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ロスト・メモリーズ  作者: 由里名雪
橘このえ
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橘このえーa3ー

 盛大な溜め息が一つ俺の口からこぼれ出た。顔を上げる気力もなく机に突っ伏したまま放課後の教室の喧騒を聞き流す。俺の中には今やる気というものが微塵も存在していなかった。

 遂にやってくるのだ、地獄の数日間が。その名はテスト期間。学生なら避けて通れぬ試練である。

 ただのテスト期間ならまだいい。問題は夏休み前最後のテストだということだ。担任曰く、今回のテストで赤点を取った教科は、夏休み中学校に来て補習を受けなければいけないらしい。それが俺のやる気を削いでいる一番の要因だった。くそ、勉強したくねえ。

「……なにしてるの?瞬」

 顔を上げるとそこには怪訝な視線をこちらに向ける橘がいた。なんかこの前も同じようなことあったな。今日は晴れているので全く同じというわけではないが。

「失意のどん底にいた」

「……大丈夫?」

 ものすごいデジャヴだ。橘は変わらず怪訝な視線を向けている。

「勉強が嫌すぎて軽く鬱になってた。かといって何もしなければ補習確定だからな。ままならないからやる気が消えた」

「ダメ人間がいる……」

 橘は呆れたように肩をすくめた。人一倍勉強嫌いなので許してほしい。嫌いなものは嫌いなのだ。

「普通赤点取ったら補習なんて言われたら、嫌でもやる気にならない?」

「そこで一気にやる気失くすのが俺の普通だ」

「ゴミ人間がいる……」

 おお、レベルアップしたな。というかゴミは言い過ぎだろ。せめてクズ……いやもっとひどいか。まあいい、気にしないことにした。

「なんで補習とか入れるんだ……教師だって休みたいだろうに」

「じゃあ勉強して先生を休ませてあげたら?」

「断る」

「…………」

 もはやかけるべき言葉もない、といった風な顔だ。言われるうちが華ってやつか。そこはかとなく悲しくなる。

 橘は一つ溜め息をつき、僅かに微笑んで言った。

「じゃあ、私が瞬の勉強を見てあげる」

 思わず橘を見た。予想していなかった言葉に驚きを隠せない。確かに自分で勉強するよりは橘に見てもらった方が安心かもしれない。こいつは普段勉強しないくせにテストはいい点を取るので、勉強自体は出来るのだろう。羨ましい限りである。

「……な、なに?」

 俺が驚きに言葉を返せないでいると、気恥ずかしそうに頬をかいて視線を逸らされた。我に返った俺は慌てて言葉を発した。

「い、いや……いいのか?言っとくが数学が出来なくて俺の右に出る奴はいないぞ?」

「今ので一気に不安になったけど……うん、いいよ。この私にまかせなさい」

 えへん、と胸を張る橘。似合わない仕草だったが何も言うまい。なんにせよ、勉強を見てもらえるのはありがたかった。

「じゃあ、頼む。理系科目が壊滅的なんだ」

「瞬国語だけは無駄にできるもんね……。私も完璧じゃないけど、とりあえず見てあげる」

 そして俺と橘の放課後特別講座が開かれたのだった。






「だぁー、疲れた」

 数学の問題集と格闘することおよそ一時間。自分のできなさ加減に軽く絶望する勢いだ。困った。

「まだテストまで一週間あるけど……これは間に合うかなぁ」

 神妙な顔で唸る橘。俺のノートは大量の赤で埋まっていた。丸がほとんど見当たらない。

「頼むぞ橘先生。頼みの綱なんだ」

「手間のかかる生徒を持ってしまった……」

 橘先生は頭を抱えている。何だかすごく申し訳なかった。

「まあでも、赤点回避くらいなら何とかなるかな」

「まじか!でもお手柔らかに頼む」

「はいはい。わがままめ」

 そう言うと橘は立ち上がり座っていた椅子を元の席に戻した。急にどうしたのだろうかと思い見ていると、俺の隣の席から椅子を拝借し俺の隣に置いた。そして座った。……近い。

「じゃあまず最初のとこから」

「いや、待てって」

 一体なんだと言わんばかりに橘が俺を見る。それは俺がするべき表情だと思うんだが。

「近いんだが」

「しょうがないでしょ。反対側だと見辛いんだもん。教えなくてもいいならどくけど?」

 そういわれてしまっては仕方がない。何だか落ち着かないが我慢する。若干体が触れているが気にしない。勉強勉強。

「まずはここの公式を覚えて。これは絶対にテストに出るから」

 言われた箇所に蛍光ペンで線を引いていく。あっという間に問題集が蛍光ペンだらけになってしまった。

「うげ……こんなに出るのか」

「というか、これ全部覚えられたら平均点は取れるよ。今回のテストはここが主に出るって言ってたし」

 そんなこと言ってたっけか。全く覚えていない。

「よく覚えてるな」

「……ちゃんと授業受けてる?」

「数学の授業は俺の貴重な睡眠時間なんだよ」

「だからできないんだよ。苦手科目くらい真面目に受ければいいのに」

 橘の視線が痛い。言っていることはもっともだ。橘が普段勉強していないのにテストで点を取れるのはちゃんと授業を受けているからなのだろう。ただし個人差はあると思うが。

「まあ、善処する」

「ほんとかなぁ……」

 ほんとだとも。多分。少なくともテスト期間に入るまでは頑張ろうと思った。

 そのまま橘に解き方のコツなどをレクチャーしてもらい、一通りさらった頃には辺りには誰の姿も見えなくなっていた。

 何気なく時計を見ると驚いたことに更に一時間経過していた。橘の教え方が上手いのか、俺がそれほど集中していたのか、はたまたその両方か。とにかく時間の経過がいつもよりずっと早く感じた。

「もうこんな時間か。そろそろ帰ろうぜ」

「あ、ほんとだ。瞬にしては珍しく頑張ったじゃん」

 橘が少しからかうように言った。だがその通りだ。我ながらよく勉強したと思う。お陰で補習回避の可能性が少し見えてきたような気がした。

「珍しいなんてもんじゃない。明日は台風かもな」

「自分で言うんだ……」

 勉強なんて真面目にしたのはどれくらいぶりだっただろうか。いつもテストは前日に詰め込んでその場しのぎを繰り返してきた。今ならこの勢いで勉強を続けられるような気がした。

「ありがとな。橘のおかげで助かった」

「うん、どういたしまして」

 さて、家に帰って復習をしよう。我ながら自主的に勉強をする気になるなんてどうかしているが、これも補習回避のためだ。

 机の上に広げていたノート類を整理している最中、自分の荷物をまとめて戻ってきた橘が呟いた。

「あのさ……明日もやる?」

「ん?何をだ?」

「だ、だから……勉強を」

 橘が何故か歯切れの悪い言い方をしている所為でいまいち要領を得ないが、つまり今日と同じように放課後勉強をするか、と言いたいのだろう。俺はもとよりそのつもりだったので頷いた。

「ああ。一応そのつもりだけど」

「そ、そっか。じゃあ明日も教えてあげようか?」

 それは何というか、願ったり叶ったりだ。断る理由はない。

「いいのか?それならありがたいけど」

「うん!……あ、うん。まかせて」

 少しだけ恥ずかしそうに笑う橘。……早く帰って勉強しないとな。

「んじゃ帰るか」

「うん」

 俺はいまやる気に満ち溢れていた。一体なぜだろう。疑問に思ったがきっと些細なことだ、あまり深くは考えないことにした。

 俺と橘は並んで誰もいない教室を後にした。






「そうそう、で、そこの式に代入してみて」

「……おお、解けた。さんきゅ」

 ノートの上をシャーペンが走り、次々と計算式が書かれていく。普段は苦痛で仕方がないこの作業も、今はどうしてか息をするようにこなせていた。

「よし、終わった。後少しで今回の範囲は全部さらえるな」

 数学の問題集のページをめくる。ついこの前まで手付かずだったのに、今や残すところ後一ページで出題範囲をやり終えるまでになっていた。

 この前の放課後からずっと俺は苦手な理系科目を勉強していた。まるで何かのスイッチが入ったかのように勉強に身が入っていたのだ。何かの病気だろうかと我ながら心配になる。

「いやー、まさか瞬がこんなに勉強頑張るとは思ってなかった。もう補習回避は確実なんじゃない?」

「俺もこんなに勉強する気じゃなかったんだけどな……なんか気付いたら未だかつてないくらい勉強してた。ここまで来たらいっそ自分の限界に挑戦したくなってきた」

「……もしかしてあなた、瞬じゃなくて別の人?」

「失礼な。どっからどう見ても俺だろ」

 勉強してるだけで人物を疑われるとはこれいかに。とはいえ数日前の俺が今の俺を見たら目を疑うだろう。

「なぁ橘、勝負しようぜ」

「勝負?」

 計算式を解きながら俺は提案した。例のごとく隣に座っている橘が首を傾げる気配がした。

「俺と数学の点数で勝負だ。負けた方が駅前のクレープを奢る。どうだ?」

 ちらりと横を見る。橘は驚いたような表情をしていたのも束の間、不敵に笑って俺を見返す。

「いいの?私、勝っちゃうよ?」

「ふっ、いい気になれるのも今だけだぞ。今回の俺は一味違うんだ」

「どうだか。付け焼き刃の瞬に負ける程私も落ちぶれてはないよ」

 ぐっ、なかなか言うなこいつ。ますます見返してやりたくなってきた。こうなったら明日のテストまで追い込みをかけて得点を狙ってやる。今のうちに笑ってるがいい、なんて内心でほくそ笑んだ。

「よし、終わった。これで全部だ」

「お疲れさま。そろそろ帰る?」

「そうだな。今日も付き合ってくれてありがとな、橘」

「ううん、どういたしまして。明日のテストが楽しみだね」

 荷物を片付けていると橘がそう言って微笑んだ。俺は頷いて橘に言ってやった。

「ああ。お前をぎゃふんと言わせてやる。覚悟するんだな」

「なによー、自信満々に。その言葉そっくりそのまま返してあげる」

 なんて言いながら俺たちは笑いあった。二人分の笑い声が教室に響く。飛んでくる視線は、今は一つもない。

「……なんかさ、誰もいない教室って……ドキドキしない?」

 橘がぽつりとそんな事を呟く。反応に困った俺は思わずたじろいでしまう。

「な、何だよ急に」

「……いや、その」

 橘は少し俯いて、控えめに俺を見ている。何故か気恥ずかしくて俺は視線を彷徨わせた。

「い、今……二人きりじゃん?」

「そ、そうだな……」

 一体なんだって言うんだ。何か言いたげに俺を見る橘の視線には気付いている。何が言いたいのだろう。

 なんだって俺は‪──‬こんなにも鼓動が早くなっているのだろう。

「……っ、な、なんでも、ない……」

 途切れ途切れの橘の言葉。窓から差し込む夕日の所為か、顔は紅く染まって見えた。

「そ、そうか……」

 返すべき言葉が見つからない。まだ早い鼓動を抑えるのに必死で、無難な答えしかできなかった。

「か、かえろ!もうだいぶ遅い時間だし」

「そうだな、帰るか」

 結局橘が一体何を言おうとしたのか俺には分からなかった。‪──‬いや、分からないふりをしていたのかもしれない。でも俺にはそれを言葉にしてみる勇気がなかった。

 だから、俺はその事から目を背けて何事もなかったかのように歩き出す。きっと俺の勘違いだ。気の迷い。そんなところだろう。

 そしていつものように、俺と橘は並んで教室を出た。

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