鈴白凛ー8ー
凛の家にお邪魔してから二日後。再び月曜日がやってきた。
あれから俺と橘は何事もなく無事に帰路に就いた。
市内で発生している通り魔事件の犯人は未だに捕まっていないらしい。新たな被害者が出ない事を祈るばかりだ。いい加減、ビクビクしながら夜道を歩きたくはない。夜の散歩好きなんだけどな。凛の一件以来怖くて散歩はしていない。
そんな俺はいつも通り学校へ向かう道をゆっくり歩いていた。
現在時刻は七時半くらいだろうか。俺と同じ新明高校の制服を着ている生徒が辺りに多く見られた。これだけ一目があって、尚且つ明るければ通り魔が出ることは無いと思いたい。まあ、犯行は全て夜中に行われている。日中は安心していいだろう。
そんな事をぼんやり考えながら歩いていると、突如俺の背中を強い衝撃が襲った。
「ぐふっ……がっ……!」
そんな、バカな。遂に手段を選ばず明るい時間帯にすら犯行に及ぶようになったのか。
まさか、通り魔が背後から襲ってくるとは夢にも思わなかった。
はは、俺、死ぬのかな。以外と呆気ないな。
……と思ったが別に痛みはない。
後ろを振り向くと、実に爽やかな笑顔を浮かべている橘が居た。
「おはよ、瞬」
「おはよ、じゃねえよ。通り魔かと思ったわ」
いやマジで。割と心臓に悪い。俺の寿命が少し縮まったんじゃなかろうか。
そんな俺の様子など気にもせず、橘は俺の隣に並び歩き出した。
「んー、いや、前見たらなんかぼーっとしながら歩いてる瞬がいたから。気付けしてあげようと思って」
「普通に声掛けろ!そんな力一杯背中叩かなくていいだろ……一瞬息できなかったぞ」
「へへ、ごめん」
まるで悪びれる様子もなくちろっと舌を出して橘が謝った。
「それはそうと、珍しいな。お前いつも俺より早く学校に行ってるのに」
「んー、心境の変化?早く学校行ってもやる事ないしさ」
相変わらずよくわからん奴だ。寧ろ何で今までやる事無いのに早く学校に行ってたんだ。
「いや、勉強すればいいんじゃないのか?普通に」
「私に勉強しろってそれ何年も働いてないニートに働けって言うようなもんだよ?」
「いいから勉強しろ!」
嫌な例えを持ち出してきやがった。いいのかそれで……。
橘はこう言っているものの、成績自体は悪くない。逆に良い部類に入るのではないだろうか。
つまり勉強しなくてもテストとかでは割と点が取れる奴だ。なんでこんな奴が勉強できるのだろうか。
神は二物を与えないと言うが、しっかり二物を与えていた。俺は一物すら与えられていないような気がするが、気の所為だろう。
ふと隣を歩いていた橘が、何か思い付いたように口を開いた。
「あ、瞬に夏休みの課題やってもらえばいいのか」
「ん?何納得してる感じでアホな事言ってんだ?絶対やらんぞ?」
至極当然の事を言うと、橘は不機嫌そうに唇を尖らせた。
「むー、けち」
「課題くらい自分でやれよ……」
勉強せずに良い成績を取れているのだから、そのくらいはやって貰わないと不公平だ。
何なら勉強ができる分俺の課題をやって貰いたいくらいである。
「……何か、久しぶり」
橘がぽつりと呟いた。
「ん?何が?」
「こうやって瞬と話すのがさ」
何を言うかと思えば何なのだろう。よく分からない。
「そうか?いつも話してるだろ」
俺の返答に橘がゆるゆると首を横に振った。
「ううん、何ていうかその…………二人きりで、みたいな……」
ボソボソと俯きながら言っている所為で、最後の方がよく聞き取れない。
一体どうしたのだろう。
「すまん、よく聞こえなかった。何だって?」
「……なんでもないっ」
それきり橘は俺から顔を逸らして黙ってしまった。
……なんなんだ一体。夏風邪でも引いてどこかおかしくなってしまったのだろうか。
そのまま無言で歩いていると、再び橘が沈黙を破った。
「あの……さ」
要領を得ない口調で橘が言った。
隣を見ると、橘は少し俯きがちに歩いている。
「ん?どうした」
「明日も……ううん、これからずっと一緒に……その、学校行っても、いい?」
驚いてもう一度橘を見る。
俯きがちだった顔は完全に俯いている。長い髪が垂れて、表情はよく見えなかった。
スカートの裾を握りしめて、それきり黙り込んでいる。
……何なんだよ、ほんと。反応に困るじゃないか。
何だか、橘らしくないな。いつも通りなら何も言わずとも、勝手に俺の隣を歩いて、それがいつの間にか当たり前になっていそうなのに。
本当にどんな心境の変化があったのだろうか。
「……まあその、なんだ、お前がそうしたいなら別にいいけども……」
いかん、何故か知らないが気恥ずかしくて橘の顔を直視出来ない。
俺の返答聞いた橘が、隣で顔を上げるのか分かった。
「……っ!、ありがと、瞬」
橘の明るい声色にまた驚いた俺は思わず橘の方を向いてしまった。
そこには、普通の男子なら百発百中で落とせそうなほどの眩しい笑顔があった。
不覚にも心臓がどきりと跳ねる。こいつが有名になるのもわかる気がする。
やっぱり俺は橘の顔を直視出来なくて、再び顔を逸らした。
「お、おう……ただ出会い頭に背中ぶっ叩くのはやめてくれよ」
「ふふ、じゃあ次はもうちょっと加減するね」
「叩くのは決定なんだな!本当に加減しろよ!」
女子何だからもうちょっとお淑やかにしてもらいたいものだ。
お前その内あれだ、毎朝俺の背中叩いてる所為でゴリラになるぞ。筋力と生態的な意味で。
……もちろん橘の前でそんな事は言える訳もなく、心の内にそっとしまった。
そんなこんな益体のない事を考えたり話したりしながら、俺と橘は学校へと向かったのだった。
何だかんだで時間が過ぎ、明後日の方向へ飛んでいた俺の意識は四時間目の終了を告げるチャイムの音によって引き戻された。
……俺としたことが、いつの間にかぼーっとしていたらしく授業の内容がまるで思い出せない。
それというのも、あの事を考えていたからだろう。
キーワードは、鈴白凛。
この前は校門前に居たし、金曜日も廊下ですれ違ったりしたのだが、今日はとんと見かけない。
何らかの理由で休みなのかと思っていたのだが、一時間目が終わった後移動教室で次の教室へ向かう為に廊下を歩いていたら、背後から視線を感じたので振り向くと曲がり角から頭を少し出してこちらの様子を窺っている凛と目があった。
声をかけようと思ったが、凛は俺と目が合うとどうした事か頭を引っ込めてしまった。
いつもと違う様子に何か引っかかりを感じたが、その時は気にせずにそのまま次の教室へと向かった。
だが二時間目が終わり元の教室へと戻る途中も同じ視線を感じ、ふと振り向くと案の定凛が俺の様子を窺うようにして遠巻きに俺を見ていた。
再び俺と視線があった凛は、何か言うのを躊躇うように口をもごもごさせたのち、何故か顔を赤くして走り去ってしまった。
……俺、何かしたか?
いや、心当たりがない事はない。あるとしたら恐らくこの前の凛の家で起こったアレだろう。
正直、今でも思い出すと恥ずかしいんだけどな……。女子に抱き着かれるのは後にも先にもあれが最後かもしれん。
しかしあれは俺がした事ではないし、凛も最終的には落ち着いたはずだ。最後は普通に会話できたし。
そう考えると、その一連の出来事が原因である可能性は低いように感じる。
だとしたら、何なのだろうか。全く見当がつかなかった。
そんな事があったので、俺は気になって仕方がなく、授業中も上の空になってしまったのだった。
教室の中は今、四時間目が終わり昼食を摂るべく机を寄せている奴らや購買へ行く者などの談笑の声に包まれ、学校特有のがやがやとした喧騒に満ちていた。
何とは無しに窓の外を見つめる。
……一体どうしたんだろうなぁ。ここはやはり凛を探し出して謝るべきか。いや、一体何に対して謝るのだろうか。
抱きつかれて悪かった?……日本語的にどうなのか。
抱きついて悪かった?まて、俺は抱きついていない。
「……はぁ」
視界に広がる晴れ渡った青空とは裏腹に俺の心は靄に包まれているようだった。
晴れねーかな俺の心。
「────ていっ」
「っ!?」
頭頂部に僅かな衝撃。
それは晴れ渡る空へと飛んでいきそうだった俺の意識を喧騒に満ちた教室へと戻すのには十分な衝撃だった。
ついでに俺の心臓には頭にきた衝撃の五倍くらいの衝撃が伝わったに違いない。突然の不意打ちに驚いて心臓がドキドキ鳴っていた。
何事かと窓の外から目を離し前を向くと、満足気に俺の頭に手刀をお見舞いしている橘が立っていた。
「どうしたの、瞬。ぼーっとして」
「いやまずお前そのチョップどけろよ。あと不意打ちやめろ。心臓に悪い。それとなんでそんなドヤ顔してんだ!」
「質問が多いよ瞬。私は聖徳太子じゃないよ」
「今お前と話してるの俺だけだろ……どこに十人も話してるやついるんだよ」
「あ、ドヤ顔してるのは瞬を驚かせられたからだよ」
人の話を聞いているのかいないのかどっちだ。なんでそこだけ答えるんだよ。自分でドヤ顔とか言ってるし。
突っ込みどころが多過ぎてどっと疲れた。
こと俺を疲れさせる事に関してはプロだなこいつ。
橘は俺の頭から手をどけると、再び同じ質問をした。
「で、どうしたの?いつもの瞬らしくないよ」
「いつもの俺ってなんだ……ああ、なんかな、凛の様子がおかしいんだよ」
何のことかわからない、といった様子で橘は首を傾げた。
「凛ちゃんが?どんな風に?」
「それが、廊下で俺と目があってもすぐ逃げるんだ。視線感じて振り向いたりすると隅っこで俺の様子窺ってたりな。……俺避けられてるのか?」
自分で言っててだんだん不安になってきた。
どうしよう、もしそうだったらショックで数日寝込む自信がある。
そんな俺の内心を知ってか知らずか、橘はくすくす笑って言った。
「やっぱりこの前のセクハラの所為じゃない?早く謝らないとだめだよ、瞬」
「だから俺はやってない!俺がそんな事できると思うか!」
俺の猛否定に橘は笑みを引っ込めた。
「無理だね」
「真顔で即答すんなよ……。なんか悲しくなってくるだろ……」
俺の男としてのプライドがいとも簡単に粉砕されたのであった。いやまあ、確かにできないんだけどな。
俺がさりげなく傷付いていると、思案顔だった橘が口を開いた。
「うーん、なんでだろうね。私は普通に挨拶したし、話もしたよ」
そこまで言ってから、何かを思い出したように橘は続けた。
「あ、そういえば今日お昼一緒に食べよう、って言ったら何だか様子がおかしかったかな。一応いいよとは言ってくれたけどね」
様子がおかしかった、か。大方渋るような素振りを見せたんだろうな。
昼食を共にするのを渋るということはつまり、俺と一緒になるのを渋っているということだろう。
そこはかとなく悲しい気分になったが、それなら昼食の時に話し合えばいいか。
「ま、落ち込んでてもしょうがないしな。凛を探しに行くか」
「……やっぱり落ち込んでたんだ?」
「……うるさい。いいから行くぞ」
ほんと一言多いな。まったく。
席を立って凛を呼びに行こうとしたら、ふと橘の驚いた様な顔が目に入った。
「ん?どうしたんだ橘。行かないのか?」
「……へ?あ、うん、もちろん行くよ。……えへへ」
相変わらず変な奴。凛に会えるのがそんなに嬉しいのだろうか。
よく分からなかったが、思い立ったが吉日。凛を呼ぶべく俺は歩き出した。
「……行くぞ、か……ふふ」
だから、そんな橘の小さな呟きも俺の耳には届かなかったのだった。
「……で、どこに行くの?」
教室を出て、少し歩き始めてから隣を歩いていた橘が何気ない調子で言った。
「そりゃ一年の教室に決まってるだろ。確か、凛はB組だったはずだ」
「一年の教室にいなかったら?」
「……いるだろ、多分。うん、いるはずだ」
「…………大丈夫かなあ……」
いなかったらどうしよう。正直そこまで考えていなかった。昼休みになってから少し時間が経っているし、確証は無い。
ただ、今の所凛は俺を避けているようなので俺たちの教室まで訪ねて来る可能性は低い。
とすれば、今の所推測出来る範囲で一番凛がいる確率が高いのは一年の教室だろう。
一人で屋上に行っている可能性も捨てきれないが。教室にいなかったら屋上に行ってみよう。
それでもいなかったら……そうだな、見かけた時に追いかけてみるか。
────いやいや、そんなストーカーみたいな事できるか。冷静に考えるんだ俺。
逃げる女子高生を追いかける男子高校生の図。どう考えても変質者だった。
と、いろいろと考えながら歩いていたら一年B組の教室の前に辿り着いた。
廊下に面した窓から教室の中を覗き込む。
ここも俺達の教室同様、昼食をとりながら談笑する生徒達がたくさんいた。
その生徒達の中から凛の姿を探す。
多くの生徒が互いに机を並べて昼食をとっている中、後ろ側の一番隅の席に一人心ここに在らずといった様子で座っている凛を見つけるのは容易だった。
「橘、いたぞ」
「ん、本当だ。何してるんだろ、凛ちゃん」
じっと観察していると、時折口を開いて何か呟いているのが分かった。独り言か何かだろうか。
何度かそうしていたが、決まって何かを呟いた後顔を赤くしてしばらく俯いていた。
そして必ず、短い溜め息を一つ吐くのだ。
やっぱりどこか様子がおかしかった。だが一体何故だろう。
「凛ちゃん、また何か悩み事かな。とりあえず呼びに行こうよ」
そう言ってドアに手を掛けた橘を俺は止めた。
「いや、待て。まだ開くな」
出鼻を挫かれたと言わんばかりに橘が振り返って俺を見る。
「どうしたの?早くしないと昼休み、終わっちゃうよ」
考えてみて欲しい。
俺達は二年生で、先輩だ。ここは言わずもがな、一年の教室である。
中では一年生達がワイワイと楽しそうに歓談しながら昼飯を食べている。
そんな中に先輩がずけずけと入って行ったら、間違いなく注目の的であろう。
もしかしたら一年生が何事かと驚いて、教室が静まり返ってしまう可能性すらある。
そんな事になったら俺は耐えられない。未だかつてないほどの速さで引き返して教室を飛び出すだろう。
つまり何が言いたいかと言うと、一年生の教室に入るのが気まずくて心の準備が出来ていないのだった。
「ちょっと心の準備をさせてくれ。俺がこの空間に足を踏み入れるのには相当な勇気が────」
「んーもうどんだけチキンなの、瞬。ほら行くよ」
俺が最後まで言い切らない内に橘は俺の腕を掴むやいなや、再び教室のドアに手を掛け開け放った。
瞬間、教室中の視線という視線が俺と橘を貫く。
あー……無理無理、今すぐ出て行きたい。皆そんなにこっちを見ないでくれ。俺のメンタルが死んでしまう。
だが橘はそんなものはまるでお構いなしに、ずんずんと凛の元まで突き進んでいく。俺も橘に引っ張られるようにしてついていく。
少し静かになっていた教室内に、だんだんと生徒のどよめきが広がっていった。
「……ねぇ、あれ、橘先輩じゃない?」
「ほんとだ、橘先輩だ。なんでウチらの教室に?」
「見ろよ、橘先輩だ。間近で見るの初めてだよ……」
「おい、見ろって。やっぱり橘先輩めっちゃ可愛いよな。お前話しかけてこいよ」
「絶対無理だって。俺眺めてるだけで十分だわ」
橘先輩、大人気だった。
まさかここまで有名だとはな……一年生にまで噂は広がっていたのか。
それよりも俺は、橘先輩の隣にいるあの男誰だよ的な視線に晒されてグロッキー状態に陥っていた。
特に、男子の視線が痛すぎる。お前ら俺を視線で射殺すつもりかよ。すみませんほんと。
たった数メートルの距離で一気に精神を消耗したが、何とか凛の元まで辿り着いた。
凛はまだぼーっと前を向いていて俺達の存在に気付いていなかった。
「……うーん、何て言えば……篠ヶ谷さん……し、しゅん────」
「凛、ちょっといいか?」
「────っひゃぁああ!?」
肩をびくっ、と震わせ素っ頓狂な声を上げながら凛が振り向いた。
その顔はやっぱり真っ赤で、風邪でも引いてるのではないかと心配になるほどだった。
「っと、すまん、驚かせたな」
謝ると、凛は口をパクパクさせながら首を横に振った。
「あ、い、いえ、大丈夫ですっ」
見るからに大丈夫じゃなさそうだった。
明らかにいつもと様子が違う。
落ち着いて朗らかに笑う後輩の面影はなく目の前にいたのはきょろきょろと視線を彷徨わせ落ち着かない様子でそわそわしている後輩だった。
「凛ちゃん、どうしたの?悩み事あるならきくよ?」
達が優しく問うと、凛はいかにも言いづらそうな困った表情になった。
「いえ、その、悩み事というか……悩み事なんでしょうか」
抽象的な回答だ。
少し踏み込んだ質問をしてみるか。
「なあ凛、俺の事避けてるか?……その、何かしたなら謝る。だから話を聞かせてくれないか」
俺の言葉を聞いた凛は、はっと息を呑んで突然立ち上がった。
「い、いえ!とんでもないです!先輩は何も、悪くないんです。私が勝手に……その」
凛はそこで言葉を切ると、黙り込んでしまった。
……参ったな、いよいよ分からなくなってきたぞ。俺の所為でないならば、一体何だというのか。
疑問に思っていた所、凛が再び口を開く。
「あの、ええと、いろいろとすみませんでした。そのことについてお話をしたいのですが────」
凛が気まずそうに辺りを見回す。
教室内の全ての視線が俺達に集中していた。
これ何の拷問だよ。
「屋上に、いきませんか?」
全く異論は無い。いやあっても認めん。
二つ返事で俺は凛の提案に賛成したのだった。
昼休みも半ばに差し掛かった頃、ようやく俺達は誰も居ない屋上で昼食を食べ始めた。
今日も今日とて快晴である。屋上は既に俺のお気に入りスポットだ。
三人で輪を作って各々食事をしながら、俺達は凛の話を聞いていた。
「えーっとですね……その、避けるようなことをしてすみませんでした、篠ヶ谷さん」
ぺこりとお辞儀をする凛。
「ああいや、大丈夫だよ。でも何で急に?」
俺が問うと、凛は俺から視線を逸らした。
「あー……えー……その、土曜日のことが何だかまた急に恥ずかしくなってしまいまして……声をかけ辛くなっていたといいますか……」
もごもごと口籠もりながら凛が言う。
……やっぱりそれか。確かに恥ずかしかったからな。しょうがないか。
「あー……そうか、それなら分かったよ。俺が何か嫌われるような事したかと思って心配だったんだ」
「そ、そんな!むしろそれは私の台詞です……ほんとごめんなさいでした」
そして俺と凛の間に沈黙が横たわった。
……解決したんだよな?理由もちゃんと聞いたし。しかし何だ、気まずい……!
凛を見ると、何かまだ言いたげな様子を感じられたが、再び口を開く事はなかった。
しかしすぐに、変な空気になってしまった場を戻そうとしたのか、ぱん!と橘が手を打って沈黙を破った。
「はい、凛ちゃんも瞬ももう気にしないの。過去は過去だよー。これもいい思い出だと思っとけば大丈夫大丈夫」
橘はそう言って能天気に笑った。
相変わらず調子のいい奴だな。……けれど、今はその持ち前のマイペースさに助けられたようだ。
そんな橘の鶴の一声で、もう気まずい雰囲気は消え去っていた。
そうですね、と呟いて凛も微笑んでいる。
サンキュー橘。助かった。そう心の中で礼を言った。
「瞬、喉乾いたからジュース買ってきて?……もちろん奢りね」
こいつ……!分かってて言ってるだろ絶対。
俺を助けたと自覚してるあたり質が悪い。
しょうがない、行ってやるか。助けられたのは事実だしな。
「……ったく、しょうがないな。分かったよ」
「ふふ、ありがとー瞬」
自販機のある中庭はここからだと少し遠いんだよな。昼休みが終わらないうちにさっさと行ってくるか。
俺は立ち上がって屋上の入り口まで歩み、屋上を後にした。
「で、凛ちゃん?ほんとの理由は違うんでしょ?」
篠ヶ谷さんが校舎の中へと入っていくのを見届けてから、橘さんが待ち構えていたように言った。
「……あはは、ばれてましたか。ごめんなさい、嘘をつくような事をしてしまって」
申し訳なくなって、頭を下げた。
橘さんを見ると、怒っているような様子は微塵も無く、穏やかに微笑んで私を見ていた。
「多分、瞬に言いにくい事なんでしょ?私でよければ話、聞くよ?」
そこまで見抜かれていたとは。橘さんって本当にすごい。
きっと、この話をする為に篠ヶ谷さんに席を外させたのだろう。
「あの……、私の話を聞いても、怒らないでくれますか……?」
「?何で私が怒るの?大丈夫だよ、心配しないで」
うう、やっぱり言い出しにくい。
……橘さんって篠ヶ谷さんの事をどう思っているんだろう。
もし好き、だったりしたらやっぱりこれから話そうとしている事を言ったら怒るかもしれない。
けど、ここで言わなきゃずっと言えなくなってしまう気がした。……勇気を振り絞ろう。
「……土曜日の日から、なんだか私、おかしいんです。あのペンダントを見てから……その、篠ヶ谷さんの事を……し、しゅんくんって呼びたくて仕方がないんです……っ!」
……言ってしまった。
どうしよう、私、かなり動揺している。
一番重要な所だけ話してしまった所為でわけの分からない話になってしまったかもしれない。
恐る恐る橘さんを見ると、きょとんとした目で私を見ていた。けれどすぐに、驚いたような顔は破顔し屋上に明るい笑い声が響いた。
「ふふっ、あははは!もう、凛ちゃんそんな事でずっと悩んでたの?────かわいいっ」
ぎゅう、と橘さんに抱き締められる。
うう、苦しい。でもどこか安心する温もりが私を包んでいった。
私を抱き締めたまま、橘さんは再び話し始めた。
「でも、どうして急に?そりゃあしゅんくんなんて呼び方恥ずかしいだろうし、呼びにくいのは当たり前だけど。ほんとにいきなり呼びたくなったの?」
「何というかその……橘さんと篠ヶ谷さんが帰ってから、私気付いたらしゅんくんって一人で呟いてたんです。自分の事なのにわけが分からなかったんですけど、でも、呼んでいるとすごく懐かしい感じがして────なんだか、安心出来たんです。本当、何ででしょう」
「懐かしい、かー。ペンダントを見てからそうなったんだよね?」
目を閉じて、思い出す。
ペンダントを見て、意識を失って、夢を見た。
目が覚めてから────そうだ、やっぱりその時からだ。しゅんくん、という呼び名がずっと私の頭の中を渦巻いていた。
「……はい。目が覚めてからずっとです」
「ならそれは、凛ちゃんの過去に関係しているのかもね。昔しゅんくん、って呼んでる男の子の友達がいたとかさ」
そうか、それなら懐かしい響きがするのも頷ける。
だとすれば何だか、篠ヶ谷さんに申し訳ない気がする。
篠ヶ谷さんをしゅんくんと呼ぶのは、篠ヶ谷さんを私がかつてしゅんくんと呼んでいた誰かの代わりにしてしまう事と同じだ。本当に呼んでも良いものだろうか。
そんな私の迷いを感じたのか、橘さんが私を抱き締める力を少し強めて言った。
「呼んでみなよ。気がすむまで呼んで、恥ずかしくなったらやめればいい。凛ちゃんがそう呼ぶことで、凛ちゃんも何か得られるものがあるかもしれないよ」
「……はい、ありがとうございます。橘さん」
私の返事を聞いた橘さんは、私から体を離すとにっこり笑った。
「私は凛ちゃんを応援してるからね」
「……?応援、ですか?私の記憶を取り戻す?」
「ふふ、そうかも」
橘さんは曖昧な返事と共に含み笑いを浮かべた。
一体何の応援だろう。応援って言ってるし別に悪い事ではないのだろうけれど。少し気になる。
そのことについて詳しくきこうと口を開きかけた時、ガチャリとドアの開く音がした。
どうやら、篠ヶ谷さんが帰ってきたみたいだった。
言い出すタイミングを失ってしまった。
まあ、また今度聞いてみればいいか。そう思った私は気を取り直して篠ヶ谷さんに声を掛けた。
「お帰りなさい、篠ヶ谷さん」
中庭の自販機で頼まれたジュースを適当に買って、再び屋上へと戻った俺を迎えたのは凛の声だった。
「お帰りなさい、篠ヶ谷さん」
「ああ、ただいま」
先ほどまで俺が座っていた位置に戻り腰を下ろして、買ってきたジュースを橘に手渡した。
そういえば何も考えずに炭酸の入っているジュースを買ってきてしまったが、橘は炭酸は大丈夫だっただろうか。
「ほら、買ってきたぞ」
「ありがとー、瞬」
そう言うと橘はペットボトルの蓋を開け、こくこくと何事もなく飲み始めた。
よかった、ただの杞憂だったようだ。
ついでに、もう一本買ってあったジュースを凛に手渡す。
「ついでだから買ってきた。凛にやるよ」
差し出されたペットボトルを見て、凛は驚いたように首を横に振った。
「い、いえ!お気遣いなく!私何も言ってなかったのに、申し訳ないですよ」
「いいから。まあその、なんだ、この前のお詫びってことで」
そう言われると凛も反論し辛いのか、申し訳なさそうにしながら俺の差し出したペットボトルを受け取り、僅かに微笑んだ。
「本当にすみません……ありがとうございます篠ヶ谷さん」
そうして緩やかに昼休みの時間は過ぎていった。
昼食を摂り終えた俺は、熱い夏の日差しが照りつける中凛の記憶について考えていた。
土曜日以来凛の記憶に進展は無いようだ。あれからまだ二日しか経っていないので、まだこれからどうなるか分からないから一概には言えないが。
凛の家を探しても、見つかった中で結局手掛かりになりそうな物はあのペンダントだけだ。
とは言うものの、凛の記憶が戻ったと言ってもほんの断片的なものだ。これまでの謎が全て解決するような記憶とは言えない。
俺もあのペンダントには不可解な既視感を感じているが、今のところそれだけだ。また頭痛に襲われて意識を失うような事もない。
そういえば意識を失って、目覚めた時から上手く説明できないが何かもやもやとしていた。
凛は意識を失っている間夢を見ていたと言った。その話を聞いて、自分も何か夢を見ていたような気がしてならなかったのだが────結局何も思い出せなかった。
思い出せそうで思い出せない、そんなもどかしさが俺の心の内に蟠っている。
ペンダントをずっと見ていると、その事について何か思い出せそうな気もするのだが結局自分がどんな夢を見ていたのか分からず仕舞いだった。そもそも本当に夢を見ていたという確証はなかったが。
ぐるぐると思考が回って考え事から抜け出せなくなりそうだった時、タイミングよく昼休みの終了を告げるチャイムが鳴り俺の意識を現実へと引き上げた。
「おっと、もう昼休み終わりか。早いな」
「瞬が戻ってくるの遅かったからだよ」
「お前が俺をパシリにするからだろうが。自販機遠かったんだよ!」
何のことかよく分からない、とでも言いたげに肩を竦めた橘は、出入り口である扉の元へ歩いていき、扉を開いた。
そして中へと戻っていく間際、振り返った橘は俺と凛を交互に見ながら口を開いた。
「そういえば瞬、凛ちゃんが放課後話があるから屋上に来て欲しいみたいだよ」
話とは一体何の事だろうか、と首を傾げた俺の隣で大きな驚きの声が上がった。
「え、ええっ!?た、橘さん、私そんな事一言も────」
何かを言いかけた凛を遮るように、橘は凛に向かって分かりやすくウインクすると校舎の中へと先に戻って行った。
バタン、と扉の閉まる音がした後俺と凛は広々とした屋上に取り残された。
「凛、話ってなんだ?二人じゃないと話せないような事なのか?」
「あ、え、えと……その、はい……っ」
分かりやす過ぎる程に凛が狼狽えていた。
よっぽど言いにくいことなのだろうか。何にせよ、放課後に話して貰えるならば今追求する必要はないか。
「分かった、じゃあまた放課後にな」
急がないと次の授業が始まってしまう。この屋上は校舎の隅に位置しているが為に、普段使う教室からは割と歩かないといけない。遠いのだ。
逆もまた然り。屋上から普段使う教室へ行くのにも遠いので、少し急がないといけないだろう。
遅刻はしたくなかったので、足早に俺は扉を開いて校舎の中へと戻った。
「……橘さん…………驚いたなぁ……」
誰もいない屋上で一人、未だに戸惑いを隠せない様子で凛は呟いた。