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ロスト・メモリーズ  作者: 由里名雪
鈴白凜
13/33

鈴白凛ー13ー

 夏の日差しは容赦なく照りつけて、私の身体から前へと進む気力を奪っていく。

 足を一歩踏み出す度に汗がじわりと滲んで、強い風でも吹いてくれないかと切に思う。

 でも、いつもよりずっと早く歩みを進めるこの足を止めるわけにはいかない。止めてしまったら、篠ヶ谷さんにすぐに追いつかれてしまうだろうから。

 ……って別に逃げる必要はどこにもないのに。それでも早歩きしてしまうのは、きっと今篠ヶ谷さんに顔を見られたくないから。

 私の顔は今、真っ赤に染まっている事だろう。身体がじんわりと熱くなっているのは、この夏の暑さの所為だけじゃない。

 歩きながら、篠ヶ谷さんに追いつかれる前に気持ちを静めなければと深呼吸を繰り返す。

 それでも篠ヶ谷さんが言ってくれた言葉は耳から離れようとしない。

「…………はぁ……」

 篠ヶ谷さんの家に行く事が出来るのは楽しみだった。篠ヶ谷さんの隣を歩けるだけで、何だか安心出来た。

 でも篠ヶ谷さんと一緒に歩いている内に、ふと篠ヶ谷さんが言ってくれた言葉を思い出した。

 初めて篠ヶ谷さんとあったあの日、篠ヶ谷さんは私の事を信じると言ってくれた。役に立ちたいと言ってくれた。

 けれど私が今篠ヶ谷さんと一緒いられるのは、仲良くしていられるのは私の記憶が無いからだと、そんな極論めいた事を考えてしまった。私の記憶が無いから、篠ヶ谷さんは私の為に色々と協力してくれて、気を遣ってくれているのだと。

 だから、記憶が戻ってしまえば今の関係は変わってしまうのではないか。篠ヶ谷さんも橘さんも、私に協力してくれる必要はなくなるのだから、今までみたいに仲良くできなくなってしまうのではないか。

 篠ヶ谷さんのさっきの言葉を聞いてしまった後だと、何て馬鹿らしい事を考えていたのかと恥ずかしくなるけれど、私はそんな事を考えてしまった。

 だから篠ヶ谷さんに聞いてしまったのだ。私の記憶が戻ったらどうするか、と。

 どんな返事をされるのか予想をしていたわけではないけれど、少なくとも私の予想のつく範囲を超えた答えを、篠ヶ谷さんは言ってくれた。

 記憶が戻ったら嬉しいと。記憶が戻ったらもっと私の事を知る事が出来る、と。

 その答えを聞いた途端、私の胸は高鳴った。

 記憶が戻ったら嬉しいと言ってくれた事が、記憶が戻った後も私の事をもっと知ろうとしてくれている事が、嬉しかったから。

 だからこそ、不安にもなった。私の記憶がこのまま戻らなければ、篠ヶ谷さんが言ってくれた言葉は現実にはならないから。

 不安になった私は、また篠ヶ谷さんに質問をした。先程とは反対に、私の記憶が戻らなければどうするかと。

 でも、篠ヶ谷さんはどこまでも優しかった。

 記憶が戻らなくても、関係ない。これからもずっと私と仲良くしたいと、そう答えてくれた。

 その答えを聞いた私の中に、もう不安は無かった。

 記憶があっても無くても、篠ヶ谷さんは私とずっと仲良くしてくれる。もちろん、橘さんも。

 篠ヶ谷さんは私の記憶の在り処だけを見ているわけじゃない。私自身の事もちゃんと見てくれている。

 それが分かったから────余計恥ずかしくなって、顔を合わせられなくなってしまった。

 何でこんなに恥ずかしく感じるのか、鼓動が早るのか自分でもよく分からないけれど、今篠ヶ谷さんと顔を合わせたらどうにかなってしまいそうだ。

 本当に私、どうしてしまったのだろう。

「おーい、待ってくれよ凛!」

 少し後ろから篠ヶ谷さんの声が聞こえた。

 ……いい加減落ち着かなきゃ。最近篠ヶ谷さんの前で挙動不審になってばかりだから、篠ヶ谷さんに変に思われてるだろうなぁ。

 早歩きしていた足を止めて、ゆっくり深呼吸をする。

 ……うん、もう大丈夫。顔も赤くなっていないはず。

 私は意を決して後ろを振り返った。

「ごめんなさい、篠ヶ谷さん。先に歩いて行ってしまって」

 私に追いついた篠ヶ谷さんは不思議そうな顔をしながら首を横に振った。

「いや、いいんだけど、どうかしたのか?」

「い、いえ、気にしないで下さい。そうです、軽く運動したくなったんです!運動!」

 ああ、思わず訳のわからない言い訳をしてしまった。また変に思われただろうなぁ……。

「そうなのか……。まあいいか、早いとこ家に帰って涼もう」

 そう言って篠ヶ谷さんはゆっくりと前を歩き出した。

 ……あんまり気にしてないみたい。よかった。

 気を取り直して、今度は篠ヶ谷さんに置いて行かれないように私も隣を歩く。

 やっぱり、こうして篠ヶ谷さんの隣を歩いていると安心する。一体何故だろうか。

 よく分からないまま暫く歩いていると、今歩いている道に見覚えがある事にふと気付いた。

 そういえば、私と篠ヶ谷さんが初めて出逢ったあの日、篠ヶ谷さんは私の手を引いてこの道を必死に走っていたっけ。

 もちろん私も必死だった。怖くて怖くて堪らなかった。

 でも篠ヶ谷さんは、そんな恐怖に呑まれそうな私を救ってくれた。文字通りの命の恩人だ。篠ヶ谷さんには感謝してもしきれない。

 ────ああ、そうか。そうやって私の事を救ってくれたから、だから篠ヶ谷さんと一緒にいると安心するのかもしれない。

 ふと自分の左手に目を遣る。

 篠ヶ谷さんに手を握られた時の感触は容易く思い出せる。篠ヶ谷さんの手は私よりも一回り大きくて、温かかった。

 もう一度、篠ヶ谷さんに手を握ってもらえたらなぁ────って、何を考えているんだろう、私。

 我に帰った途端、また顔が熱くなった。本当に、何を考えているんだろう。

「凛、本当に大丈夫か?やっぱ熱中症とかじゃないのか?」

 また挙動不審になってしまっていたのか、篠ヶ谷さんが心配そうに声を掛けて来た。

 いけない、篠ヶ谷さんに迷惑を掛けるわけにはいかない。いつも通りいつも通り。

「いえ、大丈夫です!でも確かに、少し暑いですね」

 日が沈むにはまだ早い時間帯。太陽は相変わらず眩しい光と熱を地上に向かって振りまいている。

 気怠くなるような暑さにじわじわとかきたくもない汗が身体から滲む。……ほんとに汗かきたくないなぁ。篠ヶ谷さんもいるのに。

 篠ヶ谷さんもやはり暑いのか、腕で額を拭っていた。

「そうだな。俺の家までもう少しだから、もうちょっとの辛抱だ」

 篠ヶ谷さんの家はもうすぐらしい。人の家に行くのは初めてだから、何だか少し緊張する。……少なくとも、記憶を失ってからは。

 記憶を失う前は、どうだったのだろう。誰かの家に遊びに行った事はあったのだろうか。

 ……わからない。それにあったからといってどうという事もないのだ。考えても無駄だろう。

 余計な事を頭から追いやる為に、篠ヶ谷さんの言葉に頷き返して私は篠ヶ谷の後をついて行った。


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