭いパステル調のテーブルの上で、あーでもないこーでもないとぶつぶつ言いながら、何やら床に置いた(テーブルが狭くて置けないので)ノートPCに打ち込んでいる。

 私はそんなお兄ちゃんのひたむきな姿を眺めつつ、黙っていれば勝手にプランが出来上がりそうなので放っておくことにした。いや。温かい目で見守る事にした。



 しばし待つこと一時間。

「よし。出来た!」

 私が面白くもないテレビドラマをぼけっと眺めていると、そう言ってお兄ちゃんが立ち上がった。

 どれどれ。

 私は、お兄ちゃんが丹精込めて打ち込んだノートPCをひったくった。

 で画面を見る。

 細かい文字がずらーっと並んでいた。

――よくこんなに文字やら数値が打てるもんだわ。

 我が兄ながら、ちょっと見なおした。

「で、結論はどうなったの?」

「お前なー」

 お兄ちゃんは、がくーっと肩を落とした。

「そこに行き着くまで、オレがどんなに苦労したか」

「でも決まったんでしょ?」

 私はなぜか落ち込んでいるお兄ちゃんの背中を見た。そこには哀愁があった。

「片道二時間の移動で到達可能な旅館を絞り込んだ。後はオヤジとのすり合わせだ」

「ふぅん」

 私は横目でそのリストを見た。あまり『面白そうな』旅館は見当たらなかった。

「お父さんがそれで納得するかなぁ」

「させる!」

 我が兄は力強くそう言い切り、お父さんのいる書斎に向かった。



 その後様々な激論が交わされたのか、お父さんが家長としての特権を行使したのかは分からない。

 ただ、お兄ちゃんの思惑は大きく外れたのは確かだ。

 今、私たちは『秘境』にいる。

 最後に人の姿を見たのはいつだったかな。一時間くらい前かな。

 それくらい長い長い山道を突き進んで、辿り着いたのがここだ。

 鬱蒼と生い茂った木々。その隙間から見える旅館と思しき建造物。看板は錆びてほとんど読めない。

 私はワクワクした。

 ここはまごうことなき『秘境』だ。きっと面白い。そう直観した。

 お兄ちゃんはといえば、ここに到着するまでずっと文句を言いっぱなしだった。

 家族会議での挙手による採択は、賛成多数、と言っても賛成したのは私とお父さん。お母さんは流動票で、多い方につく。

 つまり、三対一でこの場所と移動手段が『可決』された。

 飛行機で移動し、そこから四輪駆動車による移動で二時間。数値はお兄ちゃんの素案のままだが、お父さんが一枚上手だった。

 それが面白くないんだろうな、とは思うけど、その文句は主に私に向けられた。裏切ったわけじゃない。私は私の信念に従ってお父さんの案に賛同した。なのにお兄ちゃんはぶちぶち文句を垂れる。もちろん聞き流したので内容は全然覚えていない。

「秘境って、何もこんな山奥の旅館じゃなくてもいいじゃないか」

 車から降りるなり、お兄ちゃんがお父さんに文句をぶつけた。ここまで来て文句を言ったところで、引き返せないんだからあきらめれば良いのに。往生際の悪い。

「何をいう!」

 お父さんは、ここぞとばかりに声を張った。

「見ろ、この見るからに人里離れた感。全く人の気配がない。しかも予約する手間すらいらないという便利さ。その上キャンセル料も取らないという大変親切な旅館だぞ? お前のいう自宅近辺数キロ圏内の旅館とはワケが違う」

 お父さんの言葉は、私の内なる言葉と一致していた。

 だからお兄ちゃんにどう思うか尋ねられた時、私はこう即答した。

「素敵っ!」



 何となく傾いているような旅館の外見と違い、きちっと和服を着こなした女将さんはキビキビしていた。

「いらっしゃいませ。お待ちしておりました。三宮さんのみや様、四名でございますね? お部屋へご案内致しますので、あ、お荷物はそのままで結構です。係の者が運びますので。それから、お時間になりましたら夕食をお部屋へ運びますので……ええ、他にお客様がいらっしゃらないものですから、宴会場は閉めきっているんです。あらやだ、私ったら余計な事を……」

 私はそんな女将さんの長台詞を聞き流し、旅館の中を見回した。

 木造建築の二階建て。築何十年が経過したのか、板張りの床は足を置く度にギシギシと鳴る。

 壁もあちこちに補強や補修の跡があった。

「……お部屋が充分に空きがございますので、お一人様一部屋にも出来ますが、如何なさいますか?」

 なんですとー!

 こんな怪しい旅館で一人一部屋。こんな贅沢が許されるなんて!

 お父さんも同意見だったようで「それは素晴らしい! ぜひお願いします」と意気込んで呵々と笑った。

 まぁ一つ問題があるとすれば料金かな。

 でも、そんな私の胸中を見透かしたように女将さんがこう言った。

「料金は据え置きで結構です。旅館なのにお部屋が空いてるのも、何か寂しいですから」

 いやもう、こっちは全然OKですよ。旅館の都合なんて知らない。もう至れり尽くせりとはこの事だと私は思った。

「さぁ皆の衆、部屋は早い者勝ちだ。今年のイベントスタートだ!」

 お父さんは、もうハイテンションではしゃいでいる。年甲斐もなく、私たちをロビーに置き去りにしたまま長い板張りの廊下を猛然とダッシュした。

「ほら、お兄ちゃんも。早くしないととんでもない部屋になっちゃうよ!」

 私はもうワクワクが止まらない。

 なのにお兄ちゃんは、平然とこんな事をいうのだ。

「俺は残った部屋でいいよ」

 お前それでも私の一個上か!

 若さポイントがもう尽きたのか!

「お兄ちゃん、冷めている~」

 と、私が挑発しても「これが大人ってヤツだよ」と返してくる。

 一個違いで大人も何もへったくれもあるか!

 私は黙ってその『大人』の代表を指さした。

 そこでは、お父さんが廊下でへばっていた。

 これを見てもまだ『大人』論を言い張るのか!

「アレは例外だ」

 なんて兄だろう。面白みの欠片さえない。暑い精神は健全な体に宿るのだよ、お兄ちゃん!


* 


 部屋割りは、一番奥がお兄ちゃん。でその隣がお父さん。そしてお母さん。なんでこの二人が一緒じゃないんだろう? 夫婦なら一緒でも良いんじゃないかなと思ったけど、まぁ『一人一部屋』という旅館側の配慮(?)があったからかな? まぁせっかくの旅行なので一人でのんびりしたいのかも知れないけど。

 で、私はその隣。

 実はこれには理由があるのです。

 なんと私の部屋の目の前には自販機がある。それにはビールも置いてある。つまみもあったりする。

 こんなチャンスは滅多にない。

 ということで、意気揚々と部屋の中に足を踏み入れた。

――おおっ!

 八畳一間。広い! これを一人で専有出来るなんて、幸せいっぱいだ。

 奥の間には、ソファと小さなテーブル。作り自体は一般的だけど、ああ、いいなぁ。ちょっと古びた壁紙や障子戸は、外から見ただけでは分からない良い雰囲気を醸し出している。

 私はとりあえず部屋の真ん中に仰向けに寝転がり、両手両足を投げ出した。

 もちろん、どこにもぶつかったりしない。

 これはのんびり過ごせそうだな。

 と思ったのも束の間。

「茉莉!」

 いきなりお父さんが怒鳴り込んできた。

 ドアを開けっ放しにしていた私も悪いけど、一応『年頃』の『娘』の部屋はなずだ。ちょっとは考慮して欲しい。

「何よいきなり」

「出かけるぞ!」

 は?

「せっかく『秘境』に来たんだ。探検しなければもったいないじゃないか? そうだろう?」

 いや、そうだろう? とか言われても。

 ここは温泉旅館じゃないの?

 でもお父さんは、そんな私の胸中なんかガン無視した。

「五分後にロビーに集合だ。じゃな」

 そう言い残し、風のように去っていった。

 多分お兄ちゃんの部屋に行くんだろうな。

 私はそんなことを考えつつ、荷物を床にぶちまけて『探検用』に荷物を詰め直すのだった。



 そして一〇分後。

 薄暗いロビーには古びた真っ赤なソファが置いてあり、そこにお兄ちゃんがふんぞり返っていた。

「お前、五分後とか言われなかったか?」

 私はそんなお兄ちゃんの糾弾を聞き流し、辺りを見回した。

 完全和風な造りのロビーに、障子戸で仕切られた通路、そして高い天井。そこには年季の入った立派な梁が見えた。

 ソファと玄関ロビーとの色彩の組み合わせもすごいが、そこに平然と座り、しかも五分前に『きちんと』待っていたであろう辺りが『いかにも』お兄ちゃんらしい。

 突っ立っているのも何なので、そのソファに腰掛けた。何やら軋む音がしたけど、気にしない、気にしない。

「で、お父さんは?」

 ここにいない事も、きっと遅れてくる事も知った上で、一応聞いてみた。

「見ての通りだ」

 なんとも味気ない回答。お兄ちゃん、そこは何かオチをつけないと!

 とは言え、別に芸人になって欲しいわけでもない。

 それにお父さんの事だ。相当遅れて来るに違いない。

「まぁ、そのうち来るでしょ」

 これは偽り一つ無い、私の本心から出た言葉だ。

 この時間を利用して『探検』とやらのプランを考えよう。

 私は部屋で眺めてきたガイドブックの話を始めた。

 そのガイドブックには地図が挟まっており、それのほとんどが空白で占められていた。唯一、端っこに滝のマークがあった。注釈で『徒歩で約一時間』と記載されていたが、道を示す記号すらない地図だ。あてにならないと思う。

「まさかそこに行く気じゃないだろうな」

 お兄ちゃん、お父さんを甘く見過ぎだよ。

 そしてそれは、やっぱり現実になった。



「まだ着かないのぉ?」

 秘境探検開始一〇分で私は悲鳴を上げた。

 まさに道無き道。地図に『道』の記号が一切なかったのは、それが真実だったからだ。

 でもそれなら『滝』は一体誰が発見したんだろう? という疑問が浮かぶが、今はそれどころじゃない。

「お前徒歩一時間を舐めてるだろう?」

 お兄ちゃんは冷徹にも、そんなことをいう。

 私だって万が一を考えて色々工夫したんだ。ちゃんとスカートからパンツに穿き替えて、パンプスじゃなくスニーカーを履いて準備したんだ。

 リュックがちょっと重いのが問題だけど。

「お前さ、その中、何が入ってんだ?」

 何が入っているか。

 それを訊くのか我が兄よ。

「秘密の七つ道具」

「は?」

「秘境探検でしょ? 万が一を考えて、非常食とか寝袋とか傘とか飲み物とかその他色々入れてきたのよ」

 どうよ。この茉莉様の用意周到さ。

 ところが。

「オヤジを見てみろよ。あの軽装。きっと防虫スプレーくらいしか持ってないぞ」

 お父さんはは動きやすそうな長袖の上にサバイバルベストを羽織り、先陣きって藪こぎしていた。

 そして私は、この兄の一言で大事な物を忘れた事を知った。

「ああっ! 防虫スプレー忘れたっ!」

 失態だ!

 用意周到が聞いて呆れる。

 何となく。疲れがどっと押し寄せた感が私を襲った。



 さらに一時間が経過した。

「ねー、まだー?」

 私はたまらず文句を垂れた。

「やかましい。そんなに急かすんならお前が先頭歩け」

 お父さんはなぜかイライラしているようだ。

 それに先頭で藪こぎなんで私の役目じゃない。やるならお兄ちゃんだと思う。そう思ったので即答した。ついでに文句もくっつけた。

「無理。それに方向合ってんの? 滝に行くんだよね?」

 ところが。

「滝?」

 お父さんは、素っ頓狂な声を上げた。

「なんでそんなところに行かなきゃならんのだ?」

「は?」

 今度は、私とお兄ちゃんが素っ頓狂な声を上げる番だった。

 お兄ちゃんが狼狽えつつ、お父さんに問いかけた。

「オ、オヤジ、滝に向かってんじゃないのか?」

「だから、誰が滝に行くと言った? 俺は『秘境』に行くとしか言ってないぞ」

 こ、このオヤジは! じゃなによ! 特に目的なく藪こぎしてたんかい!

「じゃぁどこに向かってるの、私たちは?」

「そりゃ『秘境』だろう」

 お父さんはしたり顔で、鷹揚に頷いた。

 私は物凄い徒労感に襲われた。



 さらにさらに一時間が経過した。

 お父さんもさすがに疲れたらしく、藪が覆い茂る中にちょっとした隙間を見つけ、どっこらしょと座り込んだ。

 宿を出発してから二時間、ずっと歩きづめだ。しかも藪こぎしながら。四〇過ぎのお父さんにしては頑張ったほうだと思う。

 かくいう私も、そこそこ疲れている。とはいえこんなところでじっとしているのは性に合わない。

 それに、どうせ目的地なんてないんだから、ここを折り返し地点にして宿に戻る可能性もある。

「じゃ休憩ね。私はその辺うろついているから、出発するか帰るかしたら呼んで」

 私はそう言い残し、なぜか目の前に人の大きさくらいの隙間がぽっかりと開いた藪の中に歩を進めた。

――ん?

 何かある。

 石で出来た、明らかに人の手による物体。

 小さいながらも家屋の形をしているソレの中にには、何か判別出来ない物体が鎮座していた。

――祠ってやつかな?

 私はしゃがみ込んで、それをまじまじと見つめた。

 その場所だけ、まるで世界から切り取られたように静かだった。

 かつて誰かがここに来たのだろう。枯れて風化しかかっているお花が供えてあった。

「まぁここまで来たんだから、ついでだわ」

 私は意味もなく両手を合わせた。

「無事に宿に帰り着きますように」

 とこれまた意味もなくお願いしてみる。

「おい、茉莉?」

 お兄ちゃんが呼んでいる。呼んでいるけど、ひどく遠くから呼んでいるように聞こえた。

「んー?」

 私は祠から目を離せなかった。

 何だろう? 何かが引っかかる。

 そんな事をボケっと考えていると、お兄ちゃんがヘッドスライディングしてきた。転んだらしい。

 その勢いで、供えてあった、朽ちかけたお花が吹き飛んだ。

「お兄ちゃん、何してんの?」

「お前のようにはいかないってことだよ」

 意味が不明だった。

「良いんだよ、俺のことはさ。で、何見てんだ?」

 見てわからないかな? なら聞いてやる。

「ねね、お兄ちゃん、こういうのってホコラって言うんだっけ?」

「まぁ、そうだな。多分そうだ」

 多分、ね。

 でもここまで風化していると、私も断言は出来ない。ただ、人造物には違いない。そして疑問。もちろん、その疑問をぶつける先は、我が兄だ。

「なんでこんなところにあるのかなぁ?」

「何かを祀ってるんだとは思うんだが……」

 お兄ちゃんは、そう言いながら私のそばに寄ってきた。

 その時だった。

 私の頭に小石が当たった。

――はえ?

 次の瞬間。

 お兄ちゃんが私の首根っこを掴み、後ろに引き倒した。

「お、お兄ちゃん!」

 轟音がした。

 頭上にあった大きな岩が、周辺の土砂や木々を巻き込み崩れ落ちてきた。

 お兄ちゃんは、その土砂崩れに飲み込まれた。



――やだ、どうしよう。

 私は一瞬頭が真っ白になった。

「茉莉! そこをどきなさい!」

 お父さんが怒鳴る。

 私はその声で我に返った。

 ああ、そうか。私がここにいちゃいけないんだ。また何かが崩れるかも知れないんだ。

 私が一歩後ろに下がると、藪に髪が絡まった。さっきまであった隙間がなくなっていた。

――え?

 何が起きたんだろう? さっきまでの場の雰囲気が一変していた。

 頭上にはまだ崩れかかっている岩の塊。

 目下には下半身が土砂に埋まっているお兄ちゃんの姿。

 そうだ。早く助けないと!

 お父さんの行動は迅速だった。

 どこから出したのか、手にはスコップを持っていた。

 周辺を気にしながらざくざくと掘り進め、お兄ちゃんを掘り出す。

「茉莉、崇の右手を頼む」

「え、ええと。はい!」

 私はお兄ちゃんの右手を握った。石のように冷たかった。

「いいか? 引っ張るぞ」

「はい!」

「良し! それ、引っぱれ!」

 お父さんの掛け声でお兄ちゃんの右手を思いっきり引っ張った。

 その直後だった。

 さっきまでお兄ちゃんがいた場所に、上から大きな岩が降ってきた。

 間一髪だった。



 そこから先の記憶はひどく曖昧だった。

 お父さんはお兄ちゃんを背負い、来た道を戻る。

 迷いなく進むお父さんの後ろ姿は、頼もしくもあり、それでいて焦っているようにも見えた。

「お、お父さん」

「何だ」

「お兄ちゃん、大丈夫なの?」

 さっきの右手の感触。石のように冷たい感触がまだ私の手に残っている。

「大丈夫だ。見た目は怪我はない。細かい事は宿に戻ってからだ」

 お父さんはそれきり黙ったまま、宿に向かって足早に歩を進めた。

 私は置いていかれないように慌てて後を追った。



 宿に戻ると、お母さんが宿の前で待ち構えていた。

「お母さん! お兄ちゃんが!」

「見れば分かるわ。まず落ち着きなさい」

 お母さんは冷静だった。

「崇は?」

「土砂崩れに巻き込まれた」

「そう。気を失っているだけ?」

「多分な」

 端的な会話が続くが、必要最小限の情報でお互いの理解ができている。

 夫婦ってこんなかぁと思わずにはいられない。

 いやいや、そんなことより。

「お父さん、早くお医者さん呼ばないと」

「お待ちください。今から村の診療所に連絡しても、明日の朝になります」

 女将さんが口を挟む。

「そんな! じゃどうするんですか!」

 私は自分が冷静ではない事に気がついた。

 普段は散々小馬鹿にしているお兄ちゃんだが、やっぱり私のお兄ちゃんなのだ、と改めて自覚した。

「源さん」

「あいよ」

 女将さんが「源さん」とかいう初老の男性を呼んだ。厨房から現れたので、料理人だろうか?

 お兄ちゃんは部屋に運ばれ、布団に寝かされた。それでも目を覚まさない。

「右足のここ、打撲だな。骨まではいってない」

 源さんはお兄ちゃんの右足を触り、そう断じた。

 医者でもないのに、ここまではっきりと断定するのはどうなんだろう?

 よほど不審な顔をしたいたんだろう。

 源さんが私の胸中を見透かしたように、恐ろしいことを告げた。

「ワシに解体できんモノはない。人間の骨格なんてのは見りゃすぐ分かる」

 解体……。まるで猟奇殺人の犯人みたいなことをいう源さんだった。

 でもその程度で良かった。

 私はまた、あの時の右手の感触を思い出した。

 あの時のお兄ちゃんの右手。

 石のように冷たい手。

「よし。茉莉、行くぞ」

 お父さんが立ち上がり、ってええ? どこ行くの? お兄ちゃんを放っておいて?

「『探検』が終わっていない」

 な――!

「それどころじゃないでしょ! お兄ちゃんが怪我したのに!」

「茉莉、崇は大丈夫だ。後は安静にしていればいずれ気がつく」

「だったら尚更――」

「いいか茉莉」

 お父さんの語気に気圧され、私は続く言葉を飲み込んだ。

「崇は『探検中』に不慮の事故で脱落を余儀なくされた。それに俺たちがここにいても出来る事はない。お母さんもいるし、女将さんもいる。なら俺たちに出来る事は何だ?」

 何を言ってるんだ、このオヤジは?

「『秘境』の『探検』を完遂させることが、崇への弔いだ。せめてそれくらいはしないとな」

 と、弔いって。

 お兄ちゃんまだ死んでないよう……。

「茉莉」

 お母さんが私の肩に手を置いた。

「お父さんの性格は分かっているでしょう? ここはお母さんがいるから大丈夫。あなたはお父さんのそばにいてあげて」

 は――?

 この親は一体何を考えているんだ。

 自分たちの息子が大怪我したんだぞ?

「崇が目を覚ましたら、絶対に『探検』がどうなったか訊くだろう。その時になんの成果もなく、ただここで看病してました、なんて言ったら……崇がどう思うか」

 私は、その言葉にはっとした。

 お兄ちゃんの事だ。きっと自分のせいで『探検』が中断され、自分のせいだと自らを責めるに違いない。

 まったく。

 厄介な家族だわ。

「お父さん」

「ん?」

「今度はちゃんと『滝』に向かってね」

 お父さんは私のその言葉に、満足そうに頷いた。

「もちろんだとも!」



 私とお父さんは宿に戻り、まずお風呂に入った。汗でベトベトだし、衣服はボロボロ。まず身を清めないと。

 さすがにぶっ続けでの散策(?)はきつかった。

「さぁ茉莉。風呂だ。良い物を見た後は風呂でそれを噛み締めながらゆったり過ごす。これが旅の醍醐味だ。なんなら一緒に入るか?」

 なにおう!

 と言葉が口に出る前に手が出た。

 すっぱーん、とお父さんの頬に私の右ストレートが炸裂した。

 お父さんはあっけなく地に伏した。

「言うに事欠いて、何言ってのよ!」

「いや、俺は家族間の親睦をより深めようと」

 げし。

 今度は私の足がお父さんの少し出っ張ってきたお腹に突き刺さった。

「げふぅ」

 カエルの潰れたような声を出し、お父さんはもんどり打って沈黙した。

 可憐な女子高生に対しての暴言の数々。これでくらいで済んだのは、この茉莉様の寛容でだだっ広い心の賜物なのだよ。覚えておきなさい。

「お母さーん、お風呂行こうよー」

 私はロビーで苦しそうにジタバタしているお父さんを尻目に、お母さんの元に向かう私だった。

 


 お風呂は、これまた外見からは想像も出来ない、いい雰囲気を出していた。

 檜造りの浴槽、古めかしいタイル貼りの床。

 年季の入った桶。

 古びた温泉旅館のイメージとピッタリだ。

「あー疲れたー」

 のびのびと足を伸ばす。

 その足で思い出した。

「あ、お母さん、お兄ちゃんは?」

 お母さんは、ゆっくりとこちらを向いた。万年平社員の奥さんにしておくには勿体無いほどの優雅さがあった。

 実際、なんでこの二人がくっついたんだろう?

 おっと、それよりも。

「崇は大丈夫。目を覚ましたし、お腹も空いているそうよ。足以外は元気ね」

「他に怪我は?」

「なかったわ。土砂に埋もれたって聞いていたからちょっと心配だったけど。ただ、まだ動けない。夕食は崇の部屋に運んでもらいましょう」

 まぁ、それはそれで私に異存はない。

 どうせ誰かの部屋に集まって食事すると思ってたから、色々な都合を考えると、お兄ちゃんの部屋だろうな。

「宴会、かな?」

 私がそういうと、お母さんはにっこり笑って、こう切り返した。

「宴会になるといいわね」

 何やら含みを残した言葉に、私はお母さんの思惑を図りかねた。でも家族団欒で食事をするのは良いことだ。

 と思って気がついた。

 お兄ちゃんの部屋で食事するという事は、自販機で禁断の果実に手が出せないという事じゃないか?

 食事が済んで部屋に戻って、それからという手段もあるけど、お母さんが何か手を打っている可能性がある。私はお母さんの笑みを見て、そう直観した。

――世の中、そう甘くない。そういうことなのね。

 何となく、残念。

 でも抵抗はしてみよう。

 ダメならダメで、どうせ未成年な私は、それを諦めてたって別にどうってことはない。

 ちょっとガッカリするくらいだ、けど……。



「というわけでな。結局滝まで足を延ばしたのだ。見せたかったなぁ」

 お父さんは、お風呂から上がってほっかほかで上機嫌だ。『探検』の結果報告も、つい熱が入っていた。

 その説明自体は詳細だったけど、デジカメを持って行かなかったので、お兄ちゃんには、お父さんの熱弁だけ。ちょっと可哀想な気がした。

 実際、滝は綺麗だった。周囲に人の気配などなく完全に自然の中にある滝は、力強く水を水面に叩きつけ、生命力に満ち溢れていた。

 観光地などの道路沿いにある、いわゆる『名所』にある滝とは雲泥の差だ。

「ほわー、スゴイね」

「そうだろう? 自然ってのはこういうことなんだ」

 お父さんは、満足気な顔をしていた。

 こういう時だけ、男との人って格好良く見える。ズルいなぁ。

 まぁでも、ここまでの苦労を考えれば、私も頑張ったと思う。誰も褒めてはくれないけれど。

 それより問題は帰り道だった。

 滝まで片道二時間ということは、また二時間歩かなければいけないわけで。

 とりあえず満足したお父さんは足取りも軽く、帰路に就くのだが、私はもう限界だった。

「ねぇお父さん」

「ふっふふーん」

 なぜ鼻歌を?

「お父さん、聞いてる?」

「聞こえているが、断る」

「まだ何も言ってない」

「どうせおぶって欲しいとか言うつもりだったんだろう? 俺はそんなに甘くないぞ?」

 図星だった。

「『探検』ってのは自分の足で苦労して普段得られないモノを得る。そこに価値があるのだよ」

 お父さんは持論を述べ、悦に浸っていた。

 何か良いこと言ったつもりだろうが、私にはさっぱり理解できない。

 とまぁそんなわけで、私は自分の限界を超える努力をせざるを得なかったのだ。



「さて、与太話はそこまで。食事にしましょう」

 部屋の隅で、お父さんとっ散らかした着替えやら荷物を片付けていた母が、至極現実的な事を口にした。

「さっき確認したら、食事はこの部屋に運んでくれるそうよ。さ、あなたもどいてどいて」

 お母さんはお父さんを置物のようにどかして、隅に寄せられていたテーブルを部屋の中央に引っ張り出し、座椅子を並べた。

「なぁ母さん、俺の話にはまだ続きが」

「そんなのは食事しながらでも良いでしょう?」

 もっともだ。

 私はヘトヘトだし、お腹はペコペコだ。

 写真もなく、お父さんの過度に美化した与太話なんかもううんざりだ。見るとお兄ちゃんも、見るからにうんざりそうな顔をしていた。

 それを見計らったかのように、女将さんが登場。

 待ってましたっ!

 四人分の夕食は、それなりに量がある。見ると女将さんしかいない。はて? 料理長兼お医者さんの源さんはどこ行った?

「ほら動ける人は料理を運ぶ! 今女将さん一人しかいないんだから、手伝いなさい!」

 お母さんがパンパンと手を叩いた。それを合図に怪我で起き上がれないお兄ちゃんを除く全員が立ち上がる。と言っても私とお父さんだけだけど。

 そして、ひと通り料理がテーブルに並ぶ。

 宴が始まった。



 宴が終わった。

 テーブルに並んだ料理のほとんどが消え、私たちは確かな満足感を得た。

 お父さんは熱燗二本で酔い潰れ、意味不明な言葉をつぶやいている。探検の続きか、その話の続きかのどちらかだと思う。

 ふと、私はお兄ちゃんが怪我をした祠のことを思い出した。

 一体何が祀られていたのか。

 あの朽ちかけたお花は、誰が供えたのか。

 入るときは藪絡まなかったのに、お兄ちゃんが土砂に埋まった途端、その場の雰囲気が変わったような気がしたのはなぜか。

 あの時。私が祠を見つけた瞬間。

 時間が止まったような気がした。

 あの場所は、特別な場所だったのかも知れないし、そうでもないのかも知れない。

 女将さんに聞けば何か教えてくれるかも知れないけど、なぜか聞けなかった。口に出そうとすると、どうしても言葉が形を成さない。

 それに、私にとっては、その後に見た滝の方が関心があった。

 自然の造形はかくも見事なものだ。目を閉じ、耳を澄ませば、まだあの情景がよみがえる。

 それほど強烈な印象だった。

「さて。このぐーたら亭主も潰れたことだし、寝る準備よ」

 お母さんが立ち上がった。

 お父さんはぐたぐたと何かを呟いていたが、またしても置物のように部屋の隅に寄せられた。

 私とお母さんは押入れから人数分の布団を引っ張りだし、テキパキと、四人分の寝床が準備した。

 女将さんの出番は、この母の前では無きに等しいらしい。

 そろそろかな? と様子を伺いに来た女将さんの表情を見れば分かる。この客は放っておいても良い。

 女将さんは廊下に積まれた空の皿やら食器をトレイに載せ、廊下をきしませて戻っていった。

「崇は動かせないからね。それに怪我人を一人で放っておく訳にはいかないでしょう?」

 忙しく布団を敷き直しながら、母親らしいセリフを吐く母だった。



 さすがに疲れがどっと来た。

 温泉に浸かり、食事をし、もう休んでいいよと体が訴えている。

――くっ。自販機の禁断の果実が……。

 頭ではをそれを実行しようとするのだが、体がもう勝手に動いている。

 パジャマに着替え、顔を洗い、葉を磨き。

 布団に潜り込むと、もう逆らえない。睡魔ってヤツは厄介だわ。

 まぁ良いや。お酒は二十歳になってから。良い子は眠れる時に眠るのだ。

 私は瞬時に意識を放棄し、まどろみの中へ沈んでいった。

 


 朝になり、皆が起きていない事を確認すると、抜き足差し足で自販機に向かった。単純に水を買おうとしたのだ。

 そこで気がついた。

 来た時はあったはずのお酒類が一切消えていた。

 やっぱりお母さんが手を打っていたのだ。

――くそう。

 ちょっと悔しいが、お母さんが未成年の愚行を見過ごすはずがない。

 そそくさと水だけ買って部屋に戻る私だった。



 以来、家族で旅行することはなくなった。

 また、私も受験を控え、そんな余裕もなくなって来ていたし。

 お兄ちゃんに至っては、一浪しちゃったし。

 お父さんとお母さんたまに出かけている見たいだけど。

 ただ気になるのが、あの祠だ。

 一体何が祀られていたのか。それは今でも分からない。

 お兄ちゃんが不思議な体験をしたとかほざいていたが、どこまで本当なのか。

 でも。

 誰もいないはずの廊下が鳴り、ドアを掻きむしったと聞かされて、何となく納得した。

 供えてあったお花を祠ごと土砂に埋めたのは私とお兄ちゃんだ。

 あの祠の人(?)が何かを伝えに来たのかも知れない。もしかしたら怒っていたのかも。

 よく考えると恐怖体験そのものだが、私は寝ていたから覚えていない。

 ただ。

 最後の家族旅行にしては上出来だったと思う。

 自然の、あるがままの姿の滝。

 正直、圧倒された。本物だとも思った。

 そして、良く言えば趣のある古びた温泉宿。

 お酒を呑めなかったのは残念だけど、まぁそれは仕方がない。

 お兄ちゃんの恐怖体験(?)も、きっといい思い出になるだろうし。

 そして私は、受験が終わったら、そして希望する大学に合格したら、友人達と合格旅行に行く。

 もちろん『あの旅館』に。やり残した事があるからだ。

 友達に滝を見せてあげたいし、自販機の件もある。

 そして祠を掘り起こして、無事合格した事を報告する予定だ。

 なぜかそうしなければならない、そんな気がしたから。


 了

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ