鈴白凛ー11ー
────どうして、どうして戻ってしまうの?私には、何もないのに。
────こうすることでしか、私は私を満たすことができないのに。
────でも、大丈夫。戻ってしまうなら、また奪えばいいのだから────
聞こえて来るのは風に吹かれた木々の葉擦れの音。目の前にあるのは────小さな祠。
祠に積まれていたはずの小さな石は無惨にも辺りに散らばっていた。
その散らばった小さな石が、じゃり、と音を立てて踏みにじられる。
誰かが目の前に立っている。いつからいたのか全く分からない。前触れもなく突然そこに現れたかのような、そんな違和感が感じられた。
その“誰か”は、ゆらゆらと覚束ない足取りで近付いてくる。
そしてゆっくりとこちらに手をかざした時、唐突に視界が白く染まった。
真っ白で、何も見えない。ただ、気配だけが残っている。
その気配もやがて薄れていく。視界は白く染まったまま、意識もだんだんと薄れていく────。
「────っ」
目を開けると、視界は白く染まったまま────と思ったのも束の間。視線の先にはいつもの白い天井があった。
どうやら、変な夢を見ていたようだ。
「………………」
夢は、脳が記憶を整理する際に起こる現象だというような話をどこかで聞いた。ならば俺が今みた夢は俺が実際に見た景色で、その記憶が夢として現れたのだろうか。
何にせよ、よく分からない夢だった。記憶にもない景色というか、映像だったし。
ただ、小さな祠が夢に出てきたのが少し気にかかる。確か、以前凛も夢の中に祠が出てきたと言っていた気がする。
学校で凛に会ったらまた聞いてみるか。偶然似たような夢を見ただけかもしれないが。
それにしても、自分で言うのも何だが最近の俺はどこかおかしい。
今の夢にしてもそうだが、変な夢を見たり、唐突に昔の事を思い出したり、最近の事が思い出せなかったり。
凛の家じゃ急に頭痛がして意識が飛ぶ始末だった。何かの病気とかじゃないよな……。不安になってきた。
まあそれは杞憂だろう。あまり深く考えすぎない方がいいよな。
上半身を起こし、軽く伸びをする。それに伴って少し欠伸が漏れた。
「おはよー」
「ああ、おはよう」
さて、そろそろ着替えないと遅刻してしまいそうだ。変に考え事をしていた所為で貴重な朝の時間を少し消費してしまった。
腹も減ったしさっさと着替えて朝食を済ませよう。
と、そこまで考えてからようやく異変に気付いた。
俺は今、誰に向かっておはようと返事を返したのだろう。基本的に朝母親が俺の部屋に来るのは、俺が寝坊して遅刻しそうな時だけだ。つまり叩き起こしに来る時なのであって、おはようなんて呑気な挨拶はしない。
ぎぎぎ、と軋む首を恐る恐る横に捻ると、そこには何と橘がもたれかかるように俺のベッドに頭を乗っけていた。
「やっと起きたね、瞬」
橘がにこにこしながらこちらを見つめる。
…………どこからつっこんでやろうか。
「なあ、橘。いろいろ聞きたい事がある」
「ん?なに?」
「何で俺の部屋にいるんだ?」
「あー、今日早起きし過ぎたからさー。昨日みたいに通学路で待つのもつまんないから瞬の家に来ちゃった」
来ちゃったじゃねえよ……。早起きし過ぎたならまた寝るなり時間まで家にいるなりすればいいと思うのは俺だけだろうか。
「まあ、百歩譲って俺の家まで来たのは別にいい。で、もう一度聞くけど何で俺の部屋にいるんだ?」
「時間的にもう瞬起きてるかなーと思ってインターホン押したら瞬のお母さんが出てきて、うちの馬鹿息子はまだ寝てるから起こしてやってって言われたから瞬の部屋に入れさせて貰ったの」
「起こしてないよな!お前俺の部屋に上がり込んだだけだろ!何がおはようだ起こせよ!いや違う、問題はそこじゃない。いや、何が問題なんだ……」
問題が多すぎてよく分からなくなってきた。
というかあの馬鹿親……何勝手に人の部屋に他人を入れてるんだよ。プライバシーの侵害だろこれ。まあ、別に見られて困るような物は置いてないからそんなに困りはしないが。
というか起こしてくれと頼まれたのに何故俺が起きるまで起こさなかったんだ。
そんな俺の疑問を察したのかは知らないが、橘が口元を僅かに弛ませて言った。
「瞬の寝顔見てたら何か起こしたら悪いなーと思ってきちゃってさ。眺めてた」
「眺めんな。起こせよ」
くっそ、寝顔見られた……。見られて減るようなもんじゃないし然程困るわけでもないから良いのだが、何か、こう、恥ずかしい。
「まあいいじゃん。細かい事は気にしない気にしない」
「細かいどころか大事だろ。ったく朝っぱらから……」
俺の小言をガン無視しながら橘が立ち上がり、偉そうに踏ん反り返る。
「ほら、いいから早く着替えないと遅刻しちゃうよ?」
「誰の所為で遅刻しそうになってると思ってんだ……」
寝起きだというのに、既に疲労感が半端ではない。こいつもしかして俺の精力を吸い取ってるんじゃなかろうか。
「…………」
「………………?どうしたの?早く着替えないと」
「お前が部屋にいるから着替えられないんだよ!早く出てけ!」
物分かりの悪い妖怪橘の背中を押し、扉を開けて部屋の外へ放り出す。
やっと落ち着いた。騒々しくて敵わないな。
さっさと着替えて学校に行かないと本気で遅刻しそうだ。想定外のハプニングで大分時間を使ってしまった。
遅れを取り戻すべく急いで服を脱ぐ。そして寝巻きのハーフパンツを脱ごうと手を掛けたところで、ガチャリと音を立てて再び扉が開かれた。
「あ、私下で待ってるね」
「開けんな!分かったから!」
あっぶねー。危うくパンツ一丁でいる姿を見られるところだった。あいつの辞書にデリカシーという文字は無いのだろうか。
まあいい。気にしたら負けな気がする……。
そう思い直した俺は手早く制服に着替えて、自室を出た。
階段を降りて一階のリビングへと足を踏み入れると、母親と橘が食卓で互いに向き合いながら、座って何やら話していた。
「どうかしら?このえちゃん?」
「ちょっと確認してみないと分からないかもですー。あ、もしダメだったら、代わりの子に頼んでも大丈夫ですか?」
「私は大歓迎よー。何なら、もし行けるってなった時にその子も一緒に連れてきたっていいのよ」
「ありがとうございます、お母さん。じゃあ一応その方向でお願いします」
どうやら丁度一段落ついたようだ。一体何を話していたのだろうか?
……大体想像はつくが。
「何話してたんだ?二人とも」
俺が問いかけると、母が妙にニコニコしながら振り向いて答えた。
「ほら、あれよ。昨日言った相談の話よ」
やっぱりな。そんな事だろうと思った。
というか昨日話題に上がったばかりなのにもう話したのか。
「あれ、俺が聞いとくって話じゃ……」
「あー、丁度いい機会だからもう話しておこうかなって思ったのよ。あんた忘れっぽいからちょっと不安だったし」
失礼な。今日あたりちゃんと聞いておこうと思っていたと言うのに。
まあ手間が省けて丁度良かったと思うべきか。
「まあ何でもいいけど……代わりの子って誰だ?」
先ほどの橘と母の会話の中にあった代わりの子に頼む、というのが少し気になったので橘に向かって聞いてみる。
「ん?凛ちゃんだよ」
当たり前の事を言うかのようにさらりと橘が答えた。
「……凛だって予定とかあるんじゃないのか?大体凛に来てもらうならうちの事情とか一から説明しなきゃいけないだろ」
「大丈夫大丈夫、瞬が頼めば絶対来てくれると思うよー」
どこから出て来るんだその自信は。
凛にだって予定があるかもしれないし、俺が頼んだって来てくれるとは限らないはずだ。
「あー、疑ってるでしょ。とにかく頼んでみなよ」
俺の内心を見透かしたかのようなタイミングで橘が言った。なんなんだこいつ、エスパーなのか。
「瞬、その凛ちゃん?って子とあんたは仲良いの?」
俺たちの会話を聞いていた母が問いかけてきた。
ああそうか、母さんは凛の事知らないんだよな。凛が家に来たこともなかったし。
「あー、まあ、いいって事でいいのか?よく分からん」
「いや、いいでしょ。お昼も一緒に食べてるんだし」
橘のツッコミが入った。
いやだって、自分から女子と仲良い宣言するのなんか恥ずかしいだろ。と心の中で呟いた。
「ふーん……あんた、その子今日にでもうちに連れて来なさいよ。お母さんその子とお話ししてみたいわ」
母が何となくイラっとくる笑顔を浮かべながらそんな事を言った。
「いや流石に今日は急過ぎるだろ!ていうか何だよお話ししてみたいって」
「いいじゃない別に。とにかく聞いてみてちょうだい」
まあいいか……。凛も俺の家に遊びに行ってみたいって言ってたしな。丁度いい機会かもしれない。
この母親を凛に紹介するのは何となく気が引けるが。
それに下手すると凛の事も彼女にしろだの何だの言いだしかねないな。彼女にしろって言われただけで彼女にできるなら苦労なんぞしないというのに……。
いかんいかん、くだらない事を考えるんじゃない俺。彼女なんて言葉俺は知らないぞ。彼女?何だそれは食い物か何かか。
「まあ聞くだけ聞いてみるけど急だし来るかどうかはわからんからな」
「ダメで元々よ。よろしくね」
話が再びひと段落ついたところで、まだ朝食を済ませていない事に気が付いた。
橘の隣の席に座り、用意されていたトーストとベーコンエッグを早食いして平らげる。
「瞬、そんなに早食いしたら身体に悪いよ?」
「話し込んでた所為で時間がやばいんだよ。もうダッシュしないと遅刻するぞ」
俺に言われた橘が時計を一瞥すると、ガタッと音を立てながら立ち上がった。
「……これ、ダッシュしても厳しくない?」
引きつった笑みを浮かべながら橘が言った。
気持ちはよく分かる。
見ると時計の針は八時十五分を指していた。ここから学校まではおおよそ歩いて三十分弱くらいだ。単純計算で走って十五分弱といったところか。
そして一時間目の始まる時間は八時三十五分。間に合うか間に合わないかは微妙な所だ。
「誰のせいだかなー全く」
「わ、私の所為ではないかなー……」
「誰かさんがさっさと起こしてくれればこんな時間にはならなかっただろうなー」
「う、ううー……自分で起きない瞬だって悪いんだからね」
「うぐ……ま、まあ俺の事は置いといてだな……」
痛い所を突かれた。だが予想外の出来事に戸惑って時間を浪費してしまったのも事実だ。つまり八割……まあ七割くらいは橘の所為だと思う。そりゃ誰だって朝目が覚めてクラスメイトが隣にいたらビビるだろ。不可抗力だ。
と、そんな事を考えている間にも時間は過ぎていく。
これ以上無駄に時間を過ごす訳にはいかない。俺は立ち上がって食器を片付け始めていた母に向かって言った。
「じゃあ行ってきます」
「行ってらっしゃい。このえちゃんもね」
「はい、行ってきますお母さん」
……なんか女子に自分の母親の事をお母さんと呼ばれるのは変な感じだ。なぜだろう。
「このえちゃん、またいつでもいらっしゃいねー」
リビングを出る間際、母が橘を呼び止めるように言う。
橘は立ち止まってぺこりとお辞儀して答えた。
「はい、ありがとうございます。またお邪魔させていただきます」
別に来なくてもいいんだけどな。……なんて無粋な事は言わない。かといってそんな頻繁に来られても困るけどな。
兎にも角にも、こうして慌ただしく朝は過ぎていくのだった。
その後俺と橘が学校まで死ぬほど全力疾走した事は言うまでもない。




