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ロスト・メモリーズ  作者: 由里名雪
鈴白凜
9/33

鈴白凛ー9ー

 恙無つつがなく残りの授業もこなし、今はホームルームの真っ最中。七月の後半に差し掛かり夏休みが近いので、クラス担任が夏休み中の注意事項が書かれたプリントを読み上げていた。

 だがしかし面白くも何ともない注意事項を真面目に聞いている生徒は少なく、控えめな談笑の声に教室は包まれていた。

 いつもの事なので慣れたのか担任としても口うるさく注意するつもりはないらしく、生徒の声に混ざって淡々とプリントを読む担任の声が聞こえてくる。

 それにしても、もう夏休みか。月日が過ぎるのは早いものだ、なんて年甲斐もなく一人ごちる。

 ついこの前まで一年生だったような気がするが、気が付いてみればもう高二の夏だ。すぐに三年生になって、それぞれの進路に沿って高校を卒業する事になるだろう。

 それまでには何か一つでも忘れられないような思い出を作りたい所である。

 例えば彼女をつくる、とか。……まず好きな人とかいないしな。というか本気で人を好きになったりした事がないので、イマイチそういった感覚が俺には分からないのだった。

 大体高校に入学してから青春らしいイベントが俺に起こらないというのは如何なものか。怒ってどうにかなるものではないのは重々承知しているが。

 青春らしいイベントとは一例を挙げれば、入学してクラスの席が初めて隣になった生徒が女子で、最初は緊張して話掛けられず悶々としながらもやがてお互い打ち解けて仲良くなって、段々お互いの事を意識し始めて────とかそういうのだ。

 ……って俺は乙女か。柄にもなくくだらない事を考えてしまった。まあ何にせよ、そういったイベントの一つくらい起こってもいいと思うのだ。

 しかし一年の時初めてクラスの席で隣になった奴は男子だった。もちろんそいつとは普通に仲良くなったし、打ち解けることができたが二年生になって別のクラスになった。あまり会うこともないので、今ではそんなに話したりはしない。廊下ですれ違ったら挨拶する、と言った程度の仲だ。

 ふと隣の席を見る。俺の席は教室の最後列の窓際だ。その一つ右隣の席にあるはずの生徒の姿は無い。二つ隣の席には男子生徒が座っているので、最初から空いている席ではないはずなのだが、二年生になってからこの席に誰かが座っているのを目にした事は無かった。

 疑問に思わない事もなかったが、窓際の席で且つ隣に人がいないというのは中々気楽だったので、特に気にしていない。隅なのであまり目立たない事もあり、これから先の高校生活ではずっとこの席でいたい程だ。

 だがそんな事よりも、俺は夏休み中に課される大量の課題の事に頭を悩ませていた。

 進学校だか何だか知らないが、新明高校の長期休みは課題が大量に課される。提出締切日に間に合わず、生徒の悲鳴が聞こえるのは稀ではない。

 かく言う俺も長期休みの度に悲鳴を挙げている生徒の一人だった。ついでに言えば橘もである。

 課題の事を考えれば考えるほど憂鬱な気分になったので、昼休みに橘が言っていた事について考える事にした。

 放課後に話があるから屋上に来い、とは言うものの話があるのは橘ではなく凛の方らしい。

 何故橘が言ったのかは疑問であったが、それよりも問題は話の内容だ。

 やはり、凛の記憶についての相談だろうか。

 現状凛の記憶については手詰まりの状態だ。記憶を取り戻す為に何をすれば良いのか全く分からない。

 自然に記憶が戻ってくれればそれに越した事はないのだが、そういった気配も無いので頭を悩ませるばかりだ。凛から預かったペンダントが今の所鍵になりそうな要因の一つだろうか。

 だがペンダントについても謎が多い。あの写真に写っていた子供は一体誰なのか。

 何となく見覚えのある様な面影ではあったが、心当たりはない。もしかしたらあの小さな女の子は凛の幼い頃だという可能性もあったが、断定はできない。何故なら凛の幼い頃の顔を俺は知らないからだ。

 別の写真も無いので比較する事もできない。やはり手詰まりだった。

「どうすりゃいいんだ……?」

 そんな俺の呟きは、長ったらしい担任の注意から解放された生徒のガヤガヤとした声に掻き消された。いつの間にかホームルームは終わっていたらしい。

 部活に行く生徒、帰宅する生徒、はたまた駅前へ遊びに仲間を引き連れて繰り出す生徒、様々な生徒達が教室から出て行く。

 そんな生徒達の波をかき分けて橘がこちらへ近づいて来た。

「瞬、早く行かないと。多分もう凛ちゃん待ってるよ」

「分かってるよ。んじゃ行くか」

 橘に促され立ち上がった俺に、橘は続けて言う。

「いってらっしゃい」

 思わず振り返る。

「ん?……いってらっしゃい?お前は行かないのか?」

「うん、私、月宮さんの家に届け物してくれって先生に頼まれちゃって」

「月宮……?聞いたことないな。誰だ?」

 俺が聞くと、咎めるような目で橘が俺を見た。

「もう……自分の隣の席の子の名前くらい覚えてなよ。クラス名簿見てないの?」

「あー……そういやそんな名前もあったような」

 でも顔は見た事無いはずだ。それさえも忘れているのだとしたら言い訳すら出来ない。

 少々不安になり、聞いてみる。

「でも俺の隣にそいつが座ってた事って無いだろ?顔も知らないんだからしょうがないじゃないか」

「あー……まあ、そうだね。月宮さん、二年生になってから学校来てないし」

 何と。所謂いわゆる不登校ってやつだろうか。それならば見た事が無いのは当たり前だろう。

「二年生になってからって事は一年生の時はちゃんと来てたのか?」

 橘はうーんと唸ってから俺の質問に答えた。

「らしいよ。私とはクラスが違かったから一年生の時の月宮さんはよく知らないけどね。何でも、何か学校外でトラブルがあったらしくて、それから学校に来てないみたい」

「ふむ……そうだったのか……」

 未だ見ぬ隣の席の生徒について、初めて話を聞いた。まさかそんな事情を抱えているとは知らなかった。

 そう軽く驚愕している俺を急かすように突然橘に背中を押されつんのめる。

「ほら、そんな事より早く凛ちゃんの所に行かないと。凛ちゃんを待たせるつもり?」

「あ、ああ。分かったよ。よく分からんが俺一人で行けって事か」

 うんうんと満足気に頷く橘を尻目に、俺は教室を出て屋上へと向かった。









 階段を登り、屋上へと続く扉を開け放つ。

 高く張られた転落防止用のフェンスに手を掛け、眼下に広がる住宅街を眺めているのは凛だった。

 心ここに在らず、といった様子で立っている凛の横顔からは、僅かに緊張しているような雰囲気が感じられる。

 緩やかに吹き抜ける風にその艶やかなセミロングの黒髪をなびかせて遠く景色を望む凛の姿に、俺はいつの間にか見惚みとれていた。

 いつまで経ってもぼんやりしたままこちらの存在に気付く様子がなかったので、気を取り直して声を掛けた。

「来てたんだな、凛。待たせたか?」

 俺の姿を見た凛はいつもの明るい表情に戻り、フェンスの側を離れこちらに向かって歩いて来た。

「いえ、私も今さっき来たところですよ」

 凛は俺の目の前で足を止めると、にこやかに微笑んだ。

「そうか、それなら良かった。んで、話って何だ?」

 単刀直入に聞いてみる。

 するとどうした事か、凛は急に黙り込んで目を逸らした。

 午後四時過ぎの現在でも太陽はまだ沈んでおらず、眩しい光と共にうだるような暑さを地上に振りまいている。

 そんな夏の暑さの所為か、凛の頬はほんのりと紅く色付いていた。

 暫く凛の返答を待っていると、意を決したような表情で凛が口を開いた。

「篠ヶ谷さん、今から篠ヶ谷さんの事を、しゅんくんって呼んでもいいですか」

 耳を疑った。

 今何と言ったのだろうか。……しゅんくん?

 夏の暑さに遂に俺の頭がやられてしまったのだろうか。

「すまん、もう一回言ってくれ」

「で、ですから、篠ヶ谷さんの事をしゅんくんと呼んでもいいですか、と言いました」

 もう耐えられない、といった様子で逸らした凛の顔は、林檎のように赤くなっている。

 どうやら俺の聞き間違いでは無いようだった。だがしかし……何故なのか。俺も混乱しているみたいだ。上手く思考がまとまらない。

「その……また、何で急に?」

 顔を逸らしたまま凛は俺の質問に答えた。

「……この前の土曜日、篠ヶ谷さんが見つけたペンダントを見てから何故だか篠ヶ谷さんの事をどうしても、し、しゅんくんって呼びたくて仕方がなかったんです」

 しゅんくんという呼び名を口にした瞬間突然凛はこちらに顔を向けて、あたふたしながら続けた。

「あの、その、ごめんなさいしゅんくんなんて呼んでしまって!先輩なのに失礼ですよね。馴れ馴れしく呼んでしまって本当にごめんなさい!今のは聞かなかった事にしてください!ほ、ほんとにごめんなさい!」

 そう捲し立てた後、凛は俯いて黙り込んでしまった。

 拳を握りしめて恥じらう後輩の姿を見ていると、何故だか俺の心臓は動きを早めた。

 凛がしゅんくんと呼んだ、その声が頭から離れない。不思議と凛にそう呼ばれるのは嫌ではなかった。

「その……だな、凛、別に呼んだっていいぞ?」

 そう声を掛けると、恐る恐る凛は顔を上げた。

 先程と変わらず凛の顔は真っ赤なままで、触れたら火傷すらしてしまいそうだ。もちろん、そんな事できるはずもなかったが。

「い、いいんですか?だって、私は後輩ですし、篠ヶ谷さんに失礼ですし、あの、その」

 未だに慌てている凛の様子に、思わず笑ってしまう。そんなに慌てなくてもいいだろうに。

 何というか────可愛らしかった。

「いいよ、別に。俺は失礼だなんて思わないから、好きなだけ呼んでくれ」

 後輩にしゅんくんなんて呼ばれるのはこそばゆい感じもするが、別に嫌ではない。

 それは先輩と後輩という関係によって発生する壁を、感じさせない呼び名だからだろうか。

 自分でもよく分からないが、すんなりと受け入れられる自分が確かに居た。

「じ、じゃあ、試しに呼んでみますね」

 ゆっくりと深呼吸をしながら、凛は俺と視線を合わせる。

 夏の日差しが照りつける屋上で上気した頬は暑さの所為か、それとも。

 凛の潤んだ瞳に俺の視線は吸い寄せられて、逸らすことが出来ない。

 恥じらっているからなのか少し肩が震えている凛は、上目使いでその名を呼んだ。

「し、しゅん、くんっ」

 刹那、ドクン、と俺の心臓は大きく跳ねた。

 上手く息が出来ない。呼吸が浅くなって、次第に少しづつ息をするペースが早くなって行くのが自分でも分かった。

 ────くそ、これは反則だろ。俺にとって非常によろしくない。

 開いた口が塞がらず、二の句が継げなくなってしまったが、何とか声を絞り出して返事をした。

「お……おう……なんだ、凛?」

 一度呼んだことで少しは緊張が解れたのか、ガチガチだった凛の顔には少しだけいつもの明るい雰囲気が戻っていた。相変わらず顔は真っ赤だったが。

 しかしまだ緊張しているのか恥ずかしいのか、拳はきゅっと固く握り締められている。

「な、何でもありません、し、しゅんくん」

 しゅんくん、と凛が呼ぶその度に俺の心臓は鼓動を早めた。

 いつもと違って恥じらいの所為か少ししおらしい凛の姿が、それに拍車をかけているのかもしれない。

 俺も恥ずかしくなって、凛の顔を直視することが出来なくなっていた。

 今度こそ完璧に返事をすることが出来ない。沈黙した俺の様子を伺うように、小さな声で凛が呼んだ。

「しゅん、くん……っ?」

 その時だった。

 ドクドクとうるさい自分の鼓動を抑えようと必死だった俺の脳裏に、唐突に懐かしい景色が浮かんだ。

 ギラギラと照りつける夏の日差し。見渡す限りの山々の輝く深緑。吹き付ける一陣の風に、響く木々の葉擦れの音。

 どれもが遠い昔の、いつの間にか忘れていた記憶だった。

 幼い頃の祖父母の実家のあるその田舎で、俺の手を引いて楽しげに笑う小さな女の子。名前も顔も思い出せないのに、その子の笑顔が底抜けに明るい事を俺は知っていた。

 頭の中に響くのは、しゅんくん、と俺を呼ぶ女の子の声────。

「────くん、しゅんくん?」

 心配そうに俺を呼ぶ凛の声が、ぼんやりしていた俺の意識をはっきりさせる。

 今のは、一体何だったのだろうか。あの女の子は誰だったのだろうか。

 どうして急に、昔の事を思い出したのだろうか。謎は尽きなかった。

「あ、ああ、悪い凛。ちょっとぼーっとしてた」

 俺の言葉に凛は少しだけ不機嫌そうに口を尖らせた。

「ひどいです、私が頑張ってしゅんくんって呼んでるのに」

「わ、悪かったよ。ちょっと昔の事を思い出しただけなんだ」

 小首を傾げて不思議そうに凛が言った。

「昔の事、ですか?」

「ああ。昔誰かにしゅんくんって呼ばれてた事があったなって」

 なるほど、と納得した素振りで凛が頷いた。

「それは確かにあるかもしれませんね。小さい頃は皆にそういう風に呼ばれていても不思議ではありません」

「確かにな。小学校の時とかも俺はしゅんくんって呼ばれてたしな……でも流石にこの年になってしゅんくんって呼ばれるとは思わなかったな」

 凛は再び恥ずかしそうに肩を縮めて項垂うなだれた。

「すみませんほんとに……でも、ありがとうございます」

「ああいや、別に迷惑とかでは全然ないからな。俺の事は気にせずに呼びたいように呼んでくれ」

 項垂れていた顔を上げて凛が微笑む。そこにはもう羞恥に赤く染まった顔は無く、代わりにいつもの明るい凛の表情があった。

「はい……でもやっぱり恥ずかしいので、いつも通り篠ヶ谷さんって呼ばせて貰いますね。人前でしゅんくんなんて呼ぶ訳にはいきませんから」

「まあ、そうだな。その方が慣れてるし、ありがたいかもな」

 しゅんくんなんてまた呼ばれたら、恥ずかしくて凛の顔を見られなくなってしまう。

 いつもとはまるで違う後輩の姿を見る事が出来ないのは少しだけ残念な気がしたが、背に腹は変えられない。

 ……でも人前じゃなきゃいいのか?あまり深くは追求しないが。

 凛は少しだけ悪戯いたずらっぽく笑って、俺を見る。

「今日の事は、篠ヶ谷さんと私だけの秘密ですよ。お願いしますね」

「ああ、もちろん。誰にも言わないよ」

 というより言えない。俺後輩にしゅんくんって呼ばれたんたぜ、何て友達に向かって言う事の出来る鋼のメンタルの持ち主が居ればぜひお目にかかりたい所だ。

「ごめんなさい、私のおかしなわがままに付き合って頂いて。本当にありがとうございました」

 ぺこりと一例した凛は、用事は済んだと言った様子で校舎内へと続く扉を開いた。

「じゃあ、また明日な」

 そう別れを告げると、凛は振り向いて夏の太陽にも引けを取らない明るい笑みを浮かべた。

「はい、また明日!」

 バタン、と扉が閉められて後には俺一人が屋上に残された。

「…………ふぅ……」

 フェンスの元まで歩き背中を向けて体重を預けると、ギシッとフェンスの軋む音がした。

 屋上を吹き抜ける爽やかな風が火照った体に心地良い。

 暫く経ってようやく落ち着いて一息つくと、根本的な疑問が浮かんできた。

 何だって急に凛はしゅんくんなんて呼びたくなったのだろうか。

 ペンダントを見てから、と凛は言っていた。やはりあのペンダントには、何かあるのだろうか。

 凛の記憶を取り戻すための鍵である可能性は高い。しかし、あのペンダントは俺にとっても無関係な物ではないような気がした。

 失くさないように大切に保管しておかなくちゃな。何か役に立てばいいのだが。

「さてと……帰るか」

 思いの外長く屋上にいたらしい。太陽は屋上に来た時に比べて幾らか傾いていた。

 それにこれ以上日差しを浴びると、日焼けしてしまいそうだ。

 とっとと帰って涼むために、俺はフェンスから離れて扉の元へ歩み寄り足早に校舎の中へと戻った。



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